戦国時代

真田昌幸ってどんな人?幸村の父の逸話をまとめてみました

真田昌幸

みなさんは真田昌幸(さなだ まさゆき)をご存じでしょうか?

大河ドラマ「真田丸」で草刈正雄さんが見事に演じていましたね。

真田幸村のお父さんです。

どうやら、真田家は徳川家にとって相性が悪いようです。

親子そろって真田は徳川を苦しめました。

この記事では真田昌幸はどんな人物だったのか、わかりやすく簡単にご紹介していきます。

真田昌幸のプロフィール

  • 生誕 1547年
  • 死没 1611年6月4日
  • 享年 65歳

真田昌幸は信濃(長野県)の生まれで、武田家の名将・真田幸隆の三男です。

幸隆は、武田信玄が信濃の村上義清と争った際に武田側につき、信玄が攻略に手を焼いた戸石城(長野県上田市)を単独で攻略してしまいます。

この見事な働きにより幸隆は武田家でその実力を認められました。

この名将を父として生まれた昌幸は、幸隆に勝るとも劣らない一癖も二癖もある武将に成長していきます。

まさむね
まさむね
ちなみに幸隆は1574年、つまり長篠の戦いの前年に死去しました。

武田家の没落を見ることなく世を去ったわけです。

しかし、その長篠の戦いでは幸隆の長男・信綱、二男・昌輝の二人が戦死してしまいます。

結果、三男の昌幸が真田家の家督を継ぐことになりました。

家督を継いだ昌幸は、衰退していく武田家を後目に、自らの勢力を拡大していきます。

1580年には上州沼田城(群馬県沼田市)を勢力圏におさめました。

その2年後には武田家が滅亡してしまいます。

きわめて不安定な情勢のもとでしたが、昌幸は見事なバランス感覚で織田家・上杉家・北条家・徳川家の間を立ち回り、自主独立を保ちます。

上田城を築城して居城とし、徳川家の猛攻も防ぎました。

やがて豊臣秀吉に臣従し、紆余曲折はありましたが、どうにか本領を安堵することができました。

昌幸のクライマックスは関ケ原の合戦において、秀忠軍を翻弄し足止めを食らわし、結果、秀忠が関ケ原に遅参する一因をつくったことです。

煮え湯を飲まされた徳川家は昌幸を殺そうとしましたが、昌幸の長男・信之のとりなしで命は助けられ、九度山村(和歌山県)に配流ということになりました。

九度山での長い貧窮の生活は、昌幸を徐々に打ちのめしたようです。

1611年6月4日、昌幸は波乱の生涯を閉じました。

真田昌幸は何をした人?

真田昌幸の本領が発揮されるのは、何といっても武田家滅亡後の混乱した信濃においてです。

ピンチのときこそ、その人の本質がはっきりと現れるものです。

昌幸の目的はたったひとつ、生き残ることです。

弱小勢力にすぎない真田家が、どんな奇策をもちいて周りの強大な勢力とわたりあっていくのか、つぎに見ていきましょう。

縦横無尽の外交戦略

武田家が滅びたのは1582年3月11日です。

この時の真田昌幸の勢力圏は信濃の戸石城、上野の岩櫃城などです。

まさむね
まさむね
現在の長野県の北東部と群馬県の西部が主な領地といっていいでしょう。

北方の越後(新潟県)には上杉景勝が盤踞していますし、上野の南には北条氏政が勢力を広げています。

どちらも強国ですから、真田家単独での対抗は難しい相手です。

そこで、武田家が滅びた後、昌幸は織田家の配下となります。

武田家を滅ぼしたのは織田信長ですが、当時の信長はまさに天下統一目前。

昌幸が織田家に臣従するのは自然な流れです。

ところが、その信長が6月に本能寺で明智光秀に殺されてしまいます。

織田家の勢力は四分五裂になってしまい、信濃・上野も内紛で混乱状態に陥りました。

権力の空白が生じたとき、何が起こるでしょうか。

自然は真空をきらう、といいます。

当然、他の勢力がその真空地帯になだれこんでくるのです。

まずは、北条家が上野に侵入してきました。

昌幸は素早く行動しました。

まず沼田城を落とし、岩櫃城の守りを固めます。

間髪を入れず、今度は上杉景勝が北信濃に進行すると、昌幸は即座に上杉家に降り、その2週間後には今度は北条家に降ります。

まさむね
まさむね
状況が変わったということでしょう。

その2か月後には北条家を裏切り、今度は徳川家康につきます。

目まぐるしく変わる状況に対処する昌幸の姿は、ずいぶん節操のないように見えますが、結果として領土を守り抜いた昌幸の戦略眼は間違っていなかったと言えるでしょう。

まさむね
まさむね
選択を誤ると全員を敵に回してしまうリスクもありながら、よく上杉・北条・徳川の諸勢力のはざまで生き延びたものだと感心します。

二度も徳川勢を退ける

1582年から3年ほどは徳川家に臣従して、この間に上田城も築城した昌幸でしたが、またもや風雲急をつげます。

家康と秀吉の対立が深刻になってきたのです。

家康は、背後の憂いを断つために、北条家と友好を結ぶ必要がありました。

ところが、真田家と北条家とは上野で境を接しているため、小競り合いが絶えません。

長い敵対関係にあった北条家と徳川家の和睦は、昌幸にとって好ましいものではありませんでした。

しかも、家康は和睦の見返りとして、北条家に沼田城を引き渡そうとしていました。

沼田城は昌幸が苦労してやっと手に入れた城です。

当然、納得できるものではありませんでした。

昌幸は家康を裏切り、上杉景勝につきます。

家康は昌幸に激怒し、軍勢を差し向けたのです。

第一次上田城合戦(1985年)です。

徳川勢はおよそ7000、迎え撃つ真田勢は約1500です。

まともにぶつかっては昌幸に勝ち目はありません。

戦いは籠城戦となります。

数で勝る徳川勢は、一気にカタをつけようと上田城におそいかかります。

総構えに殺到した徳川勢は城内からの恰好の的となり、鉄砲による一斉射撃を食らいます。

そのうえ、昌幸はそこかしこに伏兵を設けていました。

徳川勢はうまく退却することもできず、真田勢にさんざん打ち破られます。

神川で溺れ死んだ徳川方の兵も少なくありませんでした。

この戦いで徳川家は大きな損害を出し、真田家はその武名をあげることに成功しました。

昌幸はもう一度、この上田城で徳川勢と相まみえます。

関ケ原の戦いです。

石田方に味方した昌幸は上田城にふたたび籠城し、徳川秀忠ひきいる約3万8000もの大軍を迎え撃つことになったのです。

第二次上田合戦です。

今度の戦いも籠城戦です。

しかし、徳川勢も今度は不用意には攻めません。

そこで、真田勢が城から打って出て徳川勢を挑発し、徳川に蹴散らされたと見せかけて退却します。

徳川方は追撃して城にせまるのですが、それこそまさに昌幸の思うツボでした。

神川の上流につくっておいた堰をやぶり、押し寄せる川の水に徳川勢が慌てふためいたその時、昌幸は城内から打って出て混乱する徳川勢を打ち破りました。

結局、上田城で時間を費やした秀忠軍は、肝心の関ケ原の合戦に間に合わないという大失態を演じました。

まさむね
まさむね
ただ、最近の研究では、徳川勢の損害はさほどひどいものではなく、大規模な戦闘もなかったのではないか、という見解が有力になっているようです。

いずれにしても、2度の籠城戦で徳川家にたいして劣勢でありながら一歩も引かなかった昌幸の武名が、多くの人に記憶されたことは確かなのです。

真田昌幸のエピソード・逸話

昌幸のエピソードを二つほど紹介しましょう。

犬伏の別れ

犬伏は下野国(栃木県)にあります。

ここで、真田親子は石田三成につくか、徳川家康に与するか、意見をたたかわせたのです。

どちらが勝っても真田家が存続するように、長男・信之は家康へ、昌幸・幸村は石田三成へ与することになりました。

信之の妻は家康の重臣・本多忠勝の娘ですし、幸村の妻は三成の親友・大谷吉継の娘です。

その関係もあって両者がそれぞれの道をゆくのはわかります。

しかし、昌幸はなぜ三成に味方したのでしょう。

まさむね
まさむね
ここは想像ですが、昌幸はやはり家康とはソリが合わなかったのではないでしょうか。

生き残るために昨日の敵との同盟、裏切りを躊躇なく実行したのが昌幸です。

その情勢判断と合理精神はずば抜けたものでした。

その彼をもってしても、家康の天下は見えなかったのでしょうか。

そうではないでしょう。

家康の天下がみえるからこそ、反逆してみたかったと考えるのは穿ちすぎでしょうか。

いずれにしても、この犬伏の地で、親子は別れをつげることになったのです。

表裏比興の者

「表裏比興の者」というのは1586年8月3日付の石田三成の手紙に出てくる言葉です。

「表裏」は表と裏、つまり「油断ならない男」の意味でしょう。

「比興」は卑怯と音が一緒ですが、蔑みの意味合いではなく、これもまた「食えない奴」ぐらいの意味です。

日々、日本全国のどこかで戦争が行われ、戦いが日常であった時代の人々の感性では、食えない奴というのはもちろんホメ言葉でしょう。

まさむね
まさむね
同時代の人々に昌幸がどう見られていたか、興味深い例だと思います。

3行でわかる真田昌幸のまとめ

まとめ
  • 主従関係を結んでは裏切ることを繰り返して領地を守り抜いた
  • 徳川勢に対してはめっぽう強かった
  • 真田家存続のため、親子が敵味方にわかれることになった

知略と決断力に富んだ真田昌幸の人となりが理解してもらえたでしょうか。

人間は逆境においてこそ、その真価を発揮します。

信長亡き後の信濃・上野をめぐる混乱のなかで、昌幸の才覚は存分に展開されました。

それは、弱者が強者とわたりあうときの見事なモデルケースといえます。

彼の能力の絶頂というべきでしょう。

私たちは彼の仕事を丹念に追うことによって、さまざまなことを学ぶことができるはずです。

「表裏比興の者」の精神は、アニマルスピリットを失いがちな現代においてこそ、必要なものなのかもしれません。

関連記事

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。