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戦国時代

中川清秀はどんな人?荒木村重の運命を握っていた不運の戦国武将

中川清秀

歴史上の偉人の多くは、乱世を生き残り自分の存在を歴史に記すことができた人が多くを占めています。

しかし、その時代の中で不運にも命を落としたため、時の政権下で名前を残すことができなかった人物も多く存在しています。

中川清秀はそんな戦国武将の一人ではないでしょうか。

一時、摂津国に12万石の領地を持っていた清秀ですが、どのような生涯を辿ったのか詳しく見てみたいと思います。

中川清秀のプロフィール

  • 名前:中川清秀(なかがわきよひで)
  • 別名:瀬兵衛(せびょうえ)
  • 享年:42歳(1542年~1583年)
  • 摂津国の戦国武将として池田氏や荒木氏に仕える。のちに信長や秀吉に仕えて秀吉の勢力拡大に貢献する。

中川清秀は何をした人?

中川清秀は摂津国の戦国武将として織田信長が勢力を拡大しつつある中、独自の勢力として活躍していましたが、自分が所属する勢力が弱体化する中で信長に降伏する道を選びました。

また、自身が所属していた荒木村重が信長に反旗を翻したために、再び信長に対抗するなど、敵対する陣営を何度も行き来したりもしました。

最終的に羽柴秀吉の陣営下に入り秀吉の武将として活躍しますが、秀吉が権力を手中に収める過程の中で戦死してしまいます。

まさむね
まさむね
もし生きていれば豊臣政権下の有力大名として活躍していたのかもしれません。

では、具体的にどのような活躍をした人物なのか詳しく見てゆきたいと思います。

中川清秀のエピソード・逸話

摂津国(現大阪府北部)の戦国武将として誕生し池田氏に仕える

中川氏はもともと、清和源氏の一派として摂津国に勢力を持つ小さな国人領主でした。

その後、池田氏に仕えるようになったために、池田氏の属将として活躍し、織田信長と戦っていました。

池田氏の勢力が弱体化すると、織田信長の陣営に入りともに池田氏の元で一緒に戦っていた荒木村重の家臣として織田軍の一員として中国地方などで戦う事になりました。

まさむね
まさむね
小さな領主にとって大きな勢力が近づいてくると、従順な態度を取らなければ攻め滅ぼされてしまうので、中川家にとっては賢明な判断をしたのだと思います。

荒木村重の運命を握っていた?

天正六年、従っていた荒木村重が突然織田信長に反旗を翻しました。

村重の反乱の原因として、中川清秀の家臣が当時織田家に敵対していた石山本願寺に食糧を横流ししていた事が判明したために、処罰を恐れて謀反を起こしたとも言われていますが、他にもいろいろな説があるので真実かどうかわかりません。

また、荒木村重が反乱した際に信長に謝りに行くという事になった時に、「安土城に向かえば殺されるかもしれない」と助言したとも言われ、村重は引き返し謝罪に行かなかったとも伝えられています。

まさむね
まさむね
村重の反乱の原因となり、信長に謝りに行かせない助言をしたという事は村重の運命を握っていた人物であったのかもしれません。

従兄弟の高山右近と多くの戦場を共にする

清秀は、キリシタン大名であった高山右近(たかやまうこん)と常に行動を共にしていました。

それは、父親同士が兄弟でありお互いが従兄弟同士という間柄があったという事も関係しています。

若いころはともに、戦国大名の池田氏に仕え、織田信長の勢力が強まると荒木村重とともに信長に付き、村重が反旗を翻すと同様に信長に反旗を翻し、その後、高山右近とともに再び信長側に付きます。

信長の弔い合戦である山崎の戦いでも高山右近とともに豊臣秀吉側の陣営として活躍しました。

その後、柴田勝家軍と対決する賤ヶ岳の戦いも一緒に秀吉側の陣営として戦いますが、中川清秀は不運にも戦死してしまいます。

歴史の転換点となる大きな合戦には高山右近とともに常に清秀の姿がありました。

幻の賤ヶ岳八本槍

賤ヶ岳の戦いで羽柴軍に所属して活躍した七人の武将を「賤ヶ岳七本槍」と呼びます。

この中には加藤清正や福島正則といった秀吉にゆかりのある武将などが含まれています。

中川清秀は秀吉側の武将としてこの戦いに参加しましたが、不運にもこの戦いで戦死してしまいます。

大名級で戦死した唯一の武将でした。

江戸時代に作られた『太閤記』の中では「賤ヶ岳七本槍」という活躍した武将が描かれますが、もし中川清秀が生きていたらこの中に含まれて「八本槍」であったとも伝えられています。

5行でわかる中川清秀のまとめ

まとめ
  • 摂津国の小勢力として誕生する。
  • 荒木村重の運命を握る!?
  • 村重から離れ再び信長に降伏する。
  • 従兄弟の高山右近と常に行動を共にする。
  • 幻の賤ヶ岳「八本槍」、賤ヶ岳の戦いで戦死する。

中川清秀は摂津国の国人領主として小さな勢力を保っていましたが、織田信長荒木村重らの間で寝返りを繰り返し、自身の所属する勢力を見定めていたのかもしれません。

そんな行動の中には常に従兄弟であったキリシタン大名の高山右近の姿があり、のちの時代の行く末を決める「山崎の戦い」や「賤ヶ岳の戦い」などでもともに行動しました。

摂津国の小さな勢力の戦国武将ではありましたが、信長や秀吉からは大いに認められていたようです。

最終的に豊臣秀吉の勢力下で奮闘しますが、清秀はその勢力拡大の過程で戦死してしまいました。

秀吉の政権下で子孫は活躍しますが、秀吉から叱責を受けて取潰しの恐れがあった時に、賤ヶ岳の戦いで清秀の死という貢献があったおかげで、取潰しを免れた事もありました。

秀吉政権の樹立に清秀が命を懸けて尽力したという事実が、中川家の子孫を守る事になりました。

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