真面目な人が一つのことに真面目に打ち込むほど、挫折したときのダメージは大きいもの。
挫折は人を強くすると言いますが、挫折を得ても乗り越えられる強い心を持たない人もいます。
そんな人はどうすればいいのでしょうか?
それに一つの答えを示してくれたのが、浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)です。
親鸞は、挫折を乗り越えるのではなく、そんな自分の心の弱さを肯定し、新しい道を開きました。
目次
親鸞のプロフィール
親鸞が生まれたのは1173年。
平安時代から鎌倉時代に移行していく激動の時代でした。
父親の日野有範は、藤原氏に連なる貴族で、天皇に儒教などを指導する教授役であったといいます。
9歳で出家
数え9歳のときに親戚筋にあたる天台宗の僧侶・慈円のもとで出家しました。
本人が世の無常を感じ、自ら望んで仏教の世界に入ったとも伝えられていますが、これは後の世に親鸞を神格化するために盛られたものでしょう。
戒名は範宴。
範宴は一心に仏教の修行に励みました。
女性に恋して比叡山を出ていく
ところが26歳のとき、寺から外出した折に一人の女性と出会います。
伝説ではこの女性は親鸞に仏教の矛盾を指摘した菩薩かなにかの化身であるかのように描いていますが、普通に人間の女性に出会って心がドキッとなったのだと思います。
仏教では女性と触れ合うことは禁じられ、そして煩悩を振り払うことが求められます。
ところが、親鸞は一度出会った女性のことが忘れられなくなってしまい悩みます。
29歳のとき、「心を鎮めようとするほど乱れてしまってもうダメだ」的なことを書き残し、20年過ごした比叡山を出ていってしまいました。
僧侶ご法度の結婚
そして、浄土宗の開祖・法然のもとで「専修念仏」を学びます。
これは、阿弥陀如来を信仰し、ただ念仏のみに専念するという修行です。
法然は、戒律を守ることより念仏に専念するほうが大切だと考えていました。
その教えに従い、親鸞は31歳のときに結婚します。
現代とは違い、僧侶が妻帯するのはありえないことでした(こっそりしている僧侶はいました)。
厳しい修行をしなくても念仏をすれば救われるという法然の教えは民衆に広く受け入れられましたが、既存の仏教界の怒りをかいました。
師との別れ、布教へ
親鸞35歳のとき、法然と親鸞は、朝廷との結びつきが強いある宗派から讒言され、僧籍を奪われて法然は土佐、親鸞は越後へと流罪になりました。
そして、その後二人は再会できないまま、法然はなくなりました。
流罪を放免された親鸞は、今の群馬県、茨城県などを巡って布教に努めます。
親鸞が京都に戻ったのは、流罪から30年近くたった62歳ごろでした。
京都に戻った親鸞は、布教は息子や孫にまかせ、自らは浄土信仰の著作に励み、1263年、数え90歳でなくなりました。
親鸞は何をした人?
親鸞は浄土真宗の開祖とされます。
阿弥陀如来のことを記したいわゆる「浄土三部経」には、阿弥陀如来がまだ菩薩(仏教の修行者)だったころ、自らが成仏したあかつきには、私を念じた全ての人を自らの仏国土に転生させ、成仏へ導くと書いてあります。
念仏とは、阿弥陀如来をイメージで念じる「観想念仏」と、阿弥陀如来の名前を唱える「称名念仏」のこと。
中国では主に観想念仏が行われていました。
最初に日本に伝わった念仏も観想念仏です。
ところが、日本人は頭で念じるのではなく、現実に阿弥陀如来の極楽浄土っぽいものを作るという謎の解釈を始めました。
平等院鳳凰堂などもその謎の解釈によりつくられた「念仏」施設です。
しかし、そんなものは金持ちにしかできません。
そこで法然は、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えれば阿弥陀の浄土に生まれ変われるのだとして、称名念仏を推進しました。
しかし、観想念仏にしろ称名念仏にしろ、実は自らの念仏修行を重視します。
そういう意味では自力修行です。
親鸞は、そうではない。阿弥陀如来の力にただ委ねることが大切だとして、阿弥陀如来の「他力」に頼るという「他力行」をうちたて、全ての人への救いの道を示しました。
親鸞のエピソード・逸話
親鸞は幼い頃に仏道に入り、本当に真面目に仏教に向き合っていきました。
でも、その分人生経験がまったく足りていなかった。
お釈迦様は妻子があって、王族とはいっても様々な経験を積んだ後、人生の虚しさから修行の道に入ったので、もはや世俗に惑わされることがなかったのでしょう。
でも、親鸞は逆にそれまで経験しなかった女性への恋心に乱されて挫折しました。
夢に聖徳太子が現れるも女体化する
親鸞は心乱れて挫折した後、京都の六角堂に籠もって真の教えがもたらされるようにと請願したといいます。
そしてある日、夢に聖徳太子が現れました。六角堂は聖徳太子が建てたと言われています。
この聖徳太子は菩薩の化身であるとも考えられていて、悩める親鸞にこう告げました。
「あなたが宿縁によって女犯をおかすなら、私が女になってその罪を受けましょう。そうすればあなたは生涯仏の威光に包まれ、死んで極楽への転生に導かれます」。
だだ、こういう自らの煩悩に悩んだ親鸞が、法然の教えに出会ったことで、煩悩を捨てるより阿弥陀如来をただ信仰するのが大切なのだと教えられ、自分に対して肯定的になることができました。
「悪人」も救われると説いて誤解される
親鸞といえば有名なのは「悪人正機説」です。
これは、親鸞の弟子が記した『歎異抄(たんにしょう)』に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉で記されます。
善人だって極楽へ転生するのだから、ましてや悪人であるなら。という意味。
ただ、この「悪人」は仏教的な文脈で読まなければいけません。
ここで言う悪人は、仏の真実の悟りに至っていない人のこと。
つまり大雑把に言えば人間全てです。
この悪人の自分が救われるには、もはや阿弥陀如来の力に依るしかない。」
そんな親鸞自身の思いがここに込められているように思います。
現在でも誤解されることが多いこの「悪人」実は親鸞在世のときから誤解され、これを口実に悪行を行う者が出たため、親鸞自身も苦言を呈しています。
ただ、これについては親鸞の説明不足である感もあります。
4行でわかる親鸞のまとめ
- 9歳で出家
- 純粋培養で仏教修行
- 20代で一人の女性と出会って仏教修行を挫折
- 法然に念仏を学び、それを他力行にまで進化させる
親鸞の教えは、特に民衆の生活が圧迫される戦乱期に広く受け入れられ、戦国時代には一向宗という武装集団まで生み出しました。
一向宗は「死んでも極楽に往生して救われる」という思想のもと、死を怖れないやっかいな勢力となって戦国武将を悩ませました。
でもそれは親鸞が望んだ形ではなかったでしょう。
親鸞が教えたかったのは、ただひたすら阿弥陀如来の前に自分を投げ出し、安心して日々を生きなさいということだったのではないかと思います。