源義朝(みなもとのよしとも)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の父で、武家政権が成立する過程で重要な役割を果たしていながら脚光を浴びることが少なく、何をしたのか知らない人も多いのではないでしょうか。
この記事では源義朝について、何をしたのか、どんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
源義朝のプロフィール
- 源義朝(みなもとのよしとも)
- 父:源為義
- 母:藤原忠清の娘
- 享年38(1123年~1160年1月3日)
源義朝は何をした人?
平清盛と保元の乱の勝利に貢献し、武士が中央政界に進出するきっかけをつくりながら、なぜ源義朝は平治の乱を起こしたのでしょう。
源義朝の生い立ち
1123年、源義朝は河内源氏の棟梁である源為義の長男として生まれました。
年少のころ、義朝は為義から東国へ行くことを命じられ、京都から遠く離れた関東へ行くことになります。
義朝が生まれた平安時代後期、源氏をはじめとする武士は天皇や貴族を守る家来に過ぎず、貴族にとって武士は自由に使うことができる使用人のような存在でした。
当時の源氏は、内紛争いや為義が乱暴行為を繰り返したことで信用を失い、ライバル的存在だった平氏よりも低い存在とみなされていたため、貴族や平氏の力が及ばない場所で勢力を伸ばし、源氏の地位を高めるために、義朝は東国へ向かいます。
東国にやって来た義朝は、貴族に仕えるだけの京都の武士とはまったく異なり、土地の支配をめぐる争いを繰り返し、戦いに明け暮れている東国武士の姿に驚きました。
数年後、敵とみなした者は屈服させるまで戦うという東国武士の生き方を学びながら育った義朝に好機が訪れます。
1144年、土地の税収をめぐり、その土地の武士と役人との間で争いが起こると、義朝は役人と対立している武士の領地に軍勢を攻め込ませ、蓄えていた作物を奪って殺害するなどの狼藉を働いたうえで、その土地から武士を追い出しました。
この行為は非合法だとされ、その土地を支配することは認められませんでしたが、義朝の名前は知れ渡り、敵方の武士たちまで家来として従うことになります。
これをきっかけに、次々と武士の争いに介入して配下にしていった義朝は、20代前半で東国の有力者となり、その評判は京都にも伝わりました。
義朝と保元の乱
東国で勢力を伸ばしたことが認められて京都に戻ってきた義朝は、1147年に嫡男(3男)の源頼朝を授かり、1153年には31歳で従五位下・下野守に任じられるなど、義朝の将来は希望に満ちていました。
ところが1156年、後白河天皇と崇徳上皇が権力争いを始め、摂関家でも藤原忠通と藤原頼長が対立し、後白河天皇は忠通と、崇徳上皇は頼長と接近したことで、朝廷が二分されてしまいます。
この対立を解決するために武士の力が利用されることになり、義朝は後白河天皇方に味方することに決めましたが、為義や他の兄弟は崇徳上皇方に味方することになり、源氏は分裂の危機を迎えました。
親兄弟を敵にまわすことになった義朝は、天皇方で開かれた軍議で夜討ちを主張しましたが、夜討ちは卑怯なやり方で、国の行方を決める戦いには相応しくないと反対されます。
しかし、他の作戦を見つけられなかったので夜討ちが認められ、保元の乱が始まりました。
夜討ちに成功した義朝は、勝利を確実なものとするために火を放つことを命じ、これが決めてとなって崇徳上皇は敗走し、後白河天皇方が勝利します。
武士の力が勝敗を決定したことから、保元の乱は武士が中央政界に進出するきっかけとなりました。
勝利に貢献した義朝は左馬頭(馬を管理する馬寮の長官)に任じられましたが、ともに戦った平清盛は播磨守になっており、恩賞の差に不満を抱きます
さらに、崇徳上皇方に味方した為義と兄弟を斬首せよという残酷な命令が下されました。
義朝は助命を訴えましたが認められず、自らの手で為義を殺した義朝は「親殺し」として非難されます。
義朝と平治の乱
保元の乱の後、朝廷では後白河天皇の側近である信西(藤原通憲)が実権を握り、国政改革を行っていましたが、藤原信頼たちの反感を買います。
一方、義朝も清盛と比べて冷遇されていることに大きな不満を抱いており、義朝は武蔵や陸奥など東国に知行国を持つ信頼と結束してクーデターを起こしました。
1159年、強大な軍事力を持つ清盛が熊野詣に出かけた隙に挙兵した義朝は院の御所である三条殿を襲い、平治の乱が始まります。
そして、女であろうと容赦なく斬り殺して信西を討った義朝は、後白河上皇と二条天皇を軟禁して監視下に置きました。
政権を掌握した信頼は義朝を播磨守に任じ、頼朝を右兵衛権佐とするなど、身勝手なことをし始めたため、信頼を見限るようになります。
反信西派にとって、信西を討ちとったことで目標は達成されていたので、信頼や義朝はもはや利用価値がなく、邪魔な存在となっていたのです。
そのため、隙をついて後白河上皇と二条天皇を六波羅へ移した清盛に信頼と義朝の追討が命じられると、多くの者が清盛に味方しました。
ついに義朝と清盛の直接対決が始まり、清盛の軍勢を退却させた義朝は清盛の本陣がある六波羅を目指して攻めましたが、兵の数が劣っていた義朝軍は壊滅してしまいました。
義朝の最期
六条河原で敗れた義朝は東国で再起を図るために京都から脱出しましたが、その道中で頼朝が捕らえられてしまいます。
そして、追っ手との戦闘を繰り返し、命からがら尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)にたどり着いた義朝は、家人の鎌田政清の舅である長田忠致のもとに身を寄せていましたが、恩賞に目が眩んだ長田父子に湯殿で襲われ、殺害されてしまいました。
源義朝のエピソード・逸話
義朝の祟り?
京都から脱出した義朝は厳しい逃避行の末に、尾張国野間にたどり着きました。
当時、正月を迎えるために餅つきの用意がされていましたが、空腹だった義朝は餅がつきあがることを待てず、餅をつく前のもち米を手づかみで食べてしまいました。
その後、義朝は殺害されましたが、その翌年の正月に野間で伝染病が流行したことから、これは義朝の祟りだとされ、野間では正月に餅を食べない風習ができたそうです。
義朝の無念を晴らした頼朝
京都を脱出してから3日後、長田父子に裏切られて入浴中に襲われた義朝は、まともに抵抗することができず、「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念の言葉を叫んで亡くなったとされているため、野間大坊の境内にある義朝の墓には多くの木太刀が備えられています。
一方、義朝を討ち取った恩賞として、父の忠致は壱岐守に、子の景致は左衛門尉に任じられましたが、これに不満を持った長田父子は尾張一国が欲しいと願い出ました。
これに対して平氏は「主君と婿を殺しておきながら何を言う」と激怒し、任じた官職を取り上げたうえで、六条河原で指を切り、首を鋸で斬り落としてやると脅したため、長田父子は慌てて逃げ帰ったとされています。
その後、平家打倒のために挙兵した源頼朝のもとに、長田父子は罰せられることを覚悟で参陣しましたが、頼朝から「懸命に働けば美濃と尾張を与える」と言われ、喜んだ長田父子は源平合戦で抜群の手柄を上げました。
しかし、平家を滅亡させて義朝の菩提を弔うための法要を営んだ頼朝は、式の直後に長田父子を捕らえ、「約束通り、身の終わり(美濃・尾張)を与える」と言い、磔にして処刑したといわれています。
源義朝のまとめ
- 河内源氏の棟梁である源為義の長男として生まれ、東国で育つ
- 武士の争いに介入して勢力を伸ばし、東国の有力者となる
- 保元の乱で後白河天皇に味方して勝利に貢献し、左馬頭となる
- 保元の乱で崇徳上皇方に味方した父の為義と兄弟を処刑する
- 藤原信頼と手を組んで平治の乱を起こしたが敗れ、誅殺される
武勇に優れていた義朝は保元の乱の勝利に貢献し、武士の力を世に示しましたが、政治的な駆け引きができなかったため、命を落としてしまいました。
しかし後に、伊豆に流されていた頼朝が平家打倒のために挙兵し、平氏を倒すことができたのは義朝がまとめた東国武士の協力があったからです。
1192年、征夷大将軍となった頼朝が拠点としたのは京都ではなく、かつて義朝が住んでいた鎌倉でした。
頼朝が鎌倉に幕府を開いたことで、源氏復興のために奮闘し、志半ばで亡くなった義朝は報われたのではないでしょうか。