高杉晋作と言えば、漫画や小説でもよく登場する幕末の偉人でも有名な人物です。
破天荒であったり、ヒーローのような描かれ方をすることが多いようですが、実際はどのような人物だったのでしょうか。
この記事では高杉晋作がどのような人物だったかを簡単にご紹介します。
目次
高杉晋作のプロフィール
- 1839年(天保10)9月27日生まれ
- 幕末の志士
- 松下村塾で学ぶ
- 奇兵隊の創始者
- 1867年(慶応3)4月14日 肺結核のため死去 享年27
高杉晋作は何をした人?
高杉晋作について欠かせない出来事と言えば、「奇兵隊」の誕生です。
では奇兵隊ができるまでや、組織された後の高杉と奇兵隊の関係はどのようなものだったのでしょうか。
ここからは高杉の生涯と奇兵隊創設をはじめとした、彼の功績についてご説明します。
誕生
1839年9月27日、長州藩の中級武士の長男として高杉晋作は誕生しました。
漢学塾で学んだ後、14歳で藩校の明倫館に入学します。
しかし明倫館での決まりきった授業に魅力を感じなかった高杉は落第を繰り返します。
一方柳生新陰流剣術を学び、免許皆伝されます。
松下村塾
高杉が19歳の時、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門します。
ここで高杉は頭角を現し、同じく塾生の久坂玄瑞と並んで「識の高杉、才の久坂」と称されます。
松下村塾で松陰と出会ったことで、高杉は松陰の実行を重んじる教えに傾倒し、自らも後の攘夷活動で実行力を発揮します。
1858年(安政5)に藩命で江戸の昌平坂学問所で学び、その翌年に安政の大獄で捕らえられた松陰を見舞いましたが、松陰は処刑されてしまいます。
上海留学
1862年(文久2)5月、高杉は幕府の随行員として上海へ渡航します。
そこで高杉が見たのは、清(中国)が欧米の植民地と化している実情でした。
清の実情から高杉は、「公武合体は時代遅れで、富国強兵・尊王攘夷を目指すべきだ」と考えるようになります。
ペリー来航により、開国した日本もこのままではいずれ清と同じ運命を辿ってしまうと危機感を抱いたのです。
帰国後、高杉は久坂玄瑞や木戸孝允らとともに攘夷・倒幕の活動に力を入れます。
そして同年12月に品川に建設中だった英国公使館を焼き討ちにするなど、過激な行動で攘夷を進めようとしました。
奇兵隊
1863年(文久3)5月10日、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行いますが、英仏の報復にあい惨敗します。
これを受けて長州は高杉に下関防衛を命じました。
このとき作られたのが「奇兵隊」です。
奇兵隊は武士、農民、町民と身分に関係なく、本人の能力があれば入隊できました。
募集を行ったところ、4日で60人程の有志が集まったといいます。
高杉は初代総監となり、厳しい軍律のもと近代的な西洋式訓練を行いました。
奇兵隊が発足したことがきっかけで、遊撃隊や義勇隊といった民兵組織が次々と作られ、長州藩の軍事力は飛躍的に進歩しました。
しかし民衆が武器を持つことを良しとしない武士もおり、このような武士を奇兵隊士が斬りつけるという事件が起こってしまいました。
この責任を取る形で高杉は3か月ほどで奇兵隊総監を罷免されてしまいます。
禁門の変と外国からの脅威
1863年(文久3)、八月十八日の政変で長州は京都から追放されます。
巻き返しを図るため、長州藩士は京都に潜伏し謀略をめぐらせようとするも、池田屋事件により藩士が複数名殺害されてしまいます。
これをきっかけに禁門の変へと発展し、敗北した長州は朝敵となりました。
高杉は脱藩し、久坂玄瑞は自害します。
さらに追い打ちをかけるように、長州は英・仏・米・蘭による四か国連合艦隊によって下関を砲撃され、砲台を占拠されてしまいます。
このとき高杉は脱藩の罪で謹慎中でしたが、藩に召喚され四か国との和議交渉にあたるよう命じられます。
この交渉の中で連合国側から提示されたのは、300万ドルの賠償金と彦島の租借でした。
しかし高杉はどちらもはねのけただけではなく、賠償金は幕府に請求しろと言い放ったのです。
結局賠償金は幕府が支払うことになり、停戦となりました。
功山寺挙兵
同じ頃、長州征伐の進軍が迫り、長州は幕府恭順に傾きます。
藩の中で多数を占めた恭順派に高杉は追放され、禁門の変の始末として家老3人の切腹と軍の参謀4人の処刑が行われました。
これに激怒した高杉は挙兵を決意します。
しかし当初功山寺に集まったのは伊藤博文が率いる力士隊をはじめとした80人ほどでした。
しかしこの人数で下関の役所を占領すると、次第に協力者が増え、当初は反対していた奇兵隊もこの戦いに参加し、最終的には3000人もの軍隊になりました。
そして幕府恭順派を倒し、長州の方針を「倒幕」へとまとめ上げることに成功したのです。
第二次長州征伐
第一次長州征伐の始末として、幕府は長州に対して領地の削減を命じました。
しかし倒幕を決意した長州はこれを拒否し、第二次長州征伐が決定します。
高杉は海軍総督に任命されます。
幕府は大型の艦隊4隻を長州に送り込みましたが、高杉は小舟1隻で幕府軍に夜襲をかけ、周防大島を奪還します。
更に奇兵隊・報国隊を指揮し北九州の幕府砲台・火薬庫を破壊し、幕府軍に勝利しました。
これにより幕府は権威を落とし、いよいよ倒幕が実現間近に迫った頃、高杉は肺結核に倒れ、1867年(慶応3)4月14日にこの世を去ります。
享年27。
大政奉還の半年前のことでした。
高杉晋作のエピソード・逸話
ここまで高杉の生涯を簡単に説明してきましたが、かなり能力のある人物だということがわかったと思います。
長州も高杉の能力を買っていました。
ここでは高杉だったから許されたであろう、ちょっとびっくりする高杉のエピソードをご紹介します。
脱藩を繰り返していた
当時、自分が所属する藩を勝手に離れることは「脱藩」と言って、死罪になってもおかしくない重罪でした。
高杉はこの脱藩を生涯で5回以上繰り返しています。
これにより投獄されたり謹慎を命じられてはいますが、いずれも死罪は免れています。
それどころか高杉の謹慎中に藩に危機が迫ると、決まって高杉は呼び戻されています。
藩に黙って軍艦を購入
長州が武力倒幕へと舵切りを行ったとき、長州は薩摩を通して海援隊から武器を購入します。
その中には軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」も含まれていました。
高杉は丙寅丸を藩に何の相談もなく勝手に購入したのです。
その額は現在の金額で14億4千万円。
現在の感覚ではあり得ないことですが、長州は事後承諾の形でこの請求を受け取りました。
高杉晋作のまとめ
- 松下村塾で久坂玄瑞らと共に学ぶ
- 上海留学を機に攘夷に目覚める
- 奇兵隊を創設した
- 長州を倒幕路線へと導いた
- 第二次長州征伐で幕府軍に勝利
- 肺結核により、若くして亡くなった
高杉晋作は長州の危機を救い、倒幕へと藩を導きました。
少数でも志のある仲間たちと戦い、勝利を収めたというエピソードから高杉の人気ぶりも頷けます。
倒幕を目前に若くして亡くなってしまったのは、さぞかし無念だったことでしょう。
高杉の存在なくしては、長州を倒幕1本にまとめることはできませんでした。
幕末を語る上で高杉はなくてはならない人物と言えるでしょう。