すごく長い間、すごく長い距離を歩き続ける自信はありますか?
江戸時代、15年もの間日本中を歩き続けて測量し、当時としては最高峰とも言える日本地図を作り上げた人がいました。
伊能忠敬(いのう ただたか)は、日本の地理学史上最高の偉人といっても過言ではありません。
目次
伊能忠敬のプロフィール
伊能忠敬の生年は1745年。
江戸時代の中頃にあたり、時の将軍は徳川吉宗でした。
この年の秋、吉宗は将軍職を息子の家重に譲っています。
生国は上総国、今の千葉県の太平洋側で、生家は九十九里浜の近くで酒蔵を営んでいました。
6歳のとき母が死去。
父親は養子だったので、家を出て実家に戻ることになります。
しかし忠敬はそのまま生家に残り、祖父母に育てられました。
10歳で父親に引き取られるも、父とはいっしょに暮らさずに、親戚の家などを転々としていたといいます。
千葉の村の商家に婿入り、地元の名主となる
忠敬が17歳のとき、親戚の紹介で、下総国佐原村、今の千葉県の香取市あたりで酒造を営む伊能家の婿養子となりました。
佐原村は幕府直轄地だったため、武士の領主はおらず、利根川の水運の利用により経済が発達していました。
伊能家はその中でも一二を争う商家だったといいます。
そのため、伊能家は佐原村の政治的な部分も担う役割にあり、忠敬も、ただ商売をするだけではなく、村内の揉め事や、幕府との調停などにも関わっています。
36歳のとき、忠敬は村の代表とも言える名主となりました。
天明の大飢饉で難民救済に努める
忠敬が38歳のとき、浅間山の噴火による日照不足などが原因となった天明の大飢饉が発生しました。
伊能家では米の売買もしていたため、備蓄があり、忠敬は米を放出して救済につとめています。
40歳を過ぎたころから忠敬は暦学に興味を持つようになります。
暦は天文学と密接に関わるため、天体観測なども行っていました。
48歳のときには、儒学者で、17歳年下の友人である久保木清淵と関西を旅しています。
3ヶ月に渡った旅では、忠敬は行く先々の方位計測、天体観測などを行っています。
そして49歳で正式に隠居して、家督を息子へ譲りました。
江戸で暦学を学び、日本地図を作る
50歳になった忠敬は、暦学を学ぶため江戸へ居を移し、暦学者の高橋至時に弟子入りしています。
55歳のときに、師の提言によって蝦夷地、つまり北海道の測量を行い、江戸に戻ってから蝦夷の地図を作成しました。
その翌年、今度は江戸から東北までの本州太平洋沿岸の測量と地図作成、さらにその翌年には、東北の日本海側、その次に東海道沿いを沼津までと、北陸の計測を行い、東日本の地図を作り上げ、将軍・徳川家斉に献上して賞賛されました。
その後、忠敬は、西日本、四国、九州、そして伊豆諸島まで測量と地図作成を行っています。
しかし、そんな日々を送っていた忠敬は、70歳を過ぎると喘息の症状が出るようになり、そして74歳で死去しました。
伊能忠敬の日本地図作成までの道のり
伊能忠敬は、日本史上初めて、測量データをもとにした日本地図を作った人です。
それまで、大雑把な地図はあったものの、測量データを踏まえた地図など存在しませんでした。
始めは歩幅で計測していた
忠敬の最初の測量は、北海道太平洋沿岸で行われました。
当時は、ロシア船が度々北海道に現れ、通商を求めるなどの状況がありました。
そのため、幕府は正確な北海道の地図を必要としており、忠敬の師匠の高橋至時が、それに乗じて測量を願い出たのです。
しかし、幕府は民間人の忠敬を信用せず、測量器具に制限を設けました。
そこで忠敬が距離を測るために用いたのが歩測でした。
要するに歩いた歩数に歩幅をかけて距離を割り出すのです。
このとき測量を行ったのは忠敬を含め4人。
この4人は、一歩の距離が一定になるように訓練を行っていました。
その成果である北海道測量と地図が幕府に高く評価されたため、以後の測量は幕府の公式事業として行われるようになります。
幕府に認められ、測量器具を使って15年間計測
忠敬一行の行く先には、幕府からお触れが出るようになり、また測量器具も充実するようになりました。
測定方法については専門的になるので、詳しくは省きますが、地上の距離と角度を測定し、目標物との方角で微調整して、天体観測で緯度と経度を求めるというものです。
忠敬は、測量に行く先で日食や月食などの観察、計測も行っていました。
忠敬が行った測量の旅は、最初の北海道から数えて10回。
15年もの月日をかけて行われました。
日本地図の全体図は、残念ながら忠敬の生前には完成せず、完成したのは忠敬の死後3年経ってからでした。
完成した地図は大日本沿海輿地全図と名付けられ、もちろん現代の測量技術によって作られた地図と比べると多少の誤差はあるものの、当時としては非常に精度が高いものでした。
忠敬が残した地図は、明治時代ごろまでは実用的な地図として用いられています。
伊能忠敬のエピソード・逸話
伊能忠敬は、家業を引退した後に幕府の公共事業として日本地図を作り上げた偉人です。
でも、彼はどうして測量の旅に出たかったのでしょうか?
それは実は、純然たる趣味のためでした。
裏テーマ「子午線一度の距離」の算出
家業を退いてからの忠敬は、暦法、つまりカレンダー作成のための学問を学ぶことが趣味でした。
そのために千葉から江戸に引っ越して、19歳も年下の高橋至時に弟子入りしています。
忠敬、至時共通のテーマは「子午線一度の距離」でした。
子午線とは北極と南極を結んだ南北に伸びる線のこと。
地球は球形ですから子午線は地球をぐるりと巡っています。
正確な暦を作るためには、地球の半径を知る必要があり、その計算のためには、子午線と子午線の緯度1度ごとの長さを知る必要がありました。
忠敬は、自宅から至時の家までの距離からその距離を計算していたものの、至時にもっと長い距離で測らなければ正しい数値は出せないと言われます。
そのために必要だったのが、江戸から蝦夷までの間の測定でした。
趣味のために幕府の事業を利用したとも言えます。
2回めの測量の旅で、忠敬は「子午線一度の距離」を28.2里=110.749091kmだと割り出しました。
3回目の測量でも同じ数値が出ています。
しかし、師匠の至時はその数値に疑問を持ったため、実際の苦労の末に割り出した数値を否定された忠敬は憤慨します。
ところが、至時が後に入手したフランスの『ラランデ暦書』には、忠敬の計測した数値とほぼ同じ数値が記されていたので、そこで忠敬が正しかったことがわかりました。
師匠を敬愛し、師匠のそばに眠る
忠敬は、50歳のとき19歳年下、31歳の高橋至時に弟子入りしました。
至時は幕府天文方で、寛政暦の作成を行っています。
19歳年下とはいえ専門家の至時を、忠敬は師匠として敬愛していました。
時には自分が割り出した子午線一度の距離を否定されたことで憤慨することはあっても、その程度で亀裂が入るような師弟関係ではなかったのです。
しかし、至時は忠敬がまだ日本測量旅行の途上にあった60歳のとき、41歳という若さで病死してしまいました。
その14年後に自分が臨終を迎えた時、忠敬は故郷ではなく至時の近くで眠りたいと遺言しました。
その遺言に従い、忠敬は至時が眠る上野源空寺に、至時の墓の隣に埋葬されています。
4行でわかる伊能忠敬のまとめ
日本で初めての正確な地図を作り上げた伊能忠敬のまとめです。
- 千葉の村の商家に婿入り、地元の名主となる
- 天明の大飢饉で難民救済に努める
- 50歳で隠居し、江戸で趣味の暦学を学ぶ
- 55歳から趣味をかねて幕府の事業として日本全国を測量し、地図を作る
伊能忠敬が生涯、というか55歳からの15年で歩いた距離は4万キロ、ほぼ地球1周だと言われています。
仮に地球を徒歩で一周できるとしても、やり遂げる自信は私にはありません。
幕府の事業を任されたという責任感もさることながら、やはり趣味も兼ねていたということが、これだけの大事業を成し遂げられた秘訣なのかもしれません。