戦国時代

2代目服部半蔵・服部正成はどんな人?実は忍者じゃなかった?

服部半蔵正成

服部半蔵(はっとり はんぞう)というと忍者のイメージがありますが、実在したのでしょうか?

また、実在したとしたらどのような人物だったのでしょうか?

この記事では、2代目服部半蔵、服部正成(はっとり まさなり/まさしげ)について詳しくまとめてみました。

服部半蔵正成のプロフィール

服部正成は、1542年出生。

その翌年、後に正成が仕える徳川家康が生まれています。

父は服部保長。

この服部保長こそが初代服部半蔵です。

保長は、徳川家康の祖父・松平清康の家臣で、正成もそのまま松平家に仕えます。

一説には初陣は16歳のとき。

今川家に属する鵜殿氏の上ノ郷城を攻めて武功をあげ、家康から褒美をとらされたと言いますが、正成16歳のとき家康は今川家に人質として出されていたので事実ではないようです。

1570年。

織田信長朝倉義景浅井長政連合軍との間で「姉川の戦い」が勃発。

この戦いにおいて、正成は、一番最初に敵を倒す「一番槍」の手柄を上げています。

その2年後、徳川家康が武田信玄にボロクソに負けた「三方ヶ原の戦い」でも、正成は一番槍をあげました。

1582年、本能寺の変が起きます。

堺に滞在していた家康は、信長が討たれた知らせを聞いて即座に三河に引き返します。

そのとき通ったのが、正成の父保長の出身地である伊賀でした。

正成や伊賀者の活躍もあって無事逃れることができた家康は、正成を先手頭にとりたてました。

先手頭とは、いわば足軽隊の戦闘指揮官です。

家康が信長の遺児・織田信雄をかついで豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦い。

秀吉が北条氏を滅ぼした小田原攻めなどで手柄を立てた正成は、遠江(だいたい静岡県の西部ぐらい)に領地を与えられます。

その後正成は、家康より江戸に寺を建てるように命じられました。

それは、亡き息子信康を弔うためのものだったようです。

しかし、関ヶ原の戦いの3年前、1597年に正成は寺の完成を待たずに病に倒れて亡くなりました。

享年55歳。

亡骸は、完成したのちの寺に葬られました。

服部半蔵正成は何をした人?

二代目服部半蔵、服部正成のプロフィールを見て「ん?」と思った人もいるかもしれません。

服部半蔵といえば日本を代表する忍者。

でもこのプロフィールを見るとまったく忍者っぽくないじゃないかと。

最初から忍者ではなかった二代目服部半蔵

初代服部半蔵・服部保長は「伊賀者」でした。

伊賀者は、平時は田畑を耕し、戦のときには侍に雇われて諜報活動を行いました。

そう、いわゆる忍者です。

まさむね
まさむね
実際の忍者はフィクションのような派手な存在ではなく、諜報・偵察が主な仕事。

いわばスパイです。

保長は、その時によって雇い主が変わる不安定な伊賀者でいることを嫌い、三河の松平に足軽として士官しました。

つまり、服部家はすでに初代半蔵の時点で忍者を辞めていたのです。

フィクションなどでは、本能寺の変の後伊賀の山中を逃げる家康の前に忍者の服部半蔵が現れ、伊賀忍者とともに家康を逃したため、家康に取り立てられたというエピソードが見られます。

でも実際は最初から松平(徳川)の家臣でした。

正成も足軽として松平に仕えます。

正成が一番槍をあげたというのは、つまり戦の最先鋒に配置される足軽だったからです。

足軽はいわば使い捨ての兵卒で、侍ではありません。

しかし正成は「鬼半蔵」と呼ばれるほどの剛の者で、次々と手柄をあげ、一介の足軽から足軽を率いる先手頭、そして小田原攻めでは鉄砲奉行となって、ついには領地を与えられる侍とまで出世したのでした。

まさむね
まさむね
同じく足軽から天下人になった豊臣秀吉ほどではなかったとはいえ、足軽からここまで出世するには相当の武力と智恵、運が必要だったでしょう。

忍者を率いて徳川を守る

服部半蔵正成が伊賀越えから家康の臣下になったというのは事実ではありません。

しかし、伊賀者が伊賀越えの功績により家康に「伊賀同心」として召し抱えられたというのは本当のことです。

正成は、その伊賀同心の指揮権を与えられました。

信長死後、家康は武田が滅んで空白地帯になっていた甲斐・信濃を獲得しようとします。

しかし、同じく領土獲得を狙う北条などとの対立が起きました。

家康に従い甲斐に入った正成は、伊賀同心を率いて砦や街道の警備、北条方の城の夜襲などを行い活躍します。

まさむね
まさむね
こうした活躍が、後に「伊賀忍者の棟梁」としての服部半蔵像につながったのかもしれません。

ただ、実際には正成は伊賀同心を臣下にしたわけではなく、指揮権を任せられただけなので、正成に指揮されることに不満を持つ伊賀者もいたようです。

小牧・長久手の戦いにも伊賀者を率いて参加。

この時には、フィクションでは伊賀のライバルとされる甲賀者も指揮下にいたようです。

ただ、この時の伊賀・甲賀衆は鉄砲隊となっていました。

まさむね
まさむね
つまり、諜報員から戦闘員に転身していたということになります。

服部半蔵正成のエピソード・逸話

現実の服部半蔵正成は、闇に紛れて暗躍する忍者のイメージとは正反対。

槍働きで名をあげて「鬼半蔵」と呼ばれるほどの豪傑でした。

そしてまた、裏切りが常の忍者とは正反対の忠義に篤い人物でもありました。

松平信康の介錯を命じられるも果たせず

1579年、家康の長男である松平信康が、父家康の命により切腹させられました。

信康は織田徳川同盟を強固とするために、信長の娘の徳姫と結婚していましたが、その徳姫が信康と不仲になったおりに、信康が武田と内通したと讒言します。

これを信じた信長は、疑いを晴らせと家康に要求。

そのため家康は、信康に腹を切らせるしかなかったのです(通説では)。

信康切腹の介錯(切腹する人の首を切り落とす役の人)として選ばれたのが服部正成でした。

一説には信康の守役だったともいいます。

しかし、信康切腹の場に赴いた正成は、涙が溢れ、代々仕えた主君に刃を向けられないと介錯の役目を果たせませんでした。

そこでやむなく剣士役の天方道綱という人物が代わりに介錯したと言われています。

まさむね
まさむね
これを聞いた家康は、正成を責めるどころかその忠義に感じ入ったそうです。

実は12代目までいる服部半蔵

服部正成は父から半蔵の名を継いだ二代目服部半蔵です。

半蔵の名は、その後も受け継がれていき、七代目あたりからは桑名松平家の家老にまで出世しました。

そして最後の服部半蔵は、明治時代まで生きて三重県の区長などを勤めています。

現代にまで残る江戸城半蔵門。

その名前の由来は、服部半蔵正成の屋敷と伊賀同心たちの住居がその付近にあったからだと言われています(異説もあります)。

まさむね
まさむね
正成が家康の下で手柄を立て、侍にまで取り立てられなければ、「服部半蔵」の名はその後伝わらなかったかもしれません。

5行でわかる服部正成のまとめ

まとめ
  • 父の代から忍者ではなかった
  • 最初から松平の家臣
  • 忍術はできないが槍の名手
  • 実力で足軽から侍に出世
  • 子孫は桑名藩の家老に

一般的に知られる「忍者・服部半蔵」とはかなり違う現実の服部半蔵だったので、イメージと違うとがっかりした人もいるかもしれませんね。

でも、私はフィクションの冷徹なニンジャマスターとしての半蔵より、現実の「侍・服部半蔵」のほうが魅力的な人物に思えます。

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