江戸時代

保科正之はどんな人?有能な彼の功績をわかりやすく簡単にまとめてみました

保科正之

日本史の中にも名君と呼ばれる人は数多く存在しますが、その中でも「ベスト・オブ・名君」を選ぶとしたら誰か?

江戸時代初期の「天下の副将軍」保科正之(ほしな まさゆき)こそふさわしいと主張しても、反対意見はそれほど出ないのではないかと思います。

保科正之のことを知らない人でも、これを読めばなるほど名君だと思ってもらえるのではないでしょうか?

保科正之のプロフィール

保科正之が生まれたのは、関ヶ原の合戦からわずか11年後の西暦1611年。

大阪冬の陣の3年前で、まだ豊臣家が健在。
江戸の徳川家と緊張状態が続いていたころです。

将軍の弟だけど隠し子

当時の征夷大将軍は、江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠

正之の父は、この将軍秀忠でした。

つまり、正之は後の将軍・徳川家光の弟ということになります。

しかし、正之の母は、秀忠の正室どころか側室でもない、秀忠の姥の侍女。

この当時大奥というシステムはありませんから、身ごもった正之の母はひっそりと見性院という尼さんに預けられ、正之を産みました。

どうやら正之の出生はごく一部のみに知られる秘密だったようです。

特に、気性が激しいと言われる秀忠の正室・お江の方にはひた隠しにされていた様子。

正之は、出生を見届けた見性院に育てられました。

まさむね
まさむね
ちなみにこの見性院、そんじょそこらの尼さんではなく、武田信玄の娘というかなり由緒正しい身分の人でした。

そして正之7歳のとき、見性院のはからいで、元は信玄の家臣で、後に徳川家康の家臣となった保科正光の養子とされました。

保科正光は、関ヶ原の合戦のおり、浜松城を守備して東軍の背後をかためた功により、信濃の国高遠藩の藩主となっていました。

正之は、産みの母とともに高遠に迎えられ、7歳にしてやっと実の母子で過ごすことができました。

将軍となった兄に気に入られスピード出世

そして20歳のとき、正之は養父を継いで高遠藩藩主となります。

その翌年、実の父である二代将軍秀忠が死去。

それに伴い、兄の徳川家光が将軍職を継ぎました。

家光が正之の存在を知ったのは、秀忠死去後だったようです。

父の死後突然現れたいわば「隠し子」の正之を、家光は自分の弟だと認め、まず山形藩20万石を与えます。

まさむね
まさむね
高遠藩は3万石ですから、かなりの出世です。

どのようなやりとりがあったかまでは不明ですが、家光はかなり正之を気に入ったようでした。

天下の副将軍へ

そしてそこから10年も経たず、前代の藩主だった加藤家が改易されたのに伴って、会津23万石の藩主とされました。

1651年、正之は将軍家光の臨終の際に呼ばれ、次代の将軍家綱の補佐をするように懇願されています。

将軍を継いだとき、徳川家綱はわずか11歳。

下手な相手を補佐役にすれば、将軍家が乗っ取られる危険もありました。

正之が、どれだけ家光に信用されていたかがわかります。

正之は、将軍補佐として幕府をとりしきり、30年近くにもわたる家綱政権を盤石なものにしました。

まさむね
まさむね
現実には「副将軍」という役職はありません。

ただ、正之はまさしく「天下の副将軍」だったと言えます。

正之は58歳のときに藩主の座を子に譲ったものの、幕府への影響力は隠然として続いていました。

そして1672年、江戸の会津藩邸で死去。
まだ61歳という若さでした。

正之は神道式に神様として祀られました。

保科正之は何をした人?

保科正之には数々の功績があります。

それを全て挙げたら1冊の本になるほどです。

その中でも、特に際立った功績を挙げてみたいと思います。

江戸城の天守閣を再建せず

1657年、江戸に大火事が起こりました。
世にいう「明暦の大火」です。

これは江戸時代最大の火事で、江戸城にまで累が及び、天守閣が焼け落ちました。

天守閣はいわばお城の象徴。
当然再建論が起こります。

しかし正之はこう言いました。

「天守閣というのは織田信長が考え出したものだが、これが軍事的に役立った例はほとんどなく、上から眺める役にしかたたない。そんなものを作るぐらいなら、そこに使う金や人員を、江戸の町の復興に使うべきだろう。」

この意見には将軍家綱も賛成し、災害にあった江戸の町は復興することができました。

まさむね
まさむね
現在、江戸城天守閣を復元しようという動きもあるようですが、試算によれば300億円から500億円。

現代の建築技術を使ってもこれだけのお金がかかるものを、もし当時幕府の権威にこだわって再建していれば、江戸の復興は遅れたどころか不可能だったかもしれません。

備蓄米制度を導入

飢饉、飢餓、一揆などが起きるのは、そもそも政治がそれに対応した政策を行っていないからだと考えた正之は、会津藩に「社倉」という制度を設けました。

これは、ただ米を蓄えるというだけではなく、平時には米を領民に貸して、利息をとるといういわば「米の銀行」のようなもの。

そして、いざ凶作だった年には、備蓄米を民衆に開放しました。

この制度によって会津藩には潤沢な備蓄米が増え、これ以降会津藩には飢饉は起きず、それどころか他の藩の飢饉まで救うこともありました。

玉川上水を整備

徳川政権が安定期に入り、江戸の町に人が増えると、水不足問題が発生しました。

それを解決するため、正之は江戸近郊の多摩川から江戸まで水を引く水路の建築を建議します。

これには、まだ戦国の気風を残す幕臣から反対意見がありました。
そんな長い水路を引いて、敵が攻めてきたらどうするのかと。

正之は言い返します。
「いやいや、今になって誰が攻めてくるっていうの?」と。

こうして玉川上水が建設され、江戸の水不足は解消されました。

まさむね
まさむね
このように、徹底して民のほうへ目を向けていたのが保科正之という人です。

保科正之のエピソード・逸話

保科正之のことを調べても、ほんとうに名君エピソードしか出てきません。

それでもそんな中から興味深いものを拾ってみました。

先に養子がいるからと駄々をこねる

長じた後は完璧としか思えない人物だった正之にも、幼少時にはかわいらしいエピソードがあります。

正之が7歳のおりに、保科正光の養子になったことはすでに触れました。

実は、この時点ですでに正光には養子がいました。

母に連れられて高遠に向かう途中、そのことを知った正之は、もう養子がいるところに行くのはいやだと駄々をこね、なだめられてやっと言うことを聞いたといいます。

囲碁好きがこうじて改暦に?

江戸時代、囲碁は特に上級武士にとっては修めるべき教養の一つでした。

寺社奉行の下には「碁所」が置かれ、現代の囲碁タイトルにもなっている本因坊家などが選ばれて、幕臣や大名に囲碁を指南したり、将軍の前で囲碁の解説などを行っていました。

正之もまた囲碁を好み、安井算哲(二代目)という棋士を召し抱えて、囲碁の指南を受けていました。

この二代目安井算哲こそが、日本初の独自の暦をつくった渋川春海です。

当時日本で使われていた公式の暦は、平安時代に中国からもたらされたものでした。

しかし、800年近く経って、暦と実際の季節や星の運行にズレが生じていました。

そこで正之は、算術や天文にも詳しい算哲に、現実に則した改暦を命じたといわれています。

上保科正之のまとめ

保科正之に関しては、これでもまったく語り足りないです。

彼の生涯について詳しく知りたい人には、小説『名君の碑』などがおすすめです。

  • 江戸城天守閣再建より、町の復興を優先
  • 備蓄米制度を確立
  • 玉川上水を整備

正之は、他に殉死を禁止したり、大名が晩年に養子をとることを禁じる政策を緩和し、お家断絶を減らすなどの功績もあります。

ただ、彼が会津藩に残した家訓に、将軍への絶対忠誠があったために、後に島津による会津殲滅戦という悲劇が引き起こされることにもなりました。

といってもそれは後の話、正之に非があったわけではありません。

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