源頼朝といえば、鎌倉幕府。
「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせ、一度は耳にしたことがあるはずです。
しかし、近年鎌倉幕府の始まりに対しての議論が白熱しています。
その論点となるのが、鎌倉幕府の立役者、源頼朝の存在なのです。
「そもそも鎌倉幕府って何のこと?何を基準に始まりとしているの?」という人も多いはず。
果たして彼は何を成し遂げた人なのでしょうか。
また、エピソードや逸話は?
簡単にまとめてみました!
目次
源頼朝のプロフィール
源頼朝(みなもとのよりとも)1147-1199。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将、政治家。
鎌倉時代の初代征夷大将軍として広く知られています。
源頼朝は何をした人?
平治の乱からの伊豆への流刑
1160年、平治の乱での敗北により賊軍となった頼朝は、近江国で捕まり京の六波羅へと贈られます。
当然死刑かと思われましたが、平清盛の継母である池禅尼の嘆願などもあり死刑はどうにか免れ、伊豆国への流刑処分に収まりました。
なお、父の義朝・次兄の朝長・長兄の義平はみなここまでに命を落としてしまっているため、殺されなかったのはかなり運がよかったと言えます。
伊豆へ流された頼朝の生活について残された史料はほとんど残されてはいませんが、読経を欠かさず行い、武芸の鍛錬も日々参加していたようです。
また、この期間中に北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び、子供まで作るなど、類家の身でありながらも人生を謳歌していたのではないかとも感じます。
父と兄を失い孤独な日々を過ごしたと考えると、死刑にも及ぶほどの苦しみを味わったのは間違いないでしょうね。
治承・寿永の乱
1180年、後白河法皇の皇子である以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発し、頼朝のもとにも知らせが届きました。
しかし、以仁王らが先に挙兵する中で、頼朝はしばらく事態の静観を決め込みます。
その後、平家が源氏追討を企てているということを知り、自身の身に危険が及ぶと考えてようやく挙兵を決意しました。
坂東の各豪族に協力を呼びかけ、まずは伊豆を制圧した頼朝でしたが、石橋山の戦いで平家方の軍勢に敗北を喫し、山中へ逃げ込むことになります。
数日間の逃亡を経て案房国へと脱出し、他の勢力に加勢を要請すると、その後も多くの軍勢を味方につけ、遂に鎌倉へと入ります。
以降鎌倉を拠点に平家との対立と周囲の豪族の制圧を進め、徐々に頼朝の権威は高まっていきました。
1181年、平清盛が病死すると平家の反乱も次第になりを収めていき、1183年には坂東で頼朝に敵対する勢力はいなくなりました。
内政にも力を入れ、味方となった勢力たちに不満が出ないように立ち振るまい、豪族たちからの支持を集めました。
鎌倉幕府を開く
源頼朝と言えば真っ先に出てくるのが、鎌倉幕府ですよね。
この鎌倉幕府ですが、いつからを幕府の始まりとするのか、たびたび議論がなされていることでも有名です。
多くの大人が覚えてきたのは、「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」だと思います。
1192年というのは、頼朝が征夷大将軍に任じられた年。
つまり、国の実質最高権力者になった年を幕府の始まりとする見方です。
対して、今の説の主力は「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」で1185年となっています。
1185年に行われたのは、諸国への守護・地頭の設置です。
これはつまり、頼朝に諸国に対する軍事・警察・土地支配権が与えられたことを意味しています。
要するに、論点となっているのは頼朝が国を統治できるようになったのはどこからか、というところです。
ほかにも1180年や1184年、1190年など様々な意見が存在していますが、統一された見解は未だ出されていません。
また数年後には、全く別の見解がなされているかもしれませんね。
源頼朝のエピソード・逸話
顔が大きいイケメンだった?
頼朝の容貌に関して、いくつかの文献に記載が残されています。
『源平盛衰記』では、「顔が大きく容貌は美しい」と書かれています。
また、『平家物語』の中では、頼朝と対面した中原泰定の言葉で「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とあります。
このように、当時の感覚からしても源頼朝はイケメンとして見られていたことが窺えます。
ちなみに、身長に関しては甲冑からの推測で165cmはあったのではないかとされており、これは当時の平均よりも高めです。
つまり、身長が高く、イケメンで、権力も持っていたというわけです。
独立心の強かった武士団を1つにまとめ上げた
頼朝の配下についた東国武士団は、当初独立心の塊で、同族以外での協力など一切頭にありませんでした。
自分たちだけで敵を倒して名を上げようとするものばかりだったのです。
しかし、もちろんそんなことでは配下として役に立つはずがありません。
頼朝は癖の強い武士たちを1からまとめ上げ、大きな組織を作り上げました。
息子に対しては親バカだった
息子の頼家が12歳の時。
頼家が鹿を仕留めたことを大変喜んだ頼朝は、妻の北条政子にわざわざ報告の使いを送りそのことを伝えました。
すると、政子からは「武士の子なら当たり前」と冷静な一言をもらったんだとか。
3行でわかる源頼朝のまとめ
- 平治の乱での敗北後、伊豆へ流刑に処された
- 治承・寿永の乱の後、協力者を集めてから平氏を追い詰め、影響力を高めていった
- 鎌倉幕府を開いたことで有名だが、その始まりはまだ確定されていない
伊豆に流され孤独の身となってからも、頼朝は打倒平氏を掲げその機会をずっと窺っていました。
敗北と逃走を繰り返しながらも、持ち前のカリスマ性で力を蓄え、遂には自らが国を動かせるまでに上り詰めたのです。
豪族からも慕われ、その人間性はトップに立つに相応しいものだったと言えます。
北条雅子になってますよ。北条政子ですよ。
ご指摘ありがとうございます。
修正させていただきました。