江戸時代

陸奥宗光ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

陸奥宗光

陸奥宗光という名前、皆さん一度は耳にした覚えがあると思います。

じゃあ具体的にどんなことをした人?と聞かれた時、答えられる人はそう多くないはず。

彼が活躍したのは明治時代の外務大臣としてが主ですが、基本的に出来事ばかりが目立ってその時の外務大臣が誰だったかなどはあまり目立ちませんからね。

しかし、彼は予想以上に重要なことを日本で成し遂げた人物です。

それも、今の世界における日本での立ち位置を決定づけるほどのことです。

では一体どんなことをしたのか?

そして他のエピソードや逸話は?

簡単にまとめてみました!

陸奥宗光のプロフィール

陸奥宗光(むつむねみつ)1844-1897。

江戸末期から明治初期にかけての武士、外交官、政治家。

明治初期に行われた版籍奉還や廃藩置県など、数々の改革に大きな影響を与えた人物として有名です。

陸奥宗光は何をした人?

明治初期の政界での活躍

1886年、陸奥宗光は外務省に出仕し、1888年には駐米公使兼駐メキシコ大使となります。

彼はその後、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結させました。

帰国後、第一次山縣有朋内閣で農商務大臣をつとめ、翌年には第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬、見事初当選しました。

1891年には

  • 足尾銅山鉱毒事件をめぐる田中正造からの質問主意書に「質問の趣旨が分からない」と答える
  • 第1次松方内閣で政務部長となるも薩摩派との衝突で辞任する
  • 自ら日刊新聞を発刊し松方内閣を批判する

など、政治家としていい意味でも悪い意味でも存在感を際立たせました。

その後、1892年に辞職し枢密顧問官(天皇の諮問機関)として働いています。

第2次伊藤博文内閣時の外務大臣

第2次伊藤博文内閣の時、陸奥は外務大臣に就任しました。

そこから、彼は外交において多くの活躍を残すことになります。

まず、1894年にはイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約だった治外法権の撤廃に成功します。

以降、アメリカ・ドイツ・イタリア・フランスなどとも同様に条約を改正し、陸奥宗光が外務大臣を務めている間に、それまで不平等条約を結ばされていた15か国すべてとの間で条約の改正を成し遂げ、世界における日本の地位を一躍高めました。

また、日清戦争を開始させてイギリス・ロシアの中立化を行い、この陸奥の外交政策は「陸奥外交」と呼ばれました。

戦争後、下関条約で日本に有利な条件を得ることに成功しましたが、後のロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉では遼東半島を清に返還することを余儀なくされます。

この時、陸奥は肺結核により病床に伏せており、1896年には外務大臣を辞し、ハワイなどで療養生活を送りました。

そして1897年、54歳の時に息を引き取りました。

1907年にはその功績が讃えられ、外務省に陸奥の像が建立されています。

まさむね
まさむね
彼が成し遂げたことは、それだけ今の日本の立場を形作る上で欠かすことの出来なかったことだったということなのでしょうね。

陸奥宗光のエピソード・逸話

禁錮5年の刑を受けたことがある

1877年の西南戦争の際に、政府転覆を狙っていた土佐派の人物らと陸奥が連絡を取り合っていたことが翌年に発覚。

これにより、禁錮5年の刑を受け投獄されました。

投獄中、彼は妻に手紙を書きながら、自著の執筆やベンサムの著作の翻訳など、精力的に活動を続けます。

1883年に出獄すると、ロンドンに留学し内閣制度や議会など民主政治に関する知識を身につけました。

まさむね
まさむね
これが、後の外交に大きく貢献しているのですね。

投獄されても学ぶ姿勢を崩さないその志があったからこそ、世界との交渉にもひるまずに挑めたのではないでしょうか。

街中で人にぶつからずに歩けた

若いころは、雑踏の中でも他人とぶつからずにすり抜けて歩く能力に優れていたそうです。

まさむね
まさむね
すごいのかどうか分かりにくいですが、これだけの人物の逸話だと言われたら、すごいことのように思えますね(笑)

後妻はかなりの美女だった

陸奥の二人目の妻である亮子は、「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれるほどの美貌の持ち主でした。

前妻の息子と3人で並ぶ写真からは、確かに常人離れした気品が感じられます。

まさむね
まさむね
陸奥自身も相当渋い見た目をしていますから、かなりお似合いの夫婦のように感じられますね。

3行でわかる陸奥宗光のまとめ

では、改めて陸奥宗光についてまとめてみましょう。

まとめ
  • メキシコやイギリス、アメリカなど数多くの国々と平等条約を締結し、それまでの日本に対する不平等条約を撤廃させることに成功した
  • 禁錮5年の刑を受けたことがあるが、投獄されてもなお活動に対する姿勢は変わらなかった
  • 生涯で2回結婚しており、2人目の妻はかなりの美女だった

日本と外国を繋ぐ外相として、多くの国々と国交を結んだ陸奥宗光。

幕末以来押し付けられていた不平等条約を改正し、対等な立場で外国と向き合えるようになったのは、彼のおかげです。

それは、「陸奥外交」と呼ばれるほどの、陸奥ならではの強気な姿勢での外交があったからでしょう。

現代の世界における日本の高い地位も、彼の成し遂げたことが大きく影響しているといっても過言ではありません。

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