鳥羽天皇(とばてんのう)といえば、院政を行った天皇のなかでも地味な存在で、承久の乱を起こした後鳥羽天皇と名前が似ているため、間違える人も多いのではないでしょうか。
後鳥羽天皇よりも少し前の平安時代後期、崇徳・近衛・後白河の3代の天皇の上に28年にわたる院政を行った鳥羽天皇は、崇徳天皇と対立して保元の乱の原因をつくってしまいました。
この記事では鳥羽天皇はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
鳥羽天皇のプロフィール
- 鳥羽天皇(とばてんのう)
- 諱:宗仁(むねひと)
- 父:堀河天皇(第73代天皇)
- 母:藤原苡子(藤原実季の娘)
- 享年54(1103年1月16日~1156年7月2日)
- 第74代天皇(在位:1107年7月19日~1123年1月28日)
鳥羽天皇は何した人?
祖父である白河法皇から受けた屈辱を崇徳天皇に繰り返して恨まれた鳥羽天皇の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
鳥羽天皇の生い立ち
鳥羽天皇は堀河天皇と藤原苡子(しげこ)の第1皇子として生まれました。
生まれてすぐに苡子が亡くなったので、祖父である白河法皇の下に引き取られて養育され、生後7ヵ月で立太子されます。
1107年、堀河天皇が亡くなったため、鳥羽天皇は5歳で即位しましたが、鳥羽天皇が幼かったことと、白河法皇のおかげで摂関職に就けた藤原忠実が白河法皇に逆らえない状態だったので、実際の政務は白河法皇が執っていました。
1117年、成人した鳥羽天皇は、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)を中宮に迎え、1119年に第1皇子である顕仁(あきひと)親王が生まれます。
事実上の君主である治天の君(ちてんのきみ)として君臨し、院政を行っていた白河法皇は、顕仁親王に譲位するように鳥羽天皇に迫りました。
白河法皇が鳥羽天皇に譲位を迫った理由として、鳥羽天皇が政務を執れる年齢になったので、幼い顕仁親王を即位させることで、白河法皇が権力を維持しようとしたことが考えられています。
1123年、白河法皇の圧力により、鳥羽天皇は崇徳天皇に譲位しましたが、その後も実権は白河法皇が握り続けました。
鳥羽上皇の院政
1129年、絶大な権力を握って43年間にわたる院政を行った白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は院政を開始します。
白河法皇に失脚させられていた藤原忠実を呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させました。
また、白河法皇の側近を排除し、藤原顕頼や藤原家成などを重用して院の要職を自分の側近で固めたほか、平忠盛の内昇殿を許して政権に近づけるなど、白河法皇以上に伊勢平氏を優遇します。
さらに、白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子(たまこ)に代わり、1133年頃から藤原得子(美福門院)を寵愛するようになりました。
そして、得子(なりこ)との間に生まれた躰仁(なりひと)親王を即位させるため、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫ります。
1141年、鳥羽上皇は3歳の躰仁親王を即位させて、崇徳天皇を無理やり退位させました。
強引な手段で近衛天皇を即位させた鳥羽上皇は、1142年に東大寺戒壇院で受戒して法皇となります。
1155年、近衛天皇が17歳の若さで亡くなると、鳥羽法皇と美福門院は鳥羽法皇の第4皇子である雅仁親王の第1皇子で、美福門院の養子でもある守仁親王を即位させようとしました。
しかし、守仁親王が年少だったことと、存命中の雅仁親王を飛び越えて守仁親王が即位することが疑問視されたので、守仁親王が成長するまでの中継ぎとして、雅仁親王を後白河天皇として即位させます。
鳥羽法皇と保元の乱
1156年、鳥羽法皇は病に倒れて54歳で亡くなりましたが、鳥羽法皇が亡くなった直後に保元の乱が起こりました。
躰仁親王の即位を望む鳥羽法皇は躰仁親王を崇徳天皇の養子にしていたので、崇徳天皇は譲位しても院政を行えると考えていましたが、宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されており、即位した近衛天皇の父ではなく兄とされた崇徳上皇は、院政を行うことができないまま、譲位させられていました。
さらに、近衛天皇の次の天皇として、自分の第1皇子である重仁親王を望む崇徳上皇に対し、鳥羽法皇が後白河天皇を即位させた結果、崇徳上皇は院政を行う望みが打ち砕かれ、自分の血筋が皇位から外されたことを激しく恨みます。
そのため、鳥羽法皇が亡くなってからわずか9日後、崇徳上皇と後白河天皇の対立に、藤原摂関家の内紛が混合した保元の乱が起こってしまったのでした。
鳥羽天皇のエピソード・逸話
待賢門院璋子との関係
鳥羽天皇は藤原璋子(待賢門院)を中宮に迎えましたが、璋子の入内は鳥羽天皇の生涯に暗い影を落とすことになります。
権大納言・藤原公実の娘である璋子は幼いころから白河法皇に溺愛されており、白河法皇の養女として鳥羽天皇に入内しました。
しかし、藤原忠通との縁談が持ち上がった際、璋子の素行を理由に固辞されるなど、璋子には悪い噂があったのです。
その噂とは、璋子は白河院と関係を持っていたというビックリなもので、白河法皇が亡くなると、鳥羽天皇はワケありの璋子を冷遇して藤原得子(美福門院)を寵愛するようになりました。
複雑な思いを抱きながらも、璋子との間に5男2女を儲けた鳥羽天皇は、多くの子どもをつくることで白河法皇に復讐をしたとも考えられていますが、藤原頼長の日記である『台記』には、璋子が病に倒れて亡くなったとき、臨終を看取った鳥羽天皇は悲しみのあまりに磬子(葬儀や法事の際、お経の区切りを合図する仏具)をガンガン鳴らして泣き叫んだとされています。
璋子は権勢に無関心だったそうですが、悪意のない璋子の存在自体が天皇家を混乱させてしまいました。
崇徳天皇との関係
崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子だと疑っていた鳥羽天皇は、崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていました。
崇徳天皇を無理やり譲位させたり、崇徳天皇の血筋を皇位から外すなど、鳥羽天皇と崇徳天皇の仲は最後まで悪く、病に倒れた鳥羽天皇は見舞いに訪れた崇徳天皇との対面を拒み、自分の遺体を崇徳天皇に見せないように側近に命じたとされています。
その一方で、疱瘡が流行して崇徳天皇が病に倒れた際には、鳥羽天皇は感染する危険を押して見舞いに駆けつけたとそうです。
鳥羽天皇と崇徳天皇が本当はどのような関係にあったのか真相は分かりませんが、鳥羽天皇が崇徳天皇を冷遇したことが保元の乱につながり、崇徳天皇は讃岐へ流罪されてしまいました。
鳥羽天皇のまとめ
- 5歳で天皇に即位する
- 白河法皇の圧力で崇徳天皇に譲位する
- 寵愛する得子との間に生まれた躰仁親王を即位させるために崇徳天皇に譲位を迫る
- 院政による復権を願う崇徳上皇を警戒して後白河天皇を即位させる
- 保元の乱の原因をつくって54歳で崩御する
- 待賢門院璋子を冷遇していたが、泣き叫びながら臨終を看取る
- 崇徳天皇の本当の父親は白河法皇だと疑い、「叔父子」と呼んで忌み嫌う
祖父である白河法皇に無理やり譲位させられた屈辱を、自分の子ではないと疑っていた崇徳天皇に繰り返して恨まれ、保元の乱の原因をつくってしまいました。
「天皇の器量にあらず」と酷評しながらも崇徳天皇の望みを打ち砕くために即位させた後白河天皇が、源頼朝に「日本国第一の大天狗」と呼ばれるほど、武士勢力と互角に渡り合うとは考えていなかったでしょう。
後白河天皇が34年にわたる院政を行えたのは、鳥羽天皇の功績といえるのかもしれません。