陰陽師安倍晴明。
小説、映画、漫画、アニメなどで活躍する彼は、日本最強の呪術師のようなイメージで描かれています。
しかし、彼は本当にそんな「能力者」のような存在だったのでしょうか?
その知名度に反してあまり知られていない実像に迫ってみようと思います。
目次
安倍晴明のプロフィール
安倍晴明は、平安時代中頃の921年に生まれたとされています。
父親は、朝廷で宴会の食事をとりしきった大膳大夫の安倍益材だとも、淡路守(今で言えば知事のようなもの)の安倍春材だとも言われはっきりしません。
安倍晴明の読み方は?
一般的に「あべのせいめい」と呼ばれていますが、実際晴明が生きていた時代にどう呼ばれていたかは不明です。
日本では、古代の読みがわからない人物は、便宜的に音読みで読んでおくという慣習があります。
例えば藤原道長の娘で一条天皇の皇后となった藤原彰子は「あきこ」と呼ばれたのか「しょうこ」と呼ばれたのか不明なので、便宜的に「しょうし」と呼び習わされています。
ですから、晴明も実際には「はるあき」だったかもしれないし「はるあきら」だったかもしれません。
40歳になるまで陰陽道を学ぶ
フィクションには若くイケメンの晴明が登場しがちですが、現実の歴史の中に晴明が登場するのは、晴明40歳のときでした。
40歳の当時、晴明は天文得業生、天文道という学問を学ぶ学生だったようです。
その年に、晴明は天皇に占いを命じられています。
40歳になるまでの晴明は、当時の陰陽師の大家である賀茂忠行、その子の賀茂保憲に陰陽道を学んでいたと伝えられています。
50歳で天文博士に
50歳には天文道を教える立場である天文博士となりました。
天文道というのは現代の天文学ではなく、星や日月の運行から吉凶を占う学問です。
ただ、そのためには天体の運行を計算する能力が必要でした。
そうした経験から、税の計算などを行う主計寮勤めとなり、最終的には播磨守にまでなりました。
晴明の享年は84歳。
平安時代では異例の長寿だったようです。
安倍晴明は何をした人?
平安時代は妖怪や怨霊などが信じられていた時代です。
例えば晴明が生まれる18年前に菅原道真が亡くなっていますが、その後に起こった道真を失脚に追い込んだ人物の事故死、病死から宮殿への落雷に至るまで道真の怨霊のせいだとされ、それを鎮めるために神として祀られたりしています。
陰陽師に求められたのは、魔除け、占い、方違えスケジュールの作成などでした。
でも当時の人たちにとっては真剣な問題だったのです。
呪術師として活躍
第65代の花山天皇がまだ皇太子であられたとき、晴明に命じて皇太子の修行を邪魔する天狗を封じさせたということがありました。
またその後、一条天皇の御代に、天皇の病気を禊によって治した、旱魃のおりに雨乞いを成功させたなど、後のフィクションにつながる呪術師としての業績が伝わっています。
しかし、なにせ平安時代のことですからその虚実はわかりません。
天狗が実在するはずがないので、天皇を襲撃した「天狗のような装束」の武装勢力を武力で鎮圧したのかもしれないし、実際天皇の病気を治したのは御典医だったかもしれない。
雨乞いは天候を読んで雨が降りそうなタイミングに合わせて行ったのかもしれない。
とにかくそうした業績から、晴明は天皇や貴族からの信頼が厚かったようです。
本当に超能力者のような扱いだったなら事務処理などやらせないでしょう。
明治まで続く陰陽道の名門を確立
占いやおまじないを通じて天皇家、藤原家などとつながりを強めた晴明は、長生きだったのが功を奏したのか師匠筋にあたる賀茂氏と並び立つ地位にまで上り詰めました。
晴明は、中国から伝わった六壬神課という占いを『占事略决』という本にまとめて子孫に残しています。
そして、晴明の子供も天文博士や陰陽助など、朝廷の陰陽寮の官職に就き、安倍氏、その後裔である土御門氏は、なんと明治時代に至るまで朝廷の陰陽寮を取り仕切りました。
陰陽寮は、晴明の34代の子孫で最後の陰陽頭であった土御門晴雄の病死により、明治3年、近代化をすすめる明治政府により廃止されました。
安倍晴明のエピソード・逸話
史実として伝わる晴明の天狗封じや雨乞いなどは、そのまま事実として信じるのは難しいです。
しかし、当時の人はそれが晴明の能力だと信じ、晴明死後にはそのイメージが拡大されて盛られていきます。
晴明の母親は狐っ娘?
浄瑠璃に『芦屋道満大内鑑』という作品があります。
芦屋道満は、晴明のライバルとされる陰陽師です。
この作品に晴明の出生譚が描かれています。
芦屋道満の弟の石川悪右衛門の妻が病気になったとき、道満は野狐の肝を食べさせれば治るという占いをたてます。
そこで悪右衛門が森で狐を狩ろうとしたところ、安倍保名という人物が追われていた白狐を助けてやります。
しかし、保名はそのせいで怪我を負いました。
後日、葛の葉という女性が保名を訪ね、看病をしているうちに二人はひかれあって、やがて子供が生まれます。
実はこの葛の葉は、保名が助けた白狐が化けた狐っ娘。
そして生まれた子こそが安倍晴明だったというのです。
ちなみにこの安倍保名という人物は実在しません。
このエピソードが、作者の竹田出雲がケモナーだったために創作したものか、伝説として伝わっていたものかどうかは不明です。
晴明式神を使役する
伝説上の安倍晴明の能力を象徴するものに「式神(しきがみ)」があります。
これは、人の形などに切った紙に鬼神の魂を宿らせて使役するというもの。
晴明は自宅近くの一条戻橋に式神を潜ませ、橋を行き来する人の様子を探らせていたといいます。
式神はどうやら陰陽師の専売特許というわけでもなさそう。
ある日、ある仏僧が2人の子供を連れて晴明を訪ね、陰陽道を学びたいと申し出ました。
実は僧侶が連れた子どもは式神で、僧侶は晴明の力を試してやろうと訪れたのです。
僧侶が連れた子供が式神だと見抜いた晴明は、子供たちに術をかけます。
あとで教えてあげるから今日は帰りなさいと僧侶を帰らせる晴明。
しかしほどなくして僧侶が戻ってきて、子どもたちを返してほしいと願い出ました。
晴明は、そんな試すようなことをしても自分には通じないと諭し、子どもたちを返してやりました。
僧侶は他人の式神まで操るとはなんという力だと感服し、今度は本当に自分の本名を教え、弟子となりました。
4行でわかる安倍晴明のまとめ
- 40歳まで学生
- 学生の身分から10年で天文博士に
- 占いや呪術で天皇、貴族の信頼を得る
- 後にラノベ的なキャラクターになる
なにせ40歳までは何をやっていたのかまったくわからない人物ですから、長年積み重ねた努力の結果として天文博士、陰陽師として大成したのか、中年以降に突然その道を目指して学生になって才覚をあらわした天才だったのか判断がつきかねない人物です。
謎の人物だっただけに、逆にフィクション化しやすかったのかもしれません。
ただ、立場としてはただの宮廷占い師が、こんな伝説にされるのですから、実際伝説級にすごかった人なのかもしれませんね。