江戸時代

【荻原重秀がしたことまとめ】新井白石との関係や貨幣改鋳について

荻原重秀

荻原重秀(おぎわら しげひで)を知っている人はたぶん少数だと思います。

一体なにをした人なんでしょうか。

荻原重秀をめぐるストーリーは、誰もが大好きな「お金」に関しての物語です。

みんなの関心の的である「お金」だからこそ、大きな誤解も生まれます。

そんな人々の思惑によって、その人生が悲劇的なものになってしまったのが、荻原重秀といえます。

それではさっそく紹介していきましょう。

荻原重秀のプロフィール

  • 生誕 1658年
  • 死没 1713年9月26日
  • 享年 56歳

荻原重秀は、勘定所役人の荻原種重の二男として江戸に生まれました。

まさむね
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勘定所は、幕府の財政を担当する役所ですから、のちに勘定奉行(現在の財務事務次官)となる重秀は「お金」に身近な環境で育ったといえるでしょう。

1674年に勘定衆に加わります。
役人としてのキャリアのスタートです。

以後、順調に出世し、1683年には勘定組頭、1687年に勘定頭指添役(勘定吟味役)、1696年には勘定奉行に上りつめます。

ときは5代将軍徳川綱吉の治世でした。

荻原重秀が悪名ととにイメージされることになる「貨幣改鋳」は、1695年に行われています。

その後も長崎貿易の改革など、注目すべき仕事をしていましたが、1712年失脚してしまいます。

この失脚には、当時の大学者である新井白石による3回もの弾劾が大きく関係しています。

この新井白石こそ、荻原重秀の人生を大きく左右した張本人でした。

そして、翌年の1713年9月26日に重秀は亡くなりました。

まさむね
まさむね
病死とも獄死とも、さらには自殺とも言われていますが、真相ははっきりしていません。

荻原重秀は何をした人?

荻原重秀は幕府の役人でした。

それも財政をつかさどる勘定所の役人でした。

重秀の大きな仕事は、やはり「貨幣改鋳」なのです。

この「貨幣改鋳」こそが、荻原重秀がただの役人でなかった証拠であるとともに、彼を悪名とともに後世にイメージされる原因ともなったものでした。

具体的には「元禄小判」の鋳造です。

そこで、「元禄小判」をめぐるストーリーを紹介しなければなりません。

小判といえば金です。

江戸時代、最大の金山があったのは佐渡でした。

重秀は佐渡奉行も兼ねていました。

ここでの経験が、のちの「元禄小判」の鋳造に生かされることになります。

まずは佐渡金山での重秀を見てみましょう。

佐渡金山での活躍

重秀は1690年に勘定吟味役と佐渡奉行を兼ねることになりました。

佐渡に渡ったのは翌年です。

当時の佐渡は徐々に金の産出量が減少し、立て直しのための改革が必要でした。

重秀が行ったのは、大量の資本、つまり「お金」を投入してインフラ整備することでした。

具体的には巨大な排水溝の掘削です。

金山のなかでは、作業の過程で大量の地下水を排水しなければなりません。

この排水のために多くの人手が取られ、仕事が進まなかったのです。

重秀は、排水溝を整備することによって、作業効率を劇的に改善しました。

佐渡金山の生産量を回復させることに成功したのです。

まさむね
まさむね
重秀の金山に対する深い理解と、必要な投資をためらわない実行力がよくわかるエピソードだと思います。

元禄小判の鋳造

5代将軍の徳川綱吉は、生類憐みの令でも有名ですが、同時に寺院の造営なども熱心におこないました。

結局、出費がかさむので財政状況は悪くなります。

さらに、この時代になると、非常に豊かだった金銀の産出量も減少傾向になり、幕府の収入も減ってきました。

まさむね
まさむね
出費が増えて収入が減る、まさに「お金」がなくなる鉄板ですね。

幕府としては何らかの対策をうたなくてはならなくなりました。

そこで目をつけたのが小判の改鋳です。

日本で通貨を発行できる権限をもっていたのは徳川幕府だけでした。

あるいは通貨発行権を独占していたのが徳川幕府と言い直してもいいでしょう。

現在の日本では「円」という通貨を発行してよいのは日本政府だけです。

民間でそんなことをしたら、通貨の偽造で逮捕されます。

そこで、当時、「お金」として使われていた慶長小判を造りなおして、新たな小判を造ろう、という流れとなったわけです。

なぜそうなるのでしょう?

それは、小判は金でできていますが、この金がふくまれる量を少なくした小判を造れば、あまった金で小判を増やすことができると考えたからです。

実際「元禄小判」の金の含有量は慶長小判の6割強といったところです。

つまりおよそ3割の金は使わずに手元に残るわけです。

その3割の金でさらに小判を造ることができます。

通貨を発行できるというのは大変な利益を生むことができるのです。

まさむね
まさむね
政府が偽造を厳しくとりしまるのも理解できますよね。

しかし、こういう貨幣改鋳には、副作用もあります。

物価の上昇、インフレーションです。

金の含有量を少なくした小判を慶長小判と同じ価値で流通させようとすれば、当然そうなるでしょう。

貨幣である小判の価値が下がること、それがインフレだからです。

まさむね
まさむね
逆に貨幣の価値があがってモノの価値が下がること、これがデフレーションですね。

重秀の鋳造した「元禄小判」が流通したあと、日本はたしかにインフレになりました。

しかし、最近の研究では年率3%弱のマイルドなインフレだったという見解もあります。

少なくとも、庶民はそれほど貨幣改鋳で苦しんだわけではありません。

では、なぜこの貨幣改鋳によって、重秀が悪名を負わなければならなかったのでしょうか。

それは、相次いだ天災と宿敵である新井白石が大きく関係しています。

未曽有の災害が頻発

荻原重秀にとって不運なことに、貨幣改鋳後しばらくして、未曾有の災害が頻発したのです。

まずは1703年の元禄大地震です。

関東地方を襲ったこの大地震は、相模湾の津波も凄まじかったようで、犠牲者は10,367名に及んだと当時の記録にあります。

さらに4年後の1707年、今度は宝永大地震が襲います。

東海から関西にかけての大地震で、土佐は大津波に襲われたようですから、いわゆる南海トラフ級の地震だったと想像されます。

宝永大地震の49日後、今度は富士山が大爆発します。

対応に追われる幕府にとっては「お金」はいくらあっても足りない状況だったでしょう。

さまざまな増税策も検討されました。

こういった続発した天災によって、人心というのは極めて不安定になるものです。

為政者である幕府が不満のはけ口になるのは想像しやすいことです。

その幕府の中心にいて財政の責任者だったのが荻原重秀でしたし、人心の不安を利用して重秀を攻撃したのが新井白石だったわけです。

この新井白石に憎まれたことが重秀にとって致命的でした。

そして、白石の重秀に対する悪感情は、嫉妬の入りまじった厄介なものでした。

ここに荻原重秀は、歴史の舞台から退場することとなったのです。

荻原重秀のエピソード・逸話

荻原重秀は著作を残しておりません。

かれは実際の政治をおこなう実行の人だったからです。

そして、そのことが彼自身の弁明の機会を奪い、悪名を負わせられた原因でもあります。

ここでは、重秀の貨幣に対する考え方と、新井白石との関係について紹介しましょう。

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荻原重秀の貨幣に対する考え方

重秀の有名なことばに、「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」というのがあります。

たとえ瓦礫であっても、国家が造れば貨幣となるのです。

小判の素材が金だから尊重されるのではなく、幕府、つまり国家が造った小判だから貨幣として通用するのだ、というところでしょう。

まさむね
まさむね
だから、貨幣改鋳をためらってはならない、重秀はそう言いたいのでしょう。

たしかにその通りで、私たちも今の一万円札がただの紙であることを知っています。

この一万円札の製造費が非常に高額だから、一万円として使えるなどとは考えていません。

日本銀行が、国家が一万円として通用すると保証しているからこそ、一万円の価値があるとみなしているだけです。

重秀は、江戸時代に貨幣の本質をしっかりと見極めていた、数少ない人物だったのです。

新井白石にめちゃくちゃ憎まれていた

新井白石は大学者であり、著作も数多くあります。

一時期は、学者でありながら政治に深く関与して、幕府の政策を左右した人物としてもてはやされたこともありました。

その白石が深く憎悪したのが荻原重秀なのです。

その憎悪のすごさはハンパではありません。

3回も重秀の弾劾状を提出し、重秀を引きずり下ろしただけでは飽き足らず、自伝の「折りたく柴の記」でも重秀を酷評しています。

その批判はちょっと常軌を逸していました。

弾劾状のなかでも、災害がつづくのは、間違った政策を行ったため罰があたったと言わんばかり、ほとんどオカルトです。

ですが、白石は経済政策には無知でも、深い古典の教養と文章力を持っていました。

重秀が長い間、正当な評価を受けてこなかったのは、ひとえに白石が原因なのです。

4行でわかる荻原重秀のまとめ

まとめ
  • 佐渡金山を思い切った政策で復活させた
  • 貨幣改鋳をおこない、幕府財政を立て直した
  • 貨幣について正確な認識をもっていた
  • 新井白石に憎まれたせいで、長い間、誤解されていた

いつの時代も政治の中心にいる人というのは批判の的となるものです。

しかし、重秀は民衆のことを考え、策を講じていました。

生前に評価されなかったのは残念ですが、今でも記録に残っていることを考えると、彼が行った功績は大きなものだったと言えるでしょう。

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