徳川秀忠(とくがわ ひでただ)はどんな人だったんでしょう?
どんな業績があるんでしょう?
この記事では、徳川歴代将軍のなかでも、あまり注目されない秀忠を紹介します。
秀忠が注目されないのは、父親の徳川家康が偉大すぎるからで、秀忠自身の罪とはいえません。
果たしてどんなエピソードがあるのでしょうか。
目次
徳川秀忠のプロフィール
- 生誕 1579年4月7日
- 死没 1632年1月24日
- 在職 1605年4月16日~1623年7月27日
- 享年 54歳
秀忠は徳川家康の三男として生まれました。
ちなみに長男は信康、二男は秀康です。
長男は武田氏との内通を疑われ、織田信長の圧力により20歳で切腹させられました。
二男の秀康は豊臣秀吉の養子となった後、結城氏の養子となり結城秀康と名乗ります。
結局、三男の秀忠が跡継ぎとなったわけです。
1605年には父・家康から征夷大将軍をゆずられ、形式上は政権のトップとなりますが、実権は家康が握っていました。
1614年、1615年の大坂の役も、秀忠の立案・実施というよりは家康の執念の結実というべきものです。
1616年に家康が亡くなると、秀忠はいよいよ自分のやりたいことを実現していく機会を得たわけですが、基本的には父親の路線を継承します。
さらに1623年には将軍職も家光に譲り、大御所として江戸城西の丸に住みました。
地味な印象ですが、乱世もようやく終わり、秩序を形成するためには、軍事力だけではどうにもなりません。
地味な仕事が必要です。
秀忠はこれらの地味な仕事を担当する運命でした。
次に秀忠時代の具体的な施策を見ていきましょう。
徳川秀忠は何をした人?
徳川秀忠の人生は、偉大な父親をもつ二代目という意味で典型的なものでした。
秀忠が在職中に公布された法令も、基本的には大御所としての家康の意向が色濃く反映されたものと言えましょう。
「武家諸法度」と「禁中並公家諸法度」は秀忠時代に公布された有名な法令ですが、どちらも家康の命を受けて、金地院崇伝らが起草にあたったものです。
たしかに家康の意向には違いありませんが、これらの方針を遵守し、しっかりと確立させたのは秀忠の功績です。
どちらも1615年に公布されており、家康は翌年には死んでいます。
いわば幕府の背骨ともいうべき重要な法令ですから、次に説明していきましょう。
武家諸法度の公布
1615年の7月7日に伏見城で公布された武家諸法度は、わずか13条の短いものです。
「文武弓馬の道、もっぱら相たしなむべきこと」で始まるこのルールブックは、大名統制のために制定された、と教科書には書かれています。
具体的にはどういうことでしょうか。
武家諸法度というくらいですから、遵守すべき義務を負うのは武家、つまり諸大名です。
守るべき条文を幕府が決めたということは、守らなかったときは幕府の制裁を覚悟しなければなりません。
武家諸法度の条文違反で改易された大名としては、福島正則が有名です。
広島城の補修を無断で行ったというのがその理由です。
確かに武家諸法度には「諸国の居城、修補を為すといえども、必ず言上すべし」という条項があります。
福島家はもちろん事前に幕府に届け出ていますが、それらの弁明が聞き入れられることはありませんでした。
福島家ほどの大名でも、武家諸法度違反で改易されてしまうのです。
幕府のやり方は、一種の言いがかりには違いありません。
ですが、戦国時代と違って、平穏な時代には言いがかりにも合理性が求められるものです。
そのための武家諸法度といえば言い過ぎでしょうか。
とにかく、諸大名に対して幕府が圧倒的優位を確保したのは確かなのです。
禁中並公家諸法度
武家諸法度が諸大名のルールとすれば、禁中並公家諸法度は、皇室を中心とした朝廷が守るべきルールです。
朝廷が守るべきルールを幕府が定めたというのがミソです。
つまり、朝廷といえども、幕府が統制する一機関にすぎないのです。
朝廷の大きなアドバンテージとはなんでしょう。
それは、権威だと思います。
権力は徳川家が握っていますが、この徳川家に征夷大将軍の位を授けるのは朝廷なのです。
他にもさまざまな官位、大納言とか大輔などいろいろありますが、それらの官位を与えることができるのも朝廷です。
士農工商の身分社会であった江戸時代に、官位の上下は家格の上下となりますから、諸大名は相当気にした部分でしょう。
この官位を幕府の管理下に置いて、諸大名が直接朝廷と結びつくことを禁じました。
これで幕府は、権力と権威の両方をコントロール下におくことに成功したのです。
盤石の体制への大きな一歩でした。
徳川秀忠のエピソード・逸話
関ケ原の戦いに遅刻する
関ケ原の戦いに遅参したのは有名な話であり、また秀忠にとって不名誉な話でもあります。
家康が東海道を進撃したのに対し、秀忠軍は中山道を進み、最終的には岐阜で合流するのが当初の予定でした。
しかし、信州上田城の真田昌幸・幸村親子に秀忠軍は釘付けにされ、結局、関ケ原の決戦に間に合わなかったというのが一般的な理解だと思います。
しかし、実際の事情はもう少し複雑なようで、秀忠の当初の目的である信州平定計画が、状況により少しずつ変わっていった結果、天下分け目の決戦に遅れるという事実だけがクローズアップされることになってしまいました。
そういう意味で秀忠はちょっと気の毒というか、運がないというか、とにかく戦いには向いていないようです。
鼓を打つのが好き
秀忠は鼓をうつのが大好きでした。
しかし、将軍職についてからは鼓をうつことは無くなったそうです。
忙しくて鼓を手に取る暇がないということではありません。
将軍である自分が鼓にうつつをぬかしては、下々のものたちは競って鼓をうつようになる、だから自重したというのが理由です。
自分のふるまいが、多くの人々に大きな影響をおよぼし、それが習俗となってしまうことを懼れたのです。
自分の好きなことをするにも、その影響を考えて自粛せざるを得ない場合があるという好例です。
3行でわかる徳川秀忠のまとめ
- 法令によって、諸大名と朝廷を支配下においた
- 関ケ原の合戦に遅れて参戦できなかった過去がある
- 自分の趣味も投げ捨てて政務に全身全霊を尽くした
秀忠は、偉大な父親をもつ二代目として想像を絶するプレッシャーのもとで生きたといっていいでしょう。
その仕事も家康の路線を引き継いで基礎固めをしていくという地味なものでした。
しかし、ひとまず乱世は終わったとはいえ、もし秀忠が暗愚の君主だったなら、世は再び乱世に逆戻りという可能性もあったはずです。
秀忠は着実に仕事をし、子の家光の時代にいたって幕府の基礎固めは完了します。
その意味で、何事もなく将軍職をつとめた秀忠は偉大な君主だったといえるでしょう。