飛鳥時代に日本に伝来した仏教は、その初期から権力に利用され、また仏教側も権力と結びつき、あるいは自らが権力となって威勢を誇り、本来の姿から逸脱していました。
ゆえに日本に純粋に仏教の修行をし、お釈迦様の教えに近づいた人は数少ないです。
そんな中で、仏教そのものの生き方を貫き通したのが“大愚”良寛禅師です。
目次
良寛のプロフィール
良寛(りょうかん)は、越後=現在の新潟県の一部に生まれました。
生年は、逝去時の年と享年から逆算して1758年。
江戸時代が終わる100年ちょっと前です。
名主が嫌で出家
良寛の生家はその土地の名主、いわゆる庄屋さんでした。
長男の良寛は、本来家を継いで名主になるはずでした。
それが18歳のときに出家してしまいます。
庄屋さんというのはいわば村の世話役です。
領主と領民との間に立つ調停役であり、時に板挟みになる損な役回りになることもあります。
良寛は近隣にあった曹洞宗の光照寺で出家し、禅の修行に打ち込みました。
国仙禅師のもとで修業する
22歳のとき、その光照寺に、備中=今の岡山県のあたりの円通寺から、国仙という僧侶が訪れて来ました。
その教えを受けた良寛は国仙に弟子入りし、円通寺までついていって、国仙が亡くなるまで10年以上修行しています。
39歳に越後に帰郷した良寛は、空いている庵を見つけては住み着いて、なおも修行を続けました。
庵を点々と移り住んでいた良寛は、48歳のときにかねてより交流があった医師の原田鵲斎から越後最古といわれる国上寺の中にある五合庵を紹介され、定住するようになります。
修行しつつ布教を行う
以後10年以上五合庵で修行をしつつ、近隣での布教も行い、61歳のときにより里に近い乙子神社に庵を結んで70歳まで過ごしました。
70歳になって長岡の庄屋であった木村家に引き取られ、新しい住居を新築するというのを断り、庭の隅の薪小屋に畳を敷いてもらって住処とします。
そのころ、良寛を慕って貞心尼という尼僧が訪ねて来て、弟子になりました。
貞心尼は何度か良寛を訪ね、交流しています。
そして良寛が74歳のとき、病を得て倒れます。
良寛はそのままかけつけた貞心尼に看取られ逝去しました。
良寛は何した人?
良寛が国仙の下で修行した円通寺について詠んだ詩にこんな部分があります。
「会読高僧傳 僧可々清貧」
解釈がいくつかありますが、大雑把に言えば高僧の伝記を読むと皆清貧であったということです。
良寛はそれに従って生涯清貧を貫きました。
村に入り手を差し伸べる
日本の僧侶には時の権力者と結びつき、財を成した人も多くいます。
でもそれは仏教の本来の姿からかけ離れています。
良寛は権力には一切近づかず、財を蓄えようともしませんでした。
それは、良寛が学んだ曹洞宗の日本での祖・道元禅師が説いた「衣食のことに思い悩まず、パトロンや親類に頼らず、もし食べ物がなくなったならば托鉢を行えばよい」という教えを頑なに守ったためでした。
道元も、時の権力者・北条時頼を教化したものの、その権力とは結びつかず、鎌倉を去っています。
そして、良寛は村の人達と交わり、難しい説法ではなく教育を受けていない農民でもわかりやすいように仏教を説きました。
時には子どもたちに仏教説話を物語として聞かせることもあったようです。
禅宗では、悟りを得ることを最終目的とはせず、悟りを得た後に市井に入り、救いの手を差し伸べることこそ最終段階としています。
書家・詩人良寛
良寛は書家として生前から有名で、行く先々で書を求められました。
ただ、それを断ることも多かったようです。
それは、お釈迦様が教えの詩を唱えたとき、その報酬として得たものは食べてはいけないと説いたのと同様、書の報酬をよこそうとしたものは断ったのでしょう。
そのかわり、報酬などよこさない子供の凧には書を残したりしています。
楷書は特に、まるで漢字を初めて覚えた小学生が書いたような、バランスがばらばらで左右に傾いた字です。
あるいはそこにある朴訥さに温かみを覚える人もいるのかもしれません。
良寛の書を評価する人には叱られるかもしれませんが、あるいは良寛本人にはじょうずに字を書こうという意識はなかったかもしれません。
良寛はまた詩人としても知られています。
生涯に残した詩は、漢詩・和歌を合わせて2000以上あるといわれます。
良寛のエピソード・逸話
良寛はおそらく日本最後の清貧僧です。
現代の物質文明で暮らす日本人には理解できないのではないかと思います。
泥棒に布団を布施する
良寛が山中の庵に住んでいたころ、夜寝ていると泥棒がやってきました。
といっても、日々を托鉢だけに頼り清貧に生きる良寛の庵に盗むものなどありません。
泥棒はそこで良寛が寝ていた布団を盗もうとしました。
それに気づいた良寛は、寝返りをうつふりをして布団を盗みやすくしてあげました。
そんな泥棒を良寛は咎めることもせず、その夜は座禅をして過ごしました。
お釈迦様が説いた仏教の修行に布施行があります。
現代日本ではお布施は宗教が信者から財産を搾取する行為であると考えられています。
でも、本来は他者に何かを与えることです。
良寛は托鉢で飲食物を布施され、そのかわり仏教の教えを説くという布施を行っていました。
本来布施というのはお互い与えるというものです。
良寛は、布団を盗まれたとは言っていません。
「泥棒が布団を持ち去った」と書き残しています。
この境地において、良寛は現在ミニマリストと言われる人たちと一線を画しています。
実は子供が苦手だった?
霞たつながき春日を 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ
良寛が残した和歌の中でも有名な一首です。
うららかな春の一日、良寛が子供と手まりをついて遊ぶ姿がありありと浮かんでくるようです。
良寛は托鉢のとき常に手まりを懐に入れ、子供がいたらいっしょに遊んでやったといいます。
時には子どもたちが庵に遊びに来ることもあり、そんなときは仏教の説話を子供がわかりやすいように話して聞かせました。
でも、実は良寛は托鉢のときにつきまとい、からかってくる子供が苦手だったという話もあります。
そこで苦手を逆手にとり、子どもたちの懐に自ら飛び込んで解決してしまったというのがまた良寛のすごいところ。
これもまた、お互いに与え合うという良寛の布施行の一つであったかもしれません。
4行でわかる良寛のまとめ
自らを「大愚」と号した禅僧、良寛のまとめです。
- 18歳で出家し、庄屋の跡継ぎを捨てる
- 22歳で国仙禅師と出会い、備前で全修行
- 38歳で帰郷し、清貧を貫きながら布教する
- 多くの書と、2000を超える漢詩、和歌を残す
良寛の信徒であった解良栄重は、良寛禅師が訪ねてくると家の中が和やかになり、禅師が去ったあとも数日その和やかさが残ったと書き記しています。
そこにいるだけで場を和ませてしまうような僧侶は何人いるでしょうか?
良寛は、ある宗派の祖でもなければ、その中で位が高い高僧でもありません。
でも、間違いなく名僧ではあったでしょう。