日本の文豪といえば芥川龍之介をはじめたくさんの人がいますね。
その中でも、江戸時代に生まれ明治・大正に活躍した有名な作家といえば夏目漱石です。
彼の小説は「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」などで教科書にもよく取り上げられています。
千円札のモデルにもなりましたから、みんなに馴染み深い人ですね。
夏目漱石の作家デビューは38歳の時だったといいます。
意外と遅かったんですね。
ではそれまで夏目漱石は何をしていたのでしょうか?
この記事では、そんな夏目漱石の生涯についてまとめてみました。
目次
夏目漱石のプロフィール
- 生誕:1867年2月9日
- 生誕地:江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)
- 名前:夏目金之助(俳号:愚陀仏)
- 没年:1916年12月9日(49歳没)
夏目漱石は何をした人?
不遇な幼少期
夏目漱石は当時名主だった父・夏目小兵衛直克と母・千枝の間の末子として生まれました。
父の直克は牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務の取り扱いから、民事の裁きまでやっていたほどの人でした。
だからかなりの権力者で、生活も裕福でしたが、母の千枝は子沢山の上に漱石が高齢出産でできた子供だったため漱石の誕生を恥じていたようです。
あまり望まれて生まれてきたわけではなかったのですね。
生活は豊かだったとはいえ、幕末から明治維新の混乱期で夏目家は傾きつつあったのか漱石はすぐに四谷の古道具屋に里子に出されました。
しかし不憫に思った姉がすぐに実家へ連れ戻したそうです。
その後漱石はまた養子に出されます。
養子に出された先は、父の直克が見所のある人間だと思っていた塩原昌之助でした。
直克は奉公人にやすと言う女性と結婚させ、新宿の株を買ってやるほど信用していました。
ところが昌之助は女癖が悪く、家庭は壊れてしまい漱石が9歳の時2人は離婚し漱石は実家へ戻る事になりました。
実父と養父の間で話がつかず、漱石の夏目家への復籍は21歳になってからだったと言います。
この養父から漱石は金の無心をされるなど大人になっても関係は続いていたそうです。
学生時代
1874年戸田小学校下等小学第8級に入学後、市ヶ谷学校、錦華小学校と転校を繰り返しました。
そして12歳の時に東京府第一中学正則科(現在の都立日比谷高校)に入学しましたが英語の授業がないため、2年ほどで中退、漢学私塾二松学舎(現在の二松學舍大学)へ入学します。
ところが長兄の反対で1年ほどでここも中退しています。
長兄はできの良い漱石を立身出世させ夏目家の再興を願っていたようです。
1883年漱石は英学塾成立学舎に入学し、翌年には大学予備門予科(後に第一高等中学校に改称)に受かりましたが、進級試験の時漱石は虫垂炎を患い落第してしまいました。
その後は私立学校で教師をするなどして自活し、学業に励んでほとんどの教科で首席をとりました。
特に英語がずば抜けていたそうです。
正岡子規との出会い
1889年漱石は同窓生として俳人・正岡子規と出会います。
正岡子規の手がけた漢詩や俳句などの文集「七草集」が学友で観覧された時その批評を漢文で漱石が書いたことにより、2人に本格的な友情が生まれましたのでした。
この頃から「漱石」の名前を使うようになっています。
正岡子規は漱石の漢文や漢詩を見て驚いたそうです。
2人の友情は、漱石がイギリス留学中の1902年に正岡子規がなくなるまで続くことになるのです。
1890年漱石は帝国大学(東京帝国大学)英文科に入学しますが、この頃長兄や次兄、三兄の妻などと死別し、この頃から漱石は神経衰弱になりはじめました。
1892年に漱石は夏季休暇に松山へ帰省する正岡子規とともに、関西旅行へと向かいました。
京都や岡山を見て歩いていた頃、松山の子規から落第を理由に退学する旨の手紙を受け取り、なんとか食い止めようと手紙を送りました。
その手紙に「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を加えています。
そして松山の子規のもとに向かいましたが、1893年3月に子規は大学を中退しました。
この子規への訪問の折に、漱石は自分を作家へと導くことになる高浜虚子と出会っています。
イギリスへ留学
1893年漱石は大学を卒業後高等師範学校の英語教師になりましたが、神経衰弱が進み、肺結核も発病し教師の仕事を辞めています。
そして子規の故郷の松山で教師となり、愚陀仏庵で俳句に勤しみました。
1896年中根鏡子と結婚しますが、流産などで彼女はヒステリーになり自殺を図ったりと夫婦仲はあまり良かったとはいえませんでした。
そんな中1900年に文部省より漱石にイギリス留学が命じられます。
イギリスでシェイクスピアの研究家であるウィリアム・クレイグの個人授業を受け研究に勤しみますが、神経衰弱が悪化し、人付き合いもせず1人部屋にこもって研究をするようになっていました。
そして1902年急遽帰国が命じられ12月にロンドンを立ちました。
この頃の漱石は猛烈な神経衰弱となっていたと言います。
作家へ
イギリスから帰国後、第一高等学校と東京帝国大学の講師になりました。
東京帝国大学は小泉八雲の公認講師としての赴任だったのですが、八雲のその場を詩的な空気にする講義と違い、分析的で硬い漱石の講義は学生に受け入れられませんでした。
また授業態度の悪いところを漱石に叱責された生徒が入水自殺してしまい、それを責められた漱石はまた神経衰弱に陥り、ひどく癇癪を起こし妻と別居したりでしばらくは荒れていました。
それでも1904年には落ち着きを取り戻し、明治大学の講師も務めるようになっています。
その年の暮れに高山虚子から勧められ、処女作となる「吾輩は猫である」を執筆しました。
その後、「坊ちゃん」や「倫敦等(ろんどんとう)」と立て続けに作品を書き上げ人気作家として活躍を始めました。
1907年には一切の教職を離れ、朝日新聞社に入社し本格的に職業作家として進み始めます。
漱石は「虞美人草(ぐびじんそう)」を連載し始めましたが、神経衰弱や胃痛に悩まされました。漱石は自分がそのような状態にあるのに、門下生の森田草平が平塚雷鳥と心中未遂事件を起こし、その後始末に奔走させられる羽目にもなりました。
胃潰瘍での最期
漱石は1910年「三四郎」「それから」そしてそれに続く「門」を執筆途中、胃潰瘍を患い入院します。
伊豆修善寺へ療養に出かけますが、そこで大量に吐血して生死の境をさまようことになりました。
容体が落ち着き病院に再入院となりましたが、その後も胃潰瘍に苦しめられました。
入退院を繰り返し、「彼岸過迄」「行人」「ごゝろ」と次々に書いていきます。
1915年5度目の胃潰瘍で倒れた漱石は、「道草」を書き始めます。
翌年には糖尿病にも悩まされ、フランス文学者の辰野隆の結婚式に出席したあと、体内出血を起こし「明暗」執筆途中に自宅で亡くなりました。
49歳でした。
夏目漱石のエピソード・逸話
名前の由来
漱石が生まれた頃には、生まれた日が庚申(かのえさる)だった子供は大泥棒になるという迷信がありました。
金之助はその日に生まれたので厄除けの意味で「金」の字が名前に入れられたのです。
漱石という名前は、正岡子規が使っていた俳号の一つでした。
負け惜しみの強いこと、変わり者の例えの意味があるそうです。
漱石は正岡子規から正式にこの名前を譲り受けています。
病気との戦い
漱石は胃痛や神経衰弱の他に、肺結核、トラホーム、痔、糖尿病、そして命取りとなった胃潰瘍前多くの病気を抱えていました。
酒は飲めなかったものの、ビーフステーキや中華料理などの脂っこい料理が好きでした。
また大の甘党でもあり、ついには家族に無断で業務用のアイスクリーム製造機を取り寄せ、妻と大げんかになったと言います。
保存されている脳
漱石の遺体は解剖されました。
そして脳と胃は寄贈されています。
脳は今もエタノールに漬けられ東京大学医学部に保管されているそうです。
重さは1425グラムでした。
3行でわかる夏目漱石のまとめ
- 有名な小説家で「吾輩は猫である」や「ごゝろ」などを書いている
- 学校を転校したり、中退したりしながら帝国大学を卒業した
- たくさんの病気を抱えながら執筆活動をした
多くの病気と闘いながら、たくさんの名作品を執筆してきた夏目漱石の生涯を見てきました。
病気とはいえ未完成の「明暗」を書き上げることができなかった漱石の悔しさはいかばかりだったでしょう。
それでも漱石の作品は今も読み続けられていくのです。
幾度も胃潰瘍に苦しみ、それでも書き続けてきたこの偉大な作家夏目漱石はみなさんご存知だと思いますが、1984年から2004年まで日本銀行券の千円札の肖像となっています。