三村家親という戦国武将をご存じでしょうか。
戦国時代には全国各地に多くの戦国大名が誕生しましたが名前が多く知られているのはその一部分にすぎません。
有力な戦国大名が勢力を拡大してゆく中で小さくもたくましく残り、ある一定の支配力を持った勢力もたくさん存在していました。
このような小さな勢力の大名は大きな勢力の前に対して、生き残るためには戦って勝利するか、従順に従うか判断をしなくてはいけませんでした。
三村家親は備中国(現岡山県西部)に勢力を持った戦国大名の1人でした。
決して大きな勢力とは言えませんでしたが、三村氏がどのような生き方をしたのか詳しく見てゆきたいと思います。
目次
三村家親のプロフィール
- 本名:三村家親(みむらいえちか)
- 通称・別名:修理亮、紀伊守
- 享年:不明(?~1566年)
- 備中国を中心に勢力を展開した戦国武将。隣国の浦上氏と対抗する中で宇喜多直家に依頼された刺客によって鉄砲の銃撃で命を落とす。
三村家親は何をした人?
三村家親は備中国の大部分に勢力を持った戦国武将です。
出雲国の尼子氏や安芸国の毛利氏、備前国の浦上氏・宇喜多氏といった周囲の巨大勢力に囲まれる中で、所属する勢力を巧みに替えながら備中国を支配し戦国時代を過ごしました。
大きな勢力に囲まれた大名は舵取りが非常に難しく、選択を間違えると大名家の滅亡を意味します。
家親は尼子氏・毛利氏と所属勢力を変化させますが、家親の非業の死の後に残された者たちは家親への思いから毛利氏へ敵対する意思を示したために毛利氏と宇喜多氏に両方から攻め込まれて三村氏は滅亡してしまいました。
では、具体的に家親がどのような人物だったのか具体的に見てゆきたいと思います。
三村家親のエピソード・逸話
小さな独立した大名として活躍する
三村氏は元々備中国の成羽(なりわ)と呼ばれる地域に勢力を持つ国人領主でした。
小さな勢力なので周辺の大きな勢力を持つ戦国大名に従うしかなく、三村氏は尼子経久に従って尼子氏の領国拡大に協力していました。
そんな尼子氏に従う間でも周辺の土豪と戦いを行い自らの勢力の拡大に努め、家親の代には備中国をほぼ手中にするほどに勢力を広げました。
大きな大名の家臣として尼子氏や毛利氏に取り込まれる事なく、独立した大名として活動もしっかりと行っていたという事です。
毛利氏方の豪族として認められる
家親は備中国でも毛利氏勢力に隣接する地域を支配していたので、早くから尼子氏の元を離れて毛利氏に協力するようになりました。
備中国には大きな勢力が存在していなかったので、国の北部と南側で尼子氏方につく勢力と毛利氏方につく勢力が存在する事となり、たびたび小競り合いをしていました。
尼子氏の勢力が弱まると毛利氏の攻勢が強まり、家親も同様に備中国内の尼子氏側勢力の排除につとめます。
宇喜多直家に依頼されたスナイパーで暗殺される
家親は尼子氏方の勢力と戦う一方で東側に勢力を持った浦上氏とも戦いを行っていました。
家親は浦上氏を攻略するために軍を率いていましたが、重臣らを集めて会議をしている最中に、敵の宇喜多直家に依頼された鉄砲の使い手によって銃撃され命を落としてしまいました。
戦国時代に行われた暗殺の手段としては大変珍しいケースです。
あの織田信長も紀伊国の根来衆を攻めた時には鉄砲によって銃撃されて重傷を負ったと言われています。
備中兵乱による三村氏の反抗
家親の死後から8年後、三村家親の息子である元親(もとちか)は毛利氏の勢力下で宇喜多氏と戦っていましたが、突然毛利氏が仇敵であった宇喜多氏と手を結んだ事に対して憤慨し毛利氏から離れる事にしました。
備中国の大部分は三村氏の支配下となっていましたが、巨大な毛利氏の軍勢に対して多勢に無勢であり一気に攻略されてしまい三村一族は全滅してしまいました。
この反乱は「備中兵乱」と呼ばれています。
4行でわかる三村家親のまとめ
- 戦国時代に尼子氏・毛利氏の合間にあり大きな勢力下を渡り歩く
- 小さいながらも独立した大名として勢力を持ち備中国の大部分を支配した
- 宇喜多直家の放った刺客により、鉄砲の銃撃で暗殺される
- 家親の死後に毛利氏に反抗したため、毛利氏に攻め滅ぼされる
三村氏は戦国時代に消えてしまった一つの小さな戦国大名です。
あまりその名前が知られていないのも、三村氏の勢力が小さかった事と滅亡してしまった大名だからという理由があります。
そんな小さな勢力ですが、三村家親は自分の周囲に巨大な勢力が存在しながらも、独自に勢力拡大を行い備中一国の大部分を支配下に置くことができました。
毛利氏側の勢力下に入り背後を攻撃される心配がなくなると、東側に勢力を展開していた浦上氏との戦いに専念できる事が可能になりました。
しかし、家親は不運にも敵の宇喜多直家の刺客によって当時としては珍しい鉄砲による銃撃で命を落としてしまいました。
また、家親を失った三村家に更なる追い打ちをかけたのは、毛利氏が仇敵であった宇喜多氏と手を結んでしまったという事でした。
三村氏にとってはとうてい認める事ができず、毛利氏から離れるという立場を取ったため、毛利氏、宇喜多氏双方から攻撃されて三村氏は滅亡してしまいました。
戦国時代には三村氏のような不利な選択肢を選んだ勢力も少なくはありませんでした。
目先の安泰や利益だけを考えず不利な道を選び信念を貫きとおす事こそ、後の武士道精神につながる部分が垣間見えるような気がします。