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孫文は何をした人?どんな人?その生涯をまとめてみました

孫文

中国で革命の父と呼ばれている孫文。

孫文は日本ともとても親交の厚かった人です。

そんな孫文はどのような人だったのでしょうか。

その生涯についてみていきましょう。

孫文のプロフィール

生誕 1866年11月12日
生誕地 清広東省広州府香山県翠亭村(現在の中山市)
名前 孫文(そんぶん)
字:逸仙
号:中山
没年 1925年3月12日(58歳没)

孫文は何をした人?

ハワイで西洋思想を学ぶ

孫文は農家の村道川を父に、陽氏を母に生まれました。

9歳で父を亡くした孫文は、1878年兄のいるハワイに移住しました。

同地のイオラニ・スクールを卒業し、プナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めます。

しかしキリスト教に傾倒する孫文を心配した兄や母に1883年中国へと戻されました。

実はこの時すでに孫文はクリスチャンになっていました。

革命思想

中国に戻った孫文は、イギリスの植民地下にあった香港の香港西医書院(香港大學の前身)で医学を学びながら、徐々に革命思想を抱くようになります。

孫文はポルトガルの植民地のマカオで医師として開業しました。

まさむね
まさむね
ただの革命家ではなく、医師でもあったのですね。

清仏戦争の頃から政治問題に興味を抱き、1894年ハワイで清朝を倒すための興中会を立ち上げます。

日清戦争の終結後に広州蜂起を企てましたが、密告によって計画は頓挫してしまい、孫文は日本に亡命することとなりました。

1897年に犬養毅の斡旋で早稲田に大きな屋敷を持ち、平岡浩太郎から生活費や活動費を援助してもらいました。

1899年義和団の乱が起き、翌年孫文は恵州で再度挙兵しましたが、これも失敗に終わりました。

その後アメリカを経てイギリスに渡り、一時清国の公使館に拘束されたことを「倫敦被難記」として発表し、世界的に革命家として有名になったのでした。

長い間満州民族の植民地化にあった漢民族の孫文は、独立したいと願っていました。

日本に戻った孫文は、東京で興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成しました。

ここで東京に留学中の蒋介石と出会っています。

1911年に清で辛亥革命が起き、当時アメリカにいた孫文が1912年に帰国すると革命派は孫文を臨時大総統とする中華民国を南京に作りました。

しかし孫文の力は弱くその地位を清朝での実力者だった袁世凱に譲ることになります。

袁世凱は孫文らの勢力を追い詰め、孫文は再び革命を起こしますが破れて日本に亡命します。

孫文は亡命中に「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」と犬養毅に手紙を送っています。

第一次世界大戦後の1919年パリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたことで、中国全土で「抗日愛国運動」が起こりました。
五・四運動です。

この抗日愛国運動は孫文にも影響を与え、近代的な革命政党へと脱皮することを決断したのです。

実際にロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍に当たる国民革命軍と軍官学校を設立しています。

1923年孫文はソビエト連邦代表のアドリフ・ヨッフェとの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」を上海で発表し、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を約束した上で、ソ連との連携を明らかにしました。

広東で孫文は大元帥に就任しました。

しかしこれは、蒋介石らからの反発が強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起こることとなるのでした。

1924年孫文は神戸で「大アジア主義公演」を行い、欧米の帝国主義に対し、東洋の王道・平和の思想を説き日本の友好を訴えました。

ガンでの死去

この頃から孫文は肝臓ガンに侵されており、1925年「革命なお未だ成功せず、同志よって須らく努力すべし」との遺言を記して、療養先の北京で客死し、南京に葬られました。

その墓は巨大で中山陵(ちゅうざんりょう)と呼ばれています。

孫文のエピソード・逸話

恋多き人物だった

孫文は1885年盧慕貞(ろぼてい)という女性と結婚し3人の子供をもうけていますが1915年に離婚しています。

その年に後妻として宋慶齢(そうけいれい)と東京で結婚しています。

日本人にも妻や妾がいました。

1897年に横浜で浅田春という女性と知り合い妾とします。

1904年には大月薫という日本人妻を持ちましたがわずか2年で離婚しています。

大月薫との間にも1人子供が生まれています。

まさむね
まさむね
なんと女好きな、いえ恋多き人物だったのでしょう。

東京で大月薫を妻とした時、中国には妻がいたのですから重婚ですよね。

当時は許されていたのでしょうか?

性格は短気?

孫文は短気ですぐに激昂する人だったと言われています。

しかし一方では人の良い一面もあり、辛亥革命で臨時大統領になったのも束の間で、袁世凱に乗っ取られてしまうような人に対しての見方が甘い部分もあったようです。

明治維新が孫文の思想に影響していた

孫文は1923年に「日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つにつながって東亜の復興を達成する」と発言しています。

孫文はこのように明治維新に共感していたのです。

しかし残念なことに、日本による対華二十一か条要求は「維新の志士の抱負」を忘れ中国への振興政策を進めるものでした。

日本との親交

孫文は日本ととても幅広い交友関係を築いていました。

辛亥革命を支えた犬養毅や宮崎滔天(とうてん)などとは思想の上でも通じ合い、松方幸次郎や安川敬一郎など実業家からは資金の援助も受けています。

また南方熊楠(みなかたくまぐす)とはロンドンで知り合い以降も親交を深めたと言います。

孫文の孫の自伝「建国方略」の中には、孫文を支えた犬養毅をはじめとした日本人の名前を列挙し深く感謝の意を述べています。

3行でわかる孫文のまとめ

まとめ
  • 革命の父として清国から中華民国へと導いた
  • 日本との親交が厚かった
  • 志半ばでの死去

革命家として名前をはせた孫文の生涯を見てきました。

彼の死後、柱となる人物をなくし国民党は混迷し、孫文の片腕と言われた廖仲愷(りょうちゅうがい)は暗殺されました。

孫文の妻の宋慶齢も国民党を去り、その後は蒋介石が指揮をとり北京政府を倒すことになったのです。

孫文の残した革命を蒋介石がやり遂げたのですね。

これで孫文もきっと安らかに眠ることができたことでしょう。

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