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戦国時代

朝倉義景ってどんな人?逸話やエピソードをまとめてみました

朝倉義景

朝倉義景(あさくら よしかげ)という人物をあまり知らない人が多いのではないでしょうか。

越後を治めていた戦国武将ですが、信長に負けた人というイメージがあり、あまり武将としても評価はよくありません。

そんな義景ですが、実際はどんな人物だったのでしょうか。

わかりやすく簡単にまとめてみました。

朝倉義景のプロフィール

  • 1533年(天文2年)朝倉孝景の長男として越前国(現在の福井県)にて生まれる。
  • 1548年(天文17年)父が亡くなり16歳で家督を継ぎ、第11代当主となり延景と名乗る。
  • 1552年(天文21年)室町幕府第13代将軍・足利義輝より義の字を与えられ義景と改名。
  • 1567年(永禄10年)足利義昭を一乗谷の安養寺に迎える。
  • 1568年(永禄11年)義昭とともに上洛した織田信長から上洛を求められるも拒否。
  • 1570年(永禄13年)織田・徳川連合軍に攻められるが浅井長政の裏切りによって勝利する(金ヶ崎城の戦い)。2か月後姉川の戦いにて敗戦。
  • 1572年(元亀3年)武田が三河へ侵攻西上作戦開始、信玄の要請に応じず越前に撤退。
  • 1573年(天正元年)武田病死。刀根板の戦い朝倉郡壊滅、退却。一乗谷城の戦い破れ賢松手寺に逃亡するが襲撃され自殺(享年41歳)。

朝倉義景は何をした人?

足利義昭が頼ってきたのに助けなかった

朝倉家は父・孝景の代より室町幕府と親密な関係を構築していました。

父が亡くなり、朝倉家当主となった義景は、第13代将軍足利義輝より「義」の字を与えられ、義景と改名しています。

その後、義輝が暗殺される事件が起こり、弟の足利義昭(のちの室町幕府15代将軍)も都を追われ、各地を転々とすることを余儀なくされ、朝倉家を頼り越前にやってきます。

そんな義昭を義景は一乗谷に迎え入れ歓迎しました。

義昭は将軍の座に就くべく上洛するため義景に支援を求めますが、義景はそれを拒否しました。

義昭を報じて上洛するということは、将軍を保護するということ、それにより政治的影響力が増すということになります。

義景はそれを放棄したのです。

まさむね
まさむね
結果、義昭は信長を頼ることになり、信長が義昭を報じて上洛し、天下を取る道へと進んでいくことになるのです。

織田信長との戦いに敗れ自害

織田信長と上洛を果たした足利義昭は、室町幕府第15代将軍となります。

信長は再三にわたり、上洛を促します。

しかし義景はそれに従いませんでした。

それにより、義景は謀反の恐れありとされ、信長から攻撃されることになるのです。

そしてその後の織田・徳川連合軍VS反信長連合軍(武田・浅井・朝倉らにより結成された信長包囲網)の戦いへ進展していきます。

金ヶ崎城の戦い、姉川の戦い、志賀の陣を経て、一時は勇勢にたったこともありましたが、結局、刀根板の戦いにて朝倉家は壊滅、退却したところ、一乗谷の戦に敗れ、賢松寺に逃げた義景は自害しました。

享年41歳でした。

朝倉義景のエピソード・逸話

戦国大名には向いていなかった

義景は上洛するチャンスを二度逃しています。

一度目は、義昭が朝倉家を頼って越前にやって来た時です。

当時越前は、他の地域に比べ国が安定していました。

義景はその安定した国で不満が無く、無理やり領土を拡大したいなどとは思っていなかったのです。

まして義昭を奉じて上洛などしたら、他の国に目立つ存在となり、あらぬ敵を作らないとも限りません。

実際、義昭に対抗していた当時の14代将軍をたてた三好らとの合戦を嫌ったとも言われています。

二度目は、義昭が将軍になり信長から上洛を促された時です。

この時は義昭が位的には下であった信長に従うのを嫌がったともされていますが、自国を長期不在にする不安があったともされています。

その結果、天下に名を馳せる最大のチャンスを逃したと言われています。

金ヶ崎の戦いでは、浅井氏が信長を裏切り、朝倉を加勢して絶好のチャンスを得たのですが、義影はそのチャンスを生かせず、信長を取り逃がしてしまいます。

さらに姉川の戦いでは、総大将を自らせず、ほかの家臣に任せていて、浅井氏の激怒にふれます。

信長包囲網を敷いて戦っていた時も、武田信玄からの要請をうけることなく、疲労と積雪を理由に撤退してしまいます。

チャンスを逃し、戦国大名として失態ともいわれる行動に、家臣が次々と信長へ寝返ってしまいました。

まさむね
まさむね
義景は「無謀なことはしない」「勝てない戦はしない」という考えをもっており、戦国武将には向いていなかったようです。

子宝恵まれず不運

義景は16歳で結婚し最初の妻との間に女の子ができますが、出産後すぐに死亡していまいます。

次の妻との間には子供ができず結局離婚しています。

その後、初めて男の子ができますが、その母は産後死亡、子供も7歳で死亡しています。

まさむね
まさむね
失意の中にいた義景は、そんな中、上洛の話があがってもそんな気になれなかったのかもしれません。

北の京を築いた文化人

義景は政務を家臣にまかせて自分は遊興にふけることもあったようです。

歌道・猿楽・絵画・茶道をたしなみ、様々な遊びに興じていたことから、文におぼれ武をなくしたと噂されたりもしています。

しかし京都から一流の文化人を招くなど、当時越前は、北の京と呼ばれていました。

現在の発掘調査において、4つの日本庭園が確認されたり、タイ製の壺や唐物茶碗、高価な輸入品が発見されており、豊かな文化を築いたことが明らかになっています。

5行でわかる朝倉義景のまとめ

まとめ
  • 足利義昭を助けず上洛しなかった
  • 織田信長と戦い自害した
  • 戦国武将には向いていなかった
  • 子宝に恵まれなかった
  • 文化人であった

朝倉義景は、戦国時代に生きた武将でしたが、力にはあまり興味がなく、平和を愛し、安定を好む文化人であったようです。

戦国時代ではなく、違う時代に生きていたら文化人として有名になっていたかもしれません。

もっといいイメージで歴史上の人物として名を残していたかもしれませんね。

この記事を読んで、朝倉義景について興味を持っていただけた嬉しいです。

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