江戸時代

富永仲基の加上説とは?翁の文・出定後語についてわかりやすく簡単にまとめてみました

富永仲基

富永仲基について詳しく知っている方はあまりいないのではないでしょうか?

江戸時代に活躍した学者ですが、若くして亡くなったのもあって知名度は高くありません。

でも、実はこの人、とんでもない天才なんです。

そんな富永仲基を紹介していきます。

富永仲基のプロフィール

  • 富永仲基(とみながなかもと)
  • 出身地 大阪
  • 生誕 1715年
  • 死没 1746年8月28日
  • 享年 32歳

実は、富永の生涯は不明な点が多いのです。

弟子らしい人もいません。

孤独に生きて孤独に死んだ、という感じです。

はっきりしている事実を述べておきましょう。

彼は大阪の醤油屋を営んでいる富永芳春の三男として生まれました。

やがて、大阪の有名な私塾である懐徳堂で学問をはじめます。

そして、いくつか作品を書き、病気のため32歳で亡くなりました。

事実だけを書けば、以上で終了です。

まさむね
まさむね
そっけないですが、それほど富永についての史料が不足しているのです。

富永仲基という人物を知るためには、彼が残した2つの著作のなかを探るしかありません。

富永仲基は何をした人?

富永仲基は学者ですから、いくつか著作を書いています。

しかし、その多くは失われてしまって残っていません。

わずかに「出定後語(しゅつじょうごご、しゅつじょうこうご)」と「翁の文(おきなのふみ)」だけです。

まさむね
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でも、「出定後語」が残ってくれたのはラッキーでした。

この著作だけでも、富永がずば抜けた天才であることがはっきりわかるからです。

「出定後語」とは、どんな著作なんでしょうか。

出定後語

この本のテーマは、大乗仏教についてです。

シャカが説いた仏教には、大乗仏教と小乗仏教という2つの宗派があります。

大乗仏教は、インドから中央アジアを経て中国に伝わり、その後日本にも到来しました。

小乗のほうは、インドからスリランカや東南アジアに伝わった一派です。

大乗仏教の経典はほとんどが漢文、つまり古代中国語で書かれています。

その分量も膨大で、大乗仏典のほとんどを収めている「大正新脩大蔵経」は、1巻1000ページほどの本が合計100巻もあるという気の遠くなるような規模です。

でも、なぜこんなに膨大な量があるんでしょう?

これは昔から多くの人を悩ませてきた難問で、さまざまな解釈がほどこされてきました。

シャカはなぜこんなにもいろいろな経典を説いたのか?
なぜ、各経典には互いに矛盾した思想を説いているのか?

富永仲基の答えはこうです。

それは、大乗仏典には、シャカが自分自身で説いた経典は一つもないからだ、と。

シャカではなく、後世の多くの人間が、シャカが説いたものとして捏造したからだ、というのです。

まさむね
まさむね
これは衝撃的な結論でした。

私たち日本人が信仰してきた大乗仏教が、実は仏教ではないと否定されたようなものです。

どうしてそういう結論にいたったのか、その学問的方法については難しい問題ですので詳しくは述べません。

ただひとつ、「加上」というキーワードを覚えてもらえればいいでしょう。

「加上」とは、以前にはなかったものを新たにつけ加えていくということです。

先人の説に、さらに複雑な説をくわえてさらに複雑にすることです。

まさむね
まさむね
難しければ難しいほど、それを理解できる人は尊敬されますよね。

いわば、マウントをとるためにひたすら複雑にしていく、そういう過程として大乗仏教をとらえたのです。

そういう複雑さをそぎ落としていったとき、富永が発見したのが、大乗仏教は仏教ではない、ということだったのです。

近代になってヨーロッパの文献学が学ばれるようになり、現在では富永の説がおおむね正しいと考えられるようになっています。

まさむね
まさむね
富永のおそるべき先見性に驚くほかはありません。

翁の文

もう一つ、富永の著作である「翁の文」を紹介しましょう。

「出定後語」が漢文で書かれているのに対し、「翁の文」は読みやすい和文で書かれています。

内容は、仏教と儒教、そして神道の批判です。

ただし、仏教についての批判は「出定後語」の中にあるから、ということであっさりしています。

儒教と神道の批判が大半ですが、「出定後語」で展開したような執拗な論理のものではありません。

まさむね
まさむね
あくまで軽いエッセイといった感じです。

この本の中で、富永は「誠の道」という言葉を使います。

今の仏教、儒教、神道は「誠の道」ではないというのです。

では富永のいう「誠の道」とは一体何でしょう?

まじめに仕事をし、素直なこころをもち、親孝行をし、当たり前のことをする。それが「誠の道」だと主張します。

まさむね
まさむね
実に平凡な答えですよね。

でも、この平凡な答えのなかに、富永の本当の姿が見えるのではないでしょうか。

仏教、儒教、神道の批判といっても、厳密にいえば、それでご飯を食べている人、それで生活しているのにその道を歩もうとする誠実さのない人、そういう人たちに対しての批判だったわけです。

形式だけ守っていれば、誰からも咎められることはありませんから、安心ですからね。

非難される筋合いもありません。

でも、それはやはり嘘です。

仏教や儒教や神道を、自分の生活のために利用しているだけです。

仏教、儒教、神道を批判した富永が、実はもっとも誠実な仏教徒であり、儒者であり、神道の信者だったといえるでしょう。

まさむね
まさむね
「翁の文」出版後、まもなく富永は亡くなりました。

「翁の文」は彼の遺言ともいえるのです。

富永仲基のエピソード・逸話

富永のエピソードはほとんどありません。

生前はほとんど無名でしたし、死後も有名になったとは言えませんでした。

数少ない中から、ご紹介していきます。

穏やかだけど気が短い?

富永の弟である東華という人の証言が残っています。

それによれば、富永は「清潔で穏やかだが、気の短い人」だったということです。

穏やかで気が短いというのはちょっと矛盾しているようですが、気が短いのは、病気が原因だったのかもしれません。

長い間忘れられていたが、内藤湖南によって再発見される

長い間、忘れられた思想家だった富永仲基ですが、まったく無視されていたわけではありません。

同時代の人では、本居宣長が富永に注目していますし、ちょっと後の時代では、平田篤胤も富永に言及しています。

しかし、やはり宣長や篤胤に比べれば、ほとんど注目されていなかった富永ですが、明治になってやっと正当な評価を受けるようになります。

その端緒となったのが、東洋史の大家、内藤湖南の絶賛です。

彼のおかげで富永仲基の著作も再び注目されるようになり、その真価も認められるようになりました。

まさむね
まさむね
やはり、本物は誰かが必ず見つけ出してくれるものです。

四行でわかる富永仲基のまとめ

まとめ
  • 大乗仏教の経典は後世の偽作であると主張した
  • 誠実に生きることを説いた
  • 病気がちで早くに亡くなった
  • 明治時代に再評価され、やっと注目されるようになった

32歳という若さで亡くなった富永仲基ですが、彼の残した仕事は時代を超越するものでした。

決して読みやすい著作ではありませんが、興味を持った方はぜひ図書館などで調べてみてはいかがでしょうか。

江戸時代にこんな人がいたのかと驚きますよ。

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