真田幸村(さなだ ゆきむら)は人気の高い戦国武将のひとりです。
大坂の陣での大活躍によって、長きにわたり、多くの人々に愛されてきた英雄と言えるでしょう。
滅ぼされようとする豊臣家に味方し、あと一歩のところまで家康を追いつめ、力尽きた幸村は、まさに日本人好みのヒーローです。
この記事では幸村にスポットをあて、その人となりと生涯を探っていきます。
目次
真田幸村のプロフィール
- 本名 信繁(のぶしげ)
- 生誕 1567年
- 死没 1615年5月7日
- 享年 49歳
真田幸村は1567年、真田昌幸の二男として甲府で生まれました。
武田氏の重鎮として活躍していた真田昌幸でしたが、1582年に織田信長によって武田氏が滅ぼされます。
昌幸は信長に臣従しますが、すぐに信長も本能寺に斃れてしまします。
その後は北条氏、上杉氏、徳川氏などの周辺勢力をたくみに利用しながら、真田家の独立を守り抜きました。
幸村自身も、人質として上杉景勝のもとに送られたかと思えば、つぎは豊臣秀吉のもとへ送られたりと、目まぐるしく生活環境を変えざるを得ませんでした。
それでも、秀吉のもとで人質とはいえ、直臣として仕えたことが、人生の方向を決定づけていきます。
豊臣家の奉行である大谷吉継の娘をめとり、豊臣家との関係を深めていくことになったからです。
関ケ原の戦いのときには、父・昌幸と幸村は石田三成方へ、兄・信之は徳川家康方につくことになりました。
この時、上州上田城で籠城した昌幸・幸村親子は、徳川秀忠軍をさんざん翻弄し、結果、秀忠は関ケ原に参陣できなかったのは有名な話です。
戦後、昌幸・幸村親子は信之のおかげで命は助けられ、九度山村(和歌山県)に配流ということに決まりました。
ここから長い流人生活が始まります。
父・昌幸は1611年に亡くなります。
本来なら幸村もここでその生涯を終えるはずでした。
ところが、情勢が大きく動き出しました。
徳川家康が、豊臣家をつぶそうとあからさまな行動に出たのです。
いわゆる方広寺の鐘銘事件です。
秀頼が奉納した鐘の銘に家康が言いがかりをつけた醜い事件です。
豊臣方は挙兵に追い込まれます。
幸村の最後の、そして最大の舞台である大阪の陣のはじまりです。
真田幸村は何をした人?
真田幸村は一軍人にすぎません。
九度山に幽閉されてからは、家族と近しい人々とともに、つつましい生活をおくっていました。
そんな彼に最大の見せ場を作ったのは、歴史の偶然です。
豊臣家と徳川家の関係が急速に悪化し、一触即発の局面になってきたのです。
無理難題で豊臣家を挑発する徳川家康。
その豊臣家から誘われて、幸村は大坂城入りを決断します。
かたや日本を支配する絶大な権力者の老人と、自分以外に何も持たない一人の男の戦いです。
太陽と月のように圧倒的な差があるのです。
しかし、この取るに足りない塵のような存在が、ほんの一瞬ですが、太陽の存在を脅かすことになるのです。
圧倒的な家康軍に対して幸村がどう戦ったのか、これから見ていきましょう。
真田丸
真田幸村が大坂入りしたのを聞いた家康は、「籠城したのは真田の親か子か」と狼狽した姿を見せたそうです。
注進のものが「子のほうです」と答えると、少し安堵したと伝えられています。
ともかく幸村は大坂入りしました。
他にもさまざまな牢人たちが大坂城に集結し、その数10万人といわれますから、相当な規模です。
ただし、所詮よせあつめですから統制もへったくれもありません。
有体にいえば烏合の衆です。
さらに大坂城古参と新参との相互不信もあります。
そのうえ君主の秀頼は22歳の若者で、実権は母親の淀君が握っていました。
淀君の寵臣である大野治長が万事を取り仕切っていましたが、決定権はあくまで淀君にあります。
いわば現場の声がまったく上層部の意志決定に影響を与えない、いびつな組織構造でした。
金地院崇伝などは大坂の牢人たちを日雇人夫と呼んでいます。
そのような状況の中、幸村は城南の外堀に砦をつくります。
いわゆる真田丸です。
真田丸をつくった地点は平野口ですから、大軍が一番攻め込みやすい場所に砦を構えたことになります。
ですが、戦略上もっとも重要な地点をおさえたのは、やはり、この未曾有の大いくさで自らの実力を存分に発揮したいという思いが強かったからではないでしょうか。
関ヶ原から14年、九度山に幽閉されていた幸村にとって久々の、そして最後の大舞台です。
対する徳川勢は総数20万とも号する大軍です。
家康は11月17日には住吉に到着しました。
大坂冬の陣のはじまりです。
12月4日、徳川勢がいよいよ真田丸に攻めかかります。
井伊直孝、前田利常、松平忠直の軍勢が襲い掛かりますが、準備万端の真田勢に散々な目にあわされます。
徳川勢の完敗です。
この戦いは非常に話題になったようで、京都の公家が日記にその旨を記しています。
幸村はこの戦いで武名をあげることに成功しました。
真田丸での幸村の活躍もさることながら、さすがは難攻不落の名城・大坂城です。
20万の大軍を擁する家康といえども、そう簡単には手が出せません。
しかも、季節は冬です。
長期の包囲戦は、攻め手にとって不利です。
そこで、家康は次の作戦に移ります。
大坂との和睦交渉です。
一番効果的だったのは、ブランキという大砲だったといわれています。
この大砲で大坂城の天守閣を砲撃し、淀君の侍女2名が即死しました。
この事件に恐れをなした淀君が講和を急がせたと言われています。
知らなかったのは戦場も政治も知らない淀君とそのとりまきだけです。
ここに大坂城の命運は決しました。
家康の本陣に突撃
講和の条件として、大阪城の三の丸、二の丸の堀を埋めるというのが含まれていました。
これらの堀が埋められれば、もはや城は本丸のみになり、籠城は不可能となります。
はじめの戦の目的は講和に持ち込むことで、次の戦で豊臣家を滅ぼすという二段構えです。
堀さえ埋めてしまえば、あとは煮て食おうが焼いて食おうが思いのままだからです。
家康も着々と戦争の準備を整え、時が来たら大坂城を攻め落とすのみです。
大坂方も手をこまねいてはいられませんが、やれることは限られています。
今度の戦いは籠城戦ではありません。
野戦で勝敗を決するしかないというきわめて不利な状況です。
1615年4月には、家康率いる東軍の配置はほぼ完了しました。
いよいよ大坂夏の陣が幕をあけます。
4月29日には大坂方の塙団右衛門が戦死します。
5月6日には道明寺の戦いで、大阪方の猛将・後藤又兵衛も伊達政宗によって討ち取られました。
勢いづいた伊達軍はさらに追撃を開始しますが、ここで真田幸村が応援として到着し、真田は伊達政宗を撃破して、友軍を退却させました。
運命の時が近づいてきました。
5月7日、幸村は茶臼山に陣取ります。
真田軍の甲冑はすべて赤で統一された「赤備え」の軍隊です。
茶臼山に陣取る真田軍は、さぞ東軍からも目立つ存在だったろうと思います。
しかも、東軍はどうせ勝ち戦との油断から、死ぬ気で戦う気概に欠けていました。
必死の覚悟の真田軍と、戦後の恩賞に思いをめぐらす東軍の将兵と、気持ちのうえで両者には天地の開きがありました。
幸村が狙うのは家康の首ただ一つです。
真田軍およそ1万は家康の本陣めがけて突撃を敢行します。
家康本陣の前には、松平忠直軍およそ1万3000が控えていました。
しかし、幸村は迷いません。
松平軍に一気に突っ込みます。
松平軍を蹴散らした真田軍も損害は決して少なくありません。
しかし、目的は家康の首です。
真田軍はさらに家康本陣に突撃します。
慌てふためいたのは家康軍の先鋒です。
まさか真田軍がここまで突撃してくるとは思わなかったのか、はたまた命が惜しくなったのか、逃亡するものが続出し、家康軍は大混乱に陥りました。
家康の傍らには、側近1名しか残らないほど真田軍に対する対応に追われ、家康の旗まで味方の兵士に踏み倒される有様でした。
3度も本陣めがけ突撃し、総崩れになった家康軍でしたが、真田軍も損害を拡大させていきました。
あと一息というところで真田軍の力も尽きました。
部下のほとんどが討ち死にし、幸村自身も傷を負い、もはや打つ手はありません。
ついに幸村もその命を落としました。
大坂城も陥落、日本史上最大規模の攻城戦はこうして幕を閉じました。
真田幸村のエピソード・逸話
真田幸村のエピソードや逸話を少しご紹介しましょう。
イケメン武将ではなかった
幸村といえば、シミュレーションゲームのキャラクターなどではかなりのイケメンとして描かれることが多いですが、実際はどんな風貌だったのでしょうか。
証言が残っているのは大坂城での幸村についてですから、かなりのおっさんになってからです。
50手前の幸村はどんな外見だったんでしょう。
証言によれば、幸村は小男だったようです。
当時の日本人の平均身長が160前後だとすれば、その中でも小男だったなら相当身長は低かったと考えられます。
額に傷跡もあったようです。
幸村自身の手紙によれば、ひげも白く歯も抜けていたようです。
性格については、兄・信之の証言があります。
幸村の性格は柔和で言葉も少なく、怒ることはほとんどなかったということです。
本名は「信繁」なのに、「幸村」のほうが有名
幸村の本名は「信繁(のぶしげ)」です。
史料によっては「信仍」と書かれていたりします。
では「幸村」というのはどこから出てきたのでしょう?
どうやら、本人が幸村と名乗ったことはないようです。
おそらくは軍記物の影響で、「幸村」という名前が定着したのだろうといわれています。
ただ、「幸村」の名前はかなり早い段階で一般に膾炙しており、18世紀初頭にはすでに「幸村」が一般的だったようです。
3行でわかる真田幸村のまとめ
- 真田丸での戦いぶりで名前をあげた
- 家康の本陣を大混乱に陥れ、あわやというところまで家康を追いつめた
- 本人は「幸村」と名乗ったことはなかった
真田幸村は今も昔も日本人にとってヒーローでした。
おそらくこれからもそうであり続けるでしょう。
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」という童歌が当時の京都で歌われたそうです。
ここに民衆の気持ちがあるように思います。
今回、あまり詳しくは紹介しませんでしたが、実は家康の豊臣家に対する策略は極めて悪辣なものです。
人間心理の弱みに付けこむやりかたは、見ていて決して気持ちのいいものではありません。
多くの人々も、たとえその詳細は知らなくても、それを敏感に感じ取っているのだと思います。
幸村が現在もなおヒーローであり続けるのは、その家康に一矢むくいたからではないでしょうか。
幸村が長い間人々の同情と共感を集めているのは、醜い強者をのさばらせたくない私たちの美意識によるのかもしれません。