井伊直弼(いいなおすけ)といえば、「安政の大獄」と「桜田門外の変」で有名ですが、どんなことをした人物なのでしょうか。
自分に逆らう者を弾圧したことで恨まれて暗殺された“悪人”というイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。
この記事では井伊直弼はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
井伊直弼のプロフィール
- 井伊直弼(いいなおすけ)
- 幼名:鉄之助(てつのすけ)・鉄三郎(てつさぶろう)
- 父:井伊直中(彦根藩第13代藩主)、母:お富の方(直中の側室)
- 享年46(1815年10月29日~1860年3月3日)
井伊直弼は何をした人?
特に関係がある出来事を並べてみると、
- 家督相続
- 日米和親条約
- 日米修好通商条約
- 安政の大獄
- 桜田門外の変
などがあります。
順番に紹介していきますね。
家督相続
井伊直弼は、第13代彦根藩主井伊直中(なおなか)の14男として生まれました。
兄弟が多く、庶子(正室ではない女性から生まれた子供)だったこともあり、32歳まで300俵の部屋住み(次男以下で家督を相続できない者)として過ごします。
家督を継げる見込みもなく、養子の話も上手くいかなかった直弼は、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎(うもれぎのや)」と自虐的に名付けた邸宅で暮らしていました。
ところが、直弼の兄で第14代彦根藩主井伊直亮(なおあき/直中の3男)の後継者だった井伊直元(なおもと/直中の11男)が死去してしまいます。
直弼以外の兄弟は他家に養子に出されていたため、1850年直弼は36歳で第15代彦根藩主になりました。
藩主となった直弼は、先代の遺産15万両(彦根藩の1年分の収益と同じ)を家臣と領民に分け与えます。
そして、領内を視察し、生活が苦しい者には食料を与え、病気の者は医師の診察を受けさせるなど、領民を思いやる政治を行いました。
そのため、直弼は「領民に対する憐みの心を持った名君である」と高く評価されます。
日米和親条約
直弼が藩政改革に成功した頃、日本を揺るがす大事件が起きました。
1853年、ペリーが来航し、開国と通商を求めてきたのです。
大混乱に陥った幕府は、諸大名を集めて意見を求めました。
直弼は、「開国こそが日本を救う道だ!」と主張します。
直弼は、「今の日本は外国に勝てない。まず開国して交易を行い、その利益によって国力と軍事力を高めるべきだ」と考えていました。
開国論を主張する直弼と対立したのが、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)です。
斉昭は「開国反対!外国を追い出してしまえ!」と強硬な攘夷論を主張しました。
直弼と斉昭の対立が深まるなか、前よりも多い7隻の軍艦を率いて、ペリーが再び来航します。
圧倒的な軍事力をもつアメリカを拒絶することは無理だと判断した幕府は、1854年日米和親条約を締結したのでした。
日米修好通商条約
日米和親条約には、貿易が認められていません。
そのため、今度は通商条約を結ぶことが求められました。
しかし、斉昭たちの攘夷派が猛反対したので、天皇の権威を借りて条約反対派を抑えようとします。
幕府は、孝明天皇に条約の勅許(天皇の許可)を出させようとしますが、外国を嫌う孝明天皇は勅許を出しませんでした。
この難局を乗り切るため、1858年直弼は大老(幕府の最高職)に抜擢されます。
直弼は、「天皇の勅許がないまま条約を締結すれば、攘夷派が反発して内乱が起こるかもしれない。そうなれば外国の思うツボだ。斉昭たちを説得しなければならない」と考えていました。
しかし、多くの幕臣が早く条約を締結するように求めたことと、交渉に行き詰まった場合には条約を締結しても仕方がないと直弼が言ったことで、天皇の許可を得ないまま、1858年日米修好通商条約が締結されます。
将軍継嗣問題
この頃、第13代将軍徳川家定(いえさだ)の後継者をめぐり、争いが起こっていました。
聡明な一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推す一橋派と、血統が近い第13代紀州藩主徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派が激しく争います。
一橋派を支持したのは、慶喜の父である斉昭、第16代越前藩主松平慶永(よしなが)、第11代薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)などの雄藩(勢力の強い藩)で、南紀派を支持したのは、直弼などの譜代大名たちでした。
この争いは、直弼が大老に就任したことで南紀派が勝利し、慶福は家定が亡くなると第14代将軍徳川家茂(いえもち)となります。
安政の大獄
日米修好通商条約と将軍継嗣問題をめぐり、斉昭たち一橋派は無断で江戸城を訪れ、直弼を厳しく問いつめました。
これに対して直弼は、違法な登城を理由に、一橋派に隠居・謹慎の処分を下して、政治活動ができないようにします。
これが、「安政の大獄」の始まりとなりました。
直弼に反発する水戸藩士たちは、孝明天皇から「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」という、幕府を非難する声明を得ます。
さらに、幕府ではなく水戸藩に対して、この声明を諸大名に伝えることが命じられました。
これに激怒した直弼は、密勅に関わった人物を捕らえ、厳しい態度で取り調べを進めます。
すると、武力による討幕計画などが露見したため、関係したとされる皇族や公家、僧、藩主や浪人、学者、町人まで、100名以上が処罰されました。
桜田門外の変
このような直弼の政策は、尊王攘夷派などの反対勢力から強い反感を買いました。
さらに、直弼が水戸藩に「戊午の密勅」の返納を求めたことで、激怒した水戸藩士の過激派が、直弼の暗殺計画を立てたのでした。
1860年3月3日の午前9時ごろ、駕籠に乗って江戸城に向かっていた直弼は、水戸藩の脱藩浪士ら18名の襲撃を受けます。
最初に短銃で撃たれて腰に重傷を負った直弼は駕籠から動けず、何度も刀を突き刺された後に引きずり出され、首を刎ねられました。
享年46(満44歳没)。
この暗殺事件は発生した場所から、桜田門外の変と呼ばれています。
井伊直弼のエピソード・逸話
チャカポン
彦根藩主になるまで、ニート状態の直弼にあったのは、時間だけでした。
そのため、直弼は茶の湯・和歌・能・鼓・曹洞宗の禅・国学・兵学・居合術などを学び、とことん極めます。
茶の湯では石州流の中に自分の一派を確立、和歌では歌集を残す、能楽では狂言作者として才能を発揮、居合術では新流派を開くなど、直弼は趣味に没頭しました。
そのため、直弼は「チャカポン(茶・歌・鼓)」というあだ名をつけられてしまいます。
恋人はスパイ
趣味に没頭していた直弼には、村山たかという恋人がいました。
たかはとても美人で、直弼の兄である直亮に見初められて愛妾となりますが、暇を出されてしまいます。
その後、直弼が25歳、たかが30歳の時に2人は再会して恋人になりましたが、直弼はたかと絶縁状態になりました。
その理由は、「直弼が側室を迎えたからでは?」「たかが直弼の子供を妊娠したからでは?」といわれていますが、これは世間の目を気にしてのフェイクで、2人の関係は続いていたとされています。
やがて、たかは直弼の国学の先生であった長野主膳義言(ながのしゅぜんよしとき)と心を通わせるようになり、直弼のスパイとなって動くようになりました。
芸妓としての経歴があるたかは、どんな屋敷にも怪しまれる事なく侵入できたので、たかが集めた情報をもとに、直弼は安政の大獄を断行したとされています。
井伊直弼のまとめ
- 14男だったけど「棚からぼた餅」的に第15代彦根藩主になる
- 開国論を主張して、徳川斉昭と対立する
- 天皇の許可を得ずに、日米修好通商条約を締結する
- 将軍継嗣問題でも、徳川斉昭と対立する
- 安政の大獄で、逆らう者をすべて処罰する
- 桜田門外の変で暗殺される
- 「チャカポン」というあだ名をつけられる
- 恋人をスパイとして使った
徳川慶喜が「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評価したように、直弼は実行力には優れていたものの、やり過ぎて不興を買ってしまいました。
「開国を決断した英雄」or「安政の大獄を断行した独裁者」
直弼に対する評価は両極端に別れますが、ただひたすら日本のことを考えて国難に立ち向かったことは間違いありません。
もっと色んなシリーズを作って欲しいです
とても分りやすいです