戦国時代は弱肉強食の時代であり、親兄弟が勢力争いに巻き込まれて命を落とすという事はよくある話でありました。
そんな家族や家を奪われて苦汁を味わった後に、仕返しをしたいというのは武士としての悲願ではないでしょうか。
宇喜多直家という人物は戦国時代に自らの家を滅ぼされた経験を持ち、数十年の後にその仇である人を討ち取り悲願を達成する事ができた数少ない人物の1人です。
その後、大きな勢力が自国の周囲に形成されつつある中、下克上によって宇喜多家という大名家を作り小さいながらも独立した支配権を勝ち取りました。
家を滅ぼされて、ゼロから戦国大名になるには並々ならぬ努力や行動が必要になってきます。
直家がどのような手段で戦国大名になり得たのか詳しく見てゆきましょう。
目次
宇喜田多家のプロフィール
- 本名:宇喜多直家(うきたなおいえ)
- 通称:三郎右衛門尉、和泉守
- 享年:52歳(1529~1582年)
- 暗殺を多用し勢力を拡大させた戦国大名。今の岡山県に相当する地域に勢力を持つ。
宇喜多直家は何をした人?
宇喜多直家は備前国の戦国大名である浦上氏に仕える一介の家臣でした。
しかし、その家臣同市の仲違いから、直家の祖父である能家(よしいえ)は同じ浦上家に仕える家臣であった島村盛実(しまむらもりざね)に居城を攻められて自害に追い込まれてしまいました。
この時にわずか6歳であった直家は父に連れられて浪人となってしまいます。
成人した後に浦上氏に仕えると祖父を自刃に追い込み自らの家を滅ぼした島村氏を暗殺したのを皮切りに敵対する人物を「暗殺」によって排除し、浦上家中でもトップに立ちます。
その後、主人の浦上氏を追放し戦国大名になり現在の岡山県を中心とした地域を支配下に治めました。
では、具体的にどのような事をしたのか、以下でエピソードを見てゆきたいと思います。
宇喜多直家のエピソード・逸話
祖父能家の敵討ちをする
直家は幼少の頃に同じ浦上氏に仕える家臣であった島村盛実によって祖父能家を自害に追い込まれ、居城も奪われて父親とともに流浪の身を経験しました。
この苦汁を味わった事が直家の中に強く刻まれていたことでしょう。
成人した後に再び浦上氏に仕えるようになると、祖父の仇であった島村盛実に裏切りの疑いをかけて殺害する事に成功しました。
「暗殺」を多用し浦上家中でトップに登りつめる
直家が使った手段でよくみられるのが相手を油断させておいて暗殺するという方法でした。
自分の舅である中山氏を殺害し浦上家中のライバル家臣を次々と排斥してトップに登りつめる事になりました。
近年まで浦上氏の家臣であった撮所(さいしょ)氏も直家によって暗殺されたと言われていましたが、別の人物によって暗殺された事が分かりました。
敵の大名も暗殺して勢力を弱体化させる
直家が暗殺を行ったのはライバル家臣だけでなく、敵対する大名もそのターゲットになりました。
当時、浦上氏の近辺では備中国(岡山県西部)に勢力を持っていた三村家親(みむらいえちか)という大名がいました。
三村氏が浦上氏を攻めるために重臣を集めて会議をしていた時、鉄砲を持った刺客を配置し、火縄銃によって銃撃して殺害しました。
この三村家親の死によって三村氏は弱体化する原因にもなりました。
また、暗殺の手段として鉄砲が使用されたのは、織田信長の暗殺未遂事件もありますが、とても珍しいケースでした。
主人に対して2回も下克上を企てる
直家は浦上家の中でトップに登りつめ、隣国の三村家親おも殺害する事に成功すると、徐々に野望が芽生えてきたのか主人である浦上氏に最初の反乱を起こしました。
しかし、まだ協力する勢力が少なく最初の反乱は失敗に終わります。
それだけ能力を持っていた直家の存在が必要とされていた表れなのかもしれません。
しかしその5年後に直家は毛利氏などと協力すると再び反乱を起こし浦上氏を国外に追放し、戦国大名宇喜多氏を誕生させました。
巨大勢力の合間で上手く世渡りをする
宇喜多直家が戦国大名として誕生した1575年頃は戦国時代の終盤に差し掛かった頃で、周囲には中部地方から関西地方にかけて大きな勢力となっていた織田信長や、中国地方に大きな支配を広げていた毛利元就などがいました。
宇喜多家が戦国大名として生き残るためにはこの巨大勢力とどのように付き合っていくのかという課題がありました。
宇喜多氏はまず、共通の敵であった三村氏を滅ぼした後に西側の毛利氏に属します。
その後、東側より織田氏の勢力が強まると織田方に属し毛利氏に対抗しました。
織田信長の死後は豊臣秀吉に従い、直家の息子の宇喜多秀家は信頼されて五大老という職に就きました。
4行でわかる宇喜多直家のまとめ
- 幼少の頃に祖父を殺され苦汁を舐めるが成人した後に敵討ちを遂げる。
- 使える浦上家の内部でライバル勢力を排除しトップに登りつめる。
- 直家本人に野望が芽生え、下克上により仕えていた浦上氏を追放し戦国大名となる。
- 巨大勢力に挟まれるも上手く世渡りを行い息子は豊臣政権の重要ポストに就任する。
宇喜多直家は「暗殺」という手段を多用したため、戦国時代に美濃国の斎藤道三や安芸国の毛利元就のように謀略を用いた戦国武将として知られています。
幼少の頃に祖父の能家を殺されて居城を奪われ流浪の身を味わったという思いから、どんな事をしても必ず敵を討ちたいという強い意識が芽生えたのかもしれません。
その結果、自身の仕える浦上家の内部でも卑怯な手段かもしれませんが「暗殺」という手法を用いるなどした結果、敵対勢力を排除し自分の意のままに動く勢力の強化に当たったのではないでしょうか。
ただ、「暗殺」だけでは世の中は生きてゆけません。
もちろん他に認められる部分があってこそ、ある一定規模の範囲内で戦国武将と成り得る事ができたのだと思います。
直家は敵に謀略を用いる武将として恐れられる一方で、自らの家臣はとても大切にしたようで、古くからの家臣は終生直家を支え続けたと言われています。
しかし、息子の秀家は羽柴秀吉から「秀」の文字をもらい豊臣政権でとても重用されましたが関ヶ原の戦いで西軍に属したため取り潰しとなり八丈島に島流しとなりました。
宇喜多氏の子孫はその後百姓となり、現在でも八丈島には浮田(うきた)と名乗る子孫が多く住んでいます。