平安時代

【源義家がしたことまとめ】頼朝との関係や納豆誕生秘話?など

源義家

源義家(みなもとのよしいえ)といえば、八幡太郎義家の名でも知られ、武勇に優れた武士として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

“泣く子も黙る猛将”として多くの伝説を残し、鎌倉幕府が始まる基盤をつくったとされていますが実際はどうだったのでしょう。

この記事では源義家についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

源義家のプロフィール

  • 源義家(みなもとのよしいえ)
  • 幼名:不動丸・源太丸
  • 別名:八幡太郎(はちまんたろう)
  • 父:源頼義(河内源氏初代棟梁)
  • 母:平直方の娘
  • 享年68(1039年~1106年7月15日)

源義家は何した人?

平安時代後期、源義家は東北で起こった前九年の役・後三年の役を鎮圧して、東国に源氏の基盤を築き、武家の棟梁としての地位を確立しました。

源義家の生い立ち

1039年、源義家は源頼義(みなもとのよりよし)の長男として生まれました。

出生地については、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井、鎌倉、相模国足下郡柳下郷、京都など、諸説があります。

その後、7歳のときに石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と呼ばれました。

前九年の役

この頃、陸奥国奥六郡(岩手県)では安倍頼時(あべのよりとき)が勢力を伸ばしていました。

安倍氏は俘囚(朝廷に服属した人)の主導者となって、その周辺を治めていた豪族です。

やがて頼時が朝廷の命令に従わないようになったため、朝廷は1051年に頼義を陸奥守として赴任させ、頼義・義家父子と安倍氏との間で戦闘が始まりました。

頼時は鎮守府(蝦夷鎮圧のために置かれた軍政官庁)が置かれていた胆沢城(岩手県奥州市)に赴いた頼義を攻め、戦いを優位に進めていましたが、1057年に奇襲を受けて戦死しました。

これを好機とみた頼義は一気に安倍氏を滅ぼそうと決戦を挑みましたが、頼時の子・安倍貞任(あべのさだとう)らに反撃され、大敗してしまいます(黄海の戦い)。

その後、安倍氏の専横が続きましたが、1062年に頼義は出羽国山北(秋田県)の豪族・清原光頼(きよはらのみつより)に参戦を依頼しました。

これを聞き入れた光頼が弟・清原武則(きよはらのたけのり)を総大将として派遣すると、形勢は一気に逆転します。

清原氏が参戦してから1ヶ月後、拠点である厨川柵(岩手県盛岡市)が陥落して安倍氏は滅亡し、前九年の役は終結しました。

後三年の役

義家は1063年に出羽守、1070年には下野守となり、治安の悪かった京都で白河天皇の護衛も任されました。

そして、1083年に陸奥守となりました。

前九年の役で安倍氏が滅んだ後、清原氏は奥州の覇者となっていましたが、清原武貞(きよはらのたけさだ)の死後、子・真衡(さねひら)・家衡(いえひら)・清衡(きよひら)の間に内紛が起こり、後三年の役に発展します。

真衡の養子・成衡(なりひら/しげひら)は頼義の娘を妻に迎えましたが、その婚礼の際に真衡が叔父・吉彦秀武(きみこのひでたけ)に無礼を働き、それに秀武が激怒すると、真衡は秀武討伐の軍を起こしました。

一方の秀武は、真衡と不仲であった家衡と清衡に蜂起を促し、二人がこれに呼応したため、真衡は家衡・清衡と対立します。

その後、成衡の妻の兄である義家が真衡側に加勢すると、清衡・家衡は大敗を喫して降伏しました。

しかし、その直後に真衡が急死してしまいます。

真衡の死後、義家は家衡と清衡に真衡の所領を公平に分け与えましたが、これに不満を持った家衡は、1086年に清衡の館を攻撃しました。

清衡に助けを求められた義家は、沼柵(秋田県横手市)に籠もった家衡を攻撃しましたが季節が冬で、充分な用意がなかったため敗れてしまいます。

1087年、義家・清衡軍は金沢柵(秋田県横手市)に移った家衡軍を再び攻撃し、苦戦しましたが、兵糧攻めによって家衡軍に勝利しました。

戦後処理

朝廷は後三年の役を義家の私闘とみなし、恩賞を与えることを拒否したうえ、1088年には陸奥守を解任しました。

義家は随従した武士に私財から恩賞を与えましたが、その多くは関東から出征してきた者でした。

まさむね
まさむね
そのため、関東の武士は後代まで源氏に従ったので、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府を創建することができたともいわれています。

源義家の最期

後三年の役から10年後の1098年、義家は正四位下に昇進し、武士として初めて院昇殿を許されました。

しかし2年後、源義親(義家の2男)が九州で告発され、義家は朝廷から義親を召還するように命じられました。

さらに、1106年には源義国(義家の4男)が、叔父・源義光(義家の弟)と争ったため(常陸合戦)、義国も召還するように命じられます。

その後、義国と争っていた義光にも捕縛命令が出されるなど苦しい立場の中、義家は7月15日に68歳で亡くなりました。

源義家のエピソード・逸話

源義家と安倍貞任

前九年の役で安倍氏の柵(城砦)を次々と打ち破った義家は、衣川柵(岩手県奥州市)も落としました。

その時、敗走する貞任に追いついた義家は、言いたいことがあるから待つように声をかけます。

貞任が振り向くと、「衣のたてはほころびにけり」と、衣川の館と衣類の縦糸をかけた歌の下の句を詠みました。

すると、貞任は馬を止めてにっこり笑い、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を詠み返しました。

貞任の歌の上手さに感動した義家は、追撃することを止めて帰ったといわれています。

雁行の乱れ

後三年の役で沼柵の戦いに敗れた義家は、家衡を討つために金沢柵に向かいました。

その途中、義家が馬を止めて空を見上げると、雁が列をなして飛んでいましたが、突然その列が乱れて雁が四方に飛び去ります。

これを見た義家は大江匡房(おおえのまさふさ)から教わった孫子の兵法を思い出し、清原軍の待ち伏せがあることを察知しました。

そして、雁が乱れた辺りに伏兵がいるので、探し出すように命じ、待ち伏せしていた清原軍30騎余はすべて討ち取られました。

まさむね
まさむね
匡房から兵法を教わっていなければ、ここで敗れていた義家は「江師(ごうのそつ/大江匡房)の一言なからましかばあぶなからまし」と語ったといわれています。

源義家と納豆

納豆は健康に良いとして親しまれている発酵食品ですが、その誕生に義家が関係しているという説があります。

当時の戦闘には馬が欠かせませんでしたが、酷使されるために消耗が激しかったので、大豆や米などの栄養価の高い飼料が与えられていました。

通常、馬糧に利用する大豆は、煮豆したものを乾燥させ、それを俵に詰めて運んでいました。

しかし、緊急事態が起きた場合、煮豆を乾燥する時間がとれなかったので、豆が煮上がると煮汁を捨てて、俵にそのまま詰めることもありました。

俵の藁に付着していた納豆菌は、その熱によって覚醒し、煮豆が適度に冷えると猛烈に繁殖し始めるため、1日~2日で煮豆は糸引き納豆へと変化します。

そのため、兵士たちは糸引き納豆に変化した煮豆を腐っているものと思い、捨てていましたが、義家が捨てられた糸引き納豆を拾い上げて食べてみると、意外と美味しく、充分に食べられる食料であることに気づきました。

まさむね
まさむね
このときから、義家は糸引き納豆を兵糧に採用したとされています。

源義家のまとめ

まとめ
  • 1039年:源頼義の長男として生まれる
  • 1051年:前九年の役が起こり、父・頼義とともに安倍氏と戦う
  • 1062年:清原氏の援助を得て安倍氏を滅ぼし、前九年の役を平定する
  • 1083年:陸奥守となり、清原氏の相続争いに介入する
  • 1087年:清原清衡と清原家衡を討ち、後三年の役を平定する
  • 1098年:武士として初めて院昇殿を許される
  • 1106年:68歳で亡くなる

摂関政治から院政へと移行する転換期に、武士は単なる家来から独立した新興勢力として力を持ち始め、義家はその象徴とみなされました。

そのため、室町幕府を開いた足利尊氏は、義家が書き残したとする「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文伝説で天下人としての地位を正当化し、江戸幕府を開いた徳川家康は、義家の「家」の字を取って家康と名乗ったとされるなど、義家は歴代の清和源氏出身の征夷大将軍の模範または理想の武将として尊重されています。

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