徳川慶喜(とくがわよしのぶ)といえば、江戸幕府最後の将軍として有名ですが、どんな事をした人物なのでしょうか。
江戸幕府を終わらせてしまったことで“無能な人”というイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。
この記事では徳川慶喜はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
徳川慶喜のプロフィール
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
- 幼名:松平七郎麻呂(まつだいらしちろうまろ)
- 父:徳川斉昭(水戸藩第9代藩主)、母:吉子女王(有栖川宮織仁親王の第12王女)
- 享年77(天保8年9月29日/1837年10月28日~大正2年/1913年11月22日)
- 江戸幕府第15代征夷大将軍(在位:慶応2年12月5日/1867年1月10日~慶応3年12月9日/1868年1月3日)
徳川慶喜は何した人?関連する事件など
激動の時代に翻弄されて最後の将軍となった徳川慶喜ですが、そもそも何をした人なのでしょうか?
特に有名な出来事を並べてみると、
- 将軍継嗣問題
- 大政奉還
などがあります。
以下で詳しく紹介しますね。
将軍継嗣問題
徳川慶喜は徳川斉昭の7男として生まれましたが、幼い頃から賢い子として有名で、「慶喜を将軍に!」と考える人がたくさんいました。
13代将軍徳川家定はとても病弱で、男子を儲ける見込みがありませんでした。
そのため「次の将軍は誰にする?」と後継者争いが起こります。
一橋家の養子となった慶喜を推す一橋派と、紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派が14代将軍の座を狙って争いました。
一橋派を応援したのは、父である徳川斉昭と松平慶永(越前藩主)・島津斉彬(薩摩藩主)など。
水戸藩・越前藩・薩摩藩はいずれも雄藩(勢力の強い藩)です。
つまり一橋派の中心は有力な大名で、年長で聡明な慶喜を将軍にして雄藩と幕府が協力して難局を乗り越えようと考えていました。
対する南紀派の中心は、井伊直弼(彦根藩主)と諸大名です。
幼年だけど血統が近い慶福を将軍にして、幕府の専制政治を維持しようと考えていました。
この争いは、井伊直弼が大老(江戸幕府の最高職)に就任したことで南紀派が勝利し、慶福は家定が亡くなると14代将軍家茂となりました。
大政奉還
14代将軍家茂が亡くなったことで、1866年12月5日、慶喜は15代将軍になりました。
薩摩藩・長州藩を中心に討幕の動きが強まるなかで、1867年10月14日、討幕の密勅が出されます。
薩長両藩と岩倉具視が手を組み、明治天皇に「幕府を倒せ!」という命令を出させたのでした。
このままでは、幕府は倒されてしまいます。
しかし、幕府を倒すことに反対する人がいました。
混乱して弱った日本を植民地にしようと外国が狙っている。
今は日本人同士で争っている場合じゃない。
「本当の敵は幕府じゃなくて外国だ!」
このように考える坂本龍馬と後藤象二郎は、前土佐藩種の山内豊信(容堂)を頼り、1867年10月14日、慶喜に大政奉還をさせます。
つまり、討幕の密勅を無意味なものにして、争いを避けるために、一時的に政権を朝廷に返しただけで、大政奉還=江戸幕府の滅亡ではありません。
慶喜は政権を朝廷に返しても、徳川家の権力は揺るがないものと考えていました。
実際、突然に政権を返されても当時の朝廷には政治を執れる能力はなく、しばらくの間は旧幕府が代行していて、徳川家の影響力は強いままでした。
王政復古の大号令
討幕派の人たちにとっては、「幕府を倒したいのに幕府がない……」状態です。
そこで1867年12月9日、王政復古の大号令が出されました。
「幕府・摂政・関白」などの制度を廃止して、新しい政府をつくることが宣言されたのです。
ここに約260年続いた江戸幕府は滅亡してしまったのでした。
その後、1867年12月9日、小御所会議が開かれ、慶喜に内大臣の辞退と領地の一部を返上させること(辞官納地)を命じることが決められます。
辞官納地の命令を伝えられた慶喜は、幕臣が暴発して朝敵(朝廷の敵)になることを恐れて大坂城へ退去しました。
戊辰戦争
しかし、薩摩藩の挑発に乗ってしまったことで、1868年戊辰戦争が開始されてしまいます。
鳥羽・伏見の戦いに敗北した慶喜は、まだ勝てる兵力があったのに、僅かな家臣たちと江戸へ退却してしまいました。
しかも兵士に「最後まで戦い抜け!」と言った後に……。
この「敵前逃亡」といわれても仕方がない行動を慶喜がとった理由には、朝敵の汚名を恐れていたことなど考えられていますが、この行動は慶喜の評価を下げる一因となっています。
その後、慶喜は自ら謹慎して江戸城を明け渡し、静岡で暮らしました。
徳川慶喜のエピソード・逸話
そんな徳川慶喜ですが、こんな一面もあります。
寝るのが命がけ?
幼い頃から賢いことで評判だった慶喜ですが、寝相が悪いという欠点がありました。
礼儀作法を重んじる徳川斉昭は「このままでは将軍になれない!」と、慶喜が寝る枕の両側にカミソリを置くことで寝相を改善しようとします。
父による超スパルタ的な躾によって寝相は改善されたそうですが、成人してからも緊張感を保つために、この習慣は続けていたそうです。
また暗殺対策として、妻と妾の2人とYの字になるように3人で寝て、利き手である右腕を守れるよう、右肩を下にして寝ていたとされています。
手裏剣の達人
慶喜は手裏剣術に熱心で、日本でもトップクラスの実力でした。
流派は「知新流手裏剣」で、大政奉還後も毎日修練を行うなど、手裏剣の達人たちの中でも最も有名な人物とされています
江戸のビッグダディ
イケメンだった慶喜は正室だった一条美賀子の他にも、多くの女性を妾とも側室ともよばれる側用人として仕えさせていました。
一条美賀子と慶喜はあまり仲が良くなく、生まれた子どもも早くに亡くなり、成人することはありませんでした。
しかし慶喜は、側室の中村幸とは10人、新村信とは11人の子どもを儲けました。
21人の子宝数は江戸幕府将軍の中でも第3位の記録です。
豚肉がお好きな一橋様
慶喜は薩摩産の豚肉が好物で、「豚肉がお好きな一橋様」の意味で「豚一様」と呼ばれていました。
当時の日本人には獣肉を食べる風習がなかったので、堂々と豚肉を食べる慶喜の姿に世間の人は驚いて「豚一様」と揶揄されていたのです。
しかし、慶喜は周囲の反応を気にせず、横浜が開港されると、いち早く肉を取り寄せました。
超多趣味!
好奇心旺盛な慶喜は、写真・油絵・手芸(刺繍)・釣り・狩猟・囲碁・自転車など、さまざまな趣味に興じました。
特に写真は撮るのも映るのも大好きで、写真雑誌にも投稿していましたが、作品の評価は散々なものでした。
慶喜は趣味に没頭するだけではなく、1902年、貴族院議員となり、35年振りに政治に関わりました。
そして、1913年11月22日、急性肺炎で亡くなります。
享年77歳でした。
これは江戸幕府の歴代将軍のなかで最高齢の記録です。
徳川慶喜のまとめ
- 江戸幕府第15代征夷大将軍。
- 7男として生まれたが優秀だったため、将軍の後継者争いが勃発した。
- 慶喜の代に大政奉還が行われ、一時的に政権が朝廷へ返された。
- 王政復古の大号令により、江戸幕府が滅亡。慶喜が江戸幕府最後の将軍に。
- 戊辰戦争で敗北した慶喜は、退却したのち自ら江戸城を明け渡した。
- 寝相が悪く、枕の両側にカミソリを置く父のスパルタ教育で改善された。
- 手裏剣の実力は日本でトップクラス。
- イケメンで多くの女性との間に合計21人の子供がいた。
- 豚肉が好きで、写真・油絵・手芸・釣り・狩猟・囲碁・自転車など多くの趣味を持っていた。
良く言えば“天真爛漫”、悪くいえば“協調性がない”。
頭脳明晰だったけど、言動と行動が全く違う。
徳川慶喜ほど評価が二つに別れる人はいないかもしれません。
しかし、大政奉還と江戸城無血開城を実現させたことで、多くの命が救われたことは事実で、「慶喜でなかったら、この難局を乗り越えられなかった」ともいわれていることから、日本の近代化に貢献した1人の人物として評価されるべきだとされています。