個人的に、「一見女性っぽいけど実は男性な名前」ランキングで1位の小野妹子。
記憶には残りやすい名前なので、一応覚えてるって人も多いはずです。
日本史を学ぶ上では、むしろ遣隋使以外では覚えることがないほどです。
では、具体的にはどんなことをしたのでしょうか。また、そのエピソードや逸話は?
簡単にまとめてみました!
小野妹子のプロフィール
小野妹子(おののいもこ)生没年不詳。
飛鳥時代の官人であり、推古天皇や聖徳太子を主君としていた人物であるとされています。
小野妹子は何をした人?
小野妹子の成し遂げたことで最も大きいものは、やはり遣隋使です。
具体的にどんなことをしたのか見ていきましょう。
1度目の遣隋使
607年、聖徳太子の命により、遣隋使として隋(中国)に派遣されました。
その目的は、隋の先進的な技術や制度を学び、日本に持ち帰ること。
実は遣隋使が派遣されたのは小野妹子で2回目のことで、以降も合わせて5回以上の派遣が行われています。
600年に派遣された1回目については『随書』に記述があり、当時の倭国(日本)の政治の在り方について、隋の高祖は納得できなかったため改善を訓令し、それに怒った倭国は『日本書紀』から派遣の事実そのものを除外した、とされています。
そして2回目、小野妹子による遣隋使。
こちらは『日本書紀』に記述が残されており、日本の王が煬帝(隋の二代目皇帝)に宛てた国書を持っていったと記されています。
その国書の内容は、まとめると以下の通り。
「日が昇る国(日本)の天子(君主)から、日が没する国(隋)の君主に書を送ります」
しかしこれを見た煬帝、「なんて無礼な手紙だ!今後こんな失礼な手紙は私に見せるな!」と大激怒。
というのも、当時の中国の思想では、「天子」に値するのは中国のトップに君臨するもの1人だけだとされており、自分だけでなく日本の君主が「天子」と名乗ったことが許せなかったのです。
さて、そんなわけで怒りに満ちた煬帝は、日本を遥かに下に見た返書を書き小野妹子に託します。
日本の君主に渡しておけ、ということです。
もちろん、そんなものをそのまま渡すわけにはいきません。
関係を築くためにわざわざ海を渡ったのに、このままでは溝が深まるだけです。
困った小野妹子。
しかし、ここでさらなる大問題が発生します。
なんと、小野妹子はその渡された返書を紛失してしまったのです。
小野妹子はこれを、「百済(朝鮮)に盗まれた」と弁明していますが、一説では返書を見せて怒りを買うことを恐れた妹子がわざと破棄したのでは、という見方もされています。
どちらにしても、周囲からすると返書をなくすという大失態を犯したのは紛れもない事実。
彼はその責任を取り流刑に処されますが、のちに恩赦されました。
2度目の遣隋使
前回隋から帰ってきた際、煬帝の勅使として裴世清という人物が日本へ来ました。
その翌年、今度は彼を隋へ送り届けるために、再び小野妹子は隋へ向かいます。
この際、多くの留学生が随行しました。
高向玄理、南淵請安、僧旻などです。
彼らはこの時学んだ技術や文化を生かし、日本に帰国後は改革に大きな役割を果たしました。
なお、遣隋使が送られたのは614年で最後とされています。
小野妹子のエピソード・逸話「お墓が2つある」
生年も没年も詳しく分かっていない小野妹子。
そのお墓とされる場所も、国内に2か所確認されています。
1つ目は大阪府南河内郡太子町にある小高い丘。
もう1つは、滋賀県大津市小野にある、小野妹子公園近くの唐臼山古墳。
3行でわかる小野妹子のまとめ
- 遣隋使として隋を訪れ、煬帝へ日本からの国書を渡したが、その返書を紛失し流刑に処された
- 2度目の隋への派遣の際には数人の留学生が同行し、隋で知識を蓄えてのちの日本の改革に大きく貢献した
- 小野妹子が眠っているとされるお墓は2か所存在し、どちらが本物かは未だ分かっていない
遣隋使として、倭国と隋の懸け橋になろうとした小野妹子。
しかし、そこで待ち受けていたのは国書に激怒する煬帝とその返書の紛失という大失態でした。
それが事故なのか故意なのか、それははっきりと分かりませんが、どちらにせよ小野妹子にとっては踏んだり蹴ったりな出来事だったに違いありません。
ただし、その活躍があったからこそ日本が大きな発展をすることができたのです。
小野妹子が取った行動も、長い目で見れば正解だったということなのかもしれませんね。
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