和泉式部(いずみしきぶ)といえば、平安時代を代表する歌人として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。
歌人として活躍する一方で、次から次へ恋に走った“奔放な女性”というイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。
この記事では和泉式部についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
和泉式部のプロフィール
- 和泉式部(いずみしきぶ)
- 幼名:御許丸(おもとまる)
- 父:大江雅致
- 母:平保衡の娘
- 享年60?(976年頃?~1036年頃?)
和泉式部は何した人?
関係があったとされる男性は10人以上で、多くの男性を虜にしていると噂されましたが、和泉式部は初めから色恋に溺れるような女性ではありませんでした。
それなのに、なぜ和泉式部は恋に走ってしまったのでしょうか。
和泉式部の生い立ち
正確な誕生年は不明ですが、976年頃に和泉式部は大江雅致(まさむね)と平保衡(やすひら)の娘との間に生まれました。
和泉式部は初め御許丸と呼ばれており、母・平保衡の娘が昌子内親王(朱雀天皇の第1皇女)付きの女房だったので、和泉式部も昌子内親王付の女童として宮中で育ったとされています。
当時、貴族の女性は家族以外の男性に顔を晒すことは許されず、御簾の中で過ごしていました。
そのため、歌のやり取りによって付き合うかどうかが決まっており、優れた和歌を詠むことができる女性は、より良い結婚相手と巡り合うことができました。
そのため、和泉式部は幼い頃から父・雅致に和歌を習い、貴族の女性たちが学ぶ手本とされた古今和歌集を全て暗記するように努めていました。
最初の結婚
995年頃、和泉式部は20歳前後で下級貴族の橘道貞と結婚しました。
そして、道貞が和泉守に任じられると、和泉式部は一緒に和泉国へ赴き、夫・道貞の任国と父・雅致の官名から和泉式部と呼ばれるようになります。
結婚当初、二人は仲が良い夫婦で、999年頃には娘の小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれました。
この頃、和泉式部は次の歌を詠んでいます。
見えもせむ 見もせん人を 朝ごとに 起きては向ふ 鏡ともがな
(いつもそばにいて見つめ合っていたいです。朝起きては見るこの鏡のように。)
このように、和泉式部は道貞を心から愛していましたが、帰京後に道貞が陸奥守に任じられて単身赴任したことで、二人の関係に暗雲が漂うようになってしまいます。
禁断の恋
一人で京都に残ることになった和泉式部は、道貞に会えない寂しさ、恋しさを歌に詠みました。
つれづれと 空ぞ見らるる 思ふ人 天降り来ん 物ならなくに
(道貞様のことを想って空ばかり見ています。天から降りて来て下さることなど、あるはずもないのに。)
やがて、和泉式部の情熱的な歌は評判となり、ある人物の心を捕らえます。
その人物とは為尊親王(冷泉天皇の第3皇子)で、和泉式部の歌に惹かれた為尊親王は積極的に迫ってきましたが、別居中とはいえ夫があり、ましてや下級貴族の者が皇族と親しく付き合うことなど、常識では考えられないことでした。
また、経済的に自立できない貴族女性にとって、妻の座を手放すということは生きていく術を失うことでもあったので、和泉式部も道貞が自分のもとに帰ってくることをひたすら待っていましたが、道貞が別の女性を妻に迎えて一緒に暮らしているという衝撃的な知らせが届きました。
道貞に裏切られた和泉式部は為尊親王の誘いに応じ、禁断の恋に身を投じてしまいます。
白波の よるにはなびく 靡(なび)き藻の なびかじと思ふ われならなくに
(白波になびく藻のように私の気持ちも揺れています。誰にもなびくことはないというような頑な女ではないのです)
和泉式部と為尊親王の恋の噂は瞬く間に宮中に広まり、道貞とは絶縁状態となってしまいました。
そして、父・雅致も禁断の恋に走った和泉式部に激怒し、父から勘当されてしまいます。
人の身も 恋にはかへつ 夏虫の あらはに燃ゆと 見えぬばかりぞ
(せっかくこの世に生まれてきたのに、恋の炎に身を滅ぼしてしまいました。まるで炎のなかで燃え尽きる夏虫のように。)
全てを失った和泉式部は為尊親王との恋に没頭し、逢瀬を重ねていましたが、約1年後、為尊親王は病で急死してしまいました。
朝廷を揺るがす大スキャンダル
為尊親王が亡くなってから約10ヶ月後、悲嘆に暮れる和泉式部のもとに新たな恋の兆しが訪れます。
ある日、為尊親王の弟である敦道親王(冷泉天皇の第4皇子)から一枝の橘の花が届けられました。
橘の花が意味したものは古今和歌集の一首、「五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」で、亡き兄を一緒に偲びませんかという思いが込められていました。
敦道親王の心を読み取った和泉式部は次の歌を返します。
薫る香に よそふるよりは 時鳥(ホトトギス) 聞かばや同じ 声やしたると
和泉式部は敦道親王を橘の花が咲く頃に鳴くホトトギスに見立て、兄・為尊親王と同じ声かあなたの声が聞きたいと、敦道親王を誘う積極的な歌を詠みましたが、この歌はもう一つ別の解釈ができるようになっていました。
当時、ホトトギスは黄泉の国からやって来て亡くなった人の声で鳴くと信じられていたので、亡くなった為尊親王の声が聞きたいと、為尊親王を偲ぶ意味にもとれるようにしていたのです。
敦道親王は和泉式部の歌の上手さに心を奪われて恋が始まり、やがて和泉式部は敦道親王のもとに迎え入れられました。
和泉式部は身分の違いから表向きは召し使いとされていましたが、実際は正妻として扱われていたので、これに傷ついた敦道親王の正妻・藤原済時の娘が家を出て行ってしまいます。
和泉式部が正妻を家から追い出したという大スキャンダルに世間は騒然となり、大きな批判を浴びましたが、二人はその後も仲良く暮らしました。
しかし4年後の1007年、敦道親王が病に倒れて亡くなってしまいます。
中宮・藤原彰子に出仕
敦道親王が亡くなってから1年後、和歌の才能が認められた和泉式部は一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えることになりました。
宮中で働くことになった和泉式部のもとには、多くの男性から恋文が届きましたが、その多くは興味本位のものばかりで、嫉妬が渦巻く宮中での生活に疲れを覚えるようになります。
再婚と和泉式部の最期
1013年頃、和泉式部は20歳も年上で、すでに50歳を過ぎていた藤原保昌と再婚しました。
そして、保昌が丹後守に任じられると一緒に丹後国に赴きましたが、保昌は次第に和泉式部のもとを訪れなくなります。
さらに、1025年頃には娘・小式部内侍が亡くなりました。
その後、和泉式部は病に倒れ、死期が近いことを悟ると次の歌を詠みます。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
(私はもうすぐ死んでしまうでしょう。あの世に持っていく思い出として、もう一度だけあなたに逢いたい。)
1036年頃、恋に生きた和泉式部は60歳前後で波瀾に満ちた生涯を終えました。
和泉式部のエピソード・逸話
浮かれ女
ある日、宮中で貴族の男性が和泉式部から渡された扇を見せびらかせていると、そこへ藤原道長が通りかかり、道長は扇に「うかれ女の扇」と書き、男の出入りが激しいと、和泉式部のことをからかいましました。
その扇を見た和泉式部は、
越えもせむ 越さずもあらむ 逢坂の 関もりならぬ 人なとがめそ
(誰と付き合おうと私の自由です。夫でもない道長様にそんなことを言われる筋合いはございません。)
と書き記して、何事もなかったように去っていきました。
当時の権力者であり、雇い主であった道長に和泉式部が反論できたのは、和歌の世界が身分などの関係がない実力主義の世界だったからで、『源氏物語』の作者である紫式部は和泉式部について「素行は良くないけど、歌は素晴らしい」と評価しています。
和泉式部の最後の思い人
恋に生きた和泉式部が最後に逢いたいと願ったのは誰だったのでしょう。
最初の夫・道貞か、禁断の恋の相手である為尊親王か、その弟・敦道親王殿下でしょうか。
それとも再婚した藤原保昌だったのでしょうか。
正確な答えは分かりませんが、最後の歌は和泉式部が死ぬ前に逢いたいと詠んでいるのではなくて、死んだ後に逢いたいと願っているとも解釈できるため、その相手は為尊親王か敦道親王のどちらかだったと考えらえます。
和泉式部のまとめ
- 大江雅致と平保衡の娘との間に生まれる
- 橘道貞と結婚し、小式部内侍を生む
- 夫・道貞との別居中に為尊親王と禁断の恋に身を投じる
- 為尊親王の死後、弟・敦道親王と結ばれる
- 敦道親王の死後、中宮・彰子に仕える
- 藤原保昌と再婚した後、娘・小式部内侍に先立たれる
- 60歳前後で亡くなる
下級貴族の出身でありながら、和泉式部は和歌で人生を切り開いて、紫式部と清少納言とともに「王朝の三才女」と呼ばれました。
和泉式部の死後、その人生は仏教の教えを広めるための説話として使われ、男性遍歴を重ねた和泉式部でも仏にすがることで極楽往生を遂げることができたと語り継がれました。
そのため、和泉式部のものとされる墓は全国各地に存在していますが、和泉式部の墓があるとされる京都の誠心院には、女性は極楽に行けないとするなかで、和泉式部が得の高い僧侶に救いを求め、その時に捧げた歌をきっかけに極楽往生を成し遂げたという伝説が残されています。
和泉式部が極楽へ導かれるきっかけとなったとされる歌は、
暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥に照せ 山の端の月
(私は今、煩悩の闇の中に迷っています。このままでは、さらに深い闇に暗に入ってしまいそうです。どうか進むべき道を照らして下さい。)
という歌で、今でも救いを求める多くの女性が和泉式部の墓を訪れています。