日本には剣術の達人が何人も存在し、歴史上多彩な剣術流派が誕生しました。
その中でも、江戸時代に将軍家指南役として大いに名を馳せたのが「柳生新陰流」。
柳生新陰流を将軍家の御家流にまで高めたのが、柳生但馬守宗矩(むねのり)です。
この記事では、柳生宗矩はどんな人物だったのか、わかりやすく簡単にまとめてみました。
目次
柳生宗矩のプロフィール
柳生宗矩は1571年出生。
同年に生まれた人には、伊達政宗の遣欧使節を率いた支倉常長がいます。
その2年後には織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府が滅びたという時代でした。
父は柳生新陰流を創始した達人
父親は、柳生新陰流の流祖である柳生石舟斎。
「剣聖」上泉伊勢守より剣を学び、自らの流派をうちたてた達人です。
宗矩23歳のとき、父・石舟斎が徳川家康に招かれ、家康本人を相手に柳生新陰流の秘術「無刀取り」を見せました。
無刀取りというのはその名の通り自らは刀を持たず、刀を持った相手を制するというもの。
後世「真剣白刃取り」のような曲芸だと誤解されることもありますが、そうではなく、剣を極めた達人が、その理合や体捌きを用いてのみなしうる奥義です。
家康も「海内一の弓取り」と呼ばれた豪傑です。
その家康が無刀取りを自ら体験し、その場で石舟斎に弟子入りしたというのだから本当にすごい技だったのでしょう。
家康は剣術指南として自らに従うように要請。
弟子入りしたといえども身分の上では家康のほうが上です。
しかし石舟斎はそれを断り、5男の宗矩を推挙しました。
このとき4男の宗章も推挙されたようですが、宗章は家康には仕えませんでした。
1600年、関ヶ原の合戦を前に上杉景勝を討つために会津に進軍した家康に従うものの、石田三成の挙兵が知らされ、宗矩は地元の柳生の庄に戻って父とともに後方攪乱を行います。
柳生の庄は西軍の本陣大阪城と関ヶ原の間に位置します。
柳生家は石舟斎の代に豊臣秀吉により領地を没収されていました。
その領地が、この時の功績により家康より再び与えられました。
徳川秀忠・家光の剣術指南に
関ヶ原の合戦の翌年には、徳川秀忠の剣術指南になります。
1615年、大阪夏の陣に秀忠に従って参軍した宗矩は、秀忠に迫った武者7人を斬り倒しました。
1621年には徳川家光の剣術指南になっています。
このとき、家光が剣を学ぶ相手役になったのが、宗矩の長男・三厳。
柳生十兵衛として知られる剣豪です。
家光の信任篤かった宗矩は、幕府惣目付に任じられ、最終的には1万2500石の大名にまで出世。
地元に柳生藩をたてます。
この柳生藩はお取り潰しにあうこともなく明治まで続きました。
宗矩76歳のとき、江戸の屋敷で病に倒れます。
わざわざ家光が見舞いに訪れたということからも、その信頼の度合がわかります。
しかし病癒えず、そのまま亡くなりました。
柳生宗矩は何した人?
柳生宗矩は、一対一の手合わせではなく、戦場という実戦の場で複数の敵を斬ったと記録にも残る本物の達人です。
達人だと賞される剣術家でも、戦場で実際にその剣術の冴えを見せたと記録される人はそう多くはありません。
その剣技は、息子の十兵衛が祖父より上だと賞賛するほどでした。
活人剣をうちたてる
宗矩が生きたのは、徳川が豊臣を滅ぼし、戦国時代が収束していく時代でした。
そんな流れの中で、宗矩は人を斬り殺す「殺人剣」から「活人剣」への転換をはかります。
宗矩が遺した秘伝書『兵法家伝書』には、
「一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に人をころす刀は人をいかすつるぎなるべきにや」
「乱れたる世を治めむ為に殺人刀を用いゐて、已に治まる時は殺人刀即ち活人剣ならずや」
と記されています。
刀で人を斬るのは世の中のため、そして世が平穏に治まったなら剣術は殺人ではなく人を活かすために用いるべきであるということです。
幕府惣目付として怖れられる
幕府惣目付は後に大目付と名前が改められる役職です。
その役目は、諸国大名のみならず、公家、朝廷にまでにらみを効かせ、幕府への叛逆の動きがないかを監視することでした。
柳生宗矩は、水野守信、秋山正重、井上政重らとともに初代の幕府惣目付に任じられました。
4人の惣目付の中でも宗矩は細川忠興が「(宗矩の上司である)老中たちもおそれている」と書き残すほどでした。
謹厳実直に惣目付の勤めを果たしたことがうかがわれます。
柳生新陰流は将軍御家流となったおかげで諸国大名にも石舟斎や宗矩の門下生を派遣しており、それが情報ネットワークとなったのが宗矩の強みであったようです。
柳生宗矩のエピソード・逸話
柳生宗矩は、剣に生き、幕府への反逆者を取り締まったという人生から、ただ真面目な堅物だったり、幕府のためなら手段を選ばない冷酷な人物だったりというイメージを持たれています。
ところが現実の宗矩を調べてみると、そうでもないことがわかります。
沢庵和尚との交流
宗矩と同時代人に、禅宗の一派・臨済宗の僧侶である沢庵宗彭がいました。
宗矩は、若い頃から沢庵と交流があり、沢庵はまた宗矩に剣に例えた仏教の教えを解説した手紙なども出しています。
吉川英治の『宮本武蔵』は、宮本武蔵を導く存在として沢庵が登場します。
しかし実際には沢庵と武蔵の交流の形跡はなく、実際に沢庵と深く交流していたのは宗矩でした。
宗矩の『兵法家伝書』には、沢庵から学んだ禅の思想が全編に渡って綴られており、「剣禅一如」の思想は宗矩と沢庵の交流により生まれたことがわかります。
そんな宗矩は、沢庵が残した記録に寄るとヘビースモーカーだったようです。
そこである時沢庵はタバコを遠ざけなさいと忠告しました。
次に沢庵が宗矩に合うと、なんと宗矩は長いキセルでタバコを吸っており、タバコを遠ざけたとうそぶいたなどという話もあるようです……。
能が好きすぎて押しかけ能を舞う
日本の伝統芸能「能」は、元は猿楽と呼ばれ、現在ではお硬いイメージがあるけれど、戦国時代から江戸時代ぐらいにかけては特に武士たちにとっての娯楽として楽しまれていました。
宗矩もこの能が大好き。
能の役者とも交流があり、見るだけでなく自分で舞うことも好きだったようです。
時には踊りすぎてめまいを起こしたこともあったとか。
そして、知り合いの大名の屋敷に呼ばれもしないのに押しかけ、能を披露するというエピソードも残されています。
5行でわかる柳生宗矩のまとめ
将軍を護り、江戸幕府が安定していく礎を支えた剣豪・柳生宗矩のまとめです。
- 父は柳生新陰流を創始した達人
- 父のかわりに徳川家康の剣術指南に
- 二代将軍秀忠、三代将軍家光の剣術指南も歴任
- 大名のお目付け役として怖れられる
- 意外と茶目っ気もある人物
後世、その存在の大きさから悪役扱いされることが多い柳生宗矩。
でも、その実像は剣と禅を愛し、徳川家光からは父のように慕われる懐の深い人物でした。
父が創始し、宗矩が広めた柳生新陰流は現代まで伝えられるとともに、現代の剣道の成立にも大きな影響を及ぼしています。
また、芸能人の柳生博さん、そのご子息で癌により早逝された園芸家の柳生真吾さんも柳生家の子孫です。