伊藤博文と言えば、初代内閣総理大臣に就任した歴史上のビッグネームです。
その名を知らない人はほとんどいないでしょう。
しかし伊藤のそれまでの生涯やどのような人物だったかを知る人は少ないと思います。
このページでは伊藤博文が内閣総理大臣になるまでの変遷やどのような人物だったかを簡単にご説明します。
目次
伊藤博文のプロフィール
- 1841年(天保12)9月2日生まれ
- 幼名 利助
- 松下村塾で学ぶ
- 初代内閣総理大臣
- 大日本帝国憲法の発布に貢献
- 韓国のハルビンで暗殺される 享年69
伊藤博文は何をした人?
ここからは伊藤博文の功績を彼の生涯とともに見ていきたいと思います。
農民から足軽へ
1841年9月2日、周防国熊毛郡(現・山口県光市)で林十蔵の長男として伊藤博文は誕生しました。
1854年(安政元)に父の十蔵が足軽・伊藤弥右衛門の養子となったため、博文も足軽となり、伊藤姓を名乗るようになりました。
松下村塾で学ぶ
1857年(安政4)、15歳の時に吉田松陰が教える、松下村塾に入門します。
伊藤は松陰から「素直な性格で、地味なところが好ましい」「政治才能がある」と評されています。
また、この頃松陰より「俊輔」の名を与えられています。
伊藤は松下村塾で学ぶ中で尊王攘夷運動に身を投じていきます。
安政の大獄で師匠の松陰が亡くなってからは特に活動が過激になり、1862年(文久2)には品川にあるイギリス公使館の焼き討ちにも参加しています。
イギリス留学
1863年(文久3)、伊藤は井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・井上勝らとともにイギリスに渡航します。
彼らは長州五傑と呼ばれています。
伊藤はそれまでは過激な攘夷思想を持っていましたが、留学中にイギリスと日本のあまりの国力の差を目の当たりにし、開国派に転じます。
短期の留学ながら、伊藤は日常会話ができるほど英語を習得しました。
これが買われ、下関戦争の際にイギリス側との和平交渉を行っています。
内閣制度の樹立と大日本帝国憲法の制定
明治維新後はさまざまな役職を歴任し、特に大久保利通の右腕として殖産興業政策の推進に尽力し、政治的な力をつけていきます。
大久保の死後は跡を引き継ぐ形で内務卿に就任します。
このことにより、伊藤は明治政府の中心人物として日本の近代化に力を尽くしていきます。
1882年(明治15)から1883年(明治16)にかけて、伊藤は欧米の憲法制度を調査するために渡欧し、プロイセン(ドイツ)で憲法や内閣制度を学びました。
そして1885年(明治18)に内閣制度を導入し、初代内閣総理大臣に就任します。
この後、伊藤は合計4回総理大臣に就任しています。
1886年(明治19)には憲法の草案に着手し、1889年(明治22)黒田清隆内閣の下で大日本帝国憲法を発布しました。
暗殺
1905年(明治38)から1909年(明治42)にかけて初代韓国統監を務め、韓国併合に立ち会います。
韓国統監を辞任した後、満州・朝鮮問題についてロシアと話し合うために満州のハルビン駅に訪れた際に韓国の民族運動家・安重根(アンジュングン)によって暗殺されます。
享年69歳でした。
伊藤博文のエピソード・逸話
初代内閣総理大臣になったり、大日本帝国憲法を発布したりとものすごい偉業を成し遂げた伊藤博文ですが、実は筋金入りの女好きで有名でした。
ここでは伊藤の女好きエピソードをいくつかご紹介したいと思います。
浮気のせいで離婚
伊藤は生涯で2回結婚しています。
1回目は松下村塾時代の先輩・入江九一の妹のすみ子です。
しかし伊藤は浮気を繰り返し、ついには浮気相手との間に子供をつくってしまいます。
このことが決定打となってすみ子とは離婚します。
その浮気相手というのは、伊藤の2番目の妻になる梅子でした。
あだ名は「ほうき」
伊藤は当時「ほうき」と呼ばれていました。
その理由は女性を掃いては捨て、掃いては捨てを繰り返していたからだといいます。
しかも伊藤は梅子という妻がいるにも関わらず、芸者を家に連れ帰ることもあったといいます。
「英雄色を好む」という言葉がありますが、奥さんとしてはたまったものではありませんね。
明治天皇に怒られる
伊藤は女遊びが目に余ると明治天皇に苦言を呈されたことがあります。
しかし伊藤は「みんなこそこそと裏でやっていることです。私は堂々とやっているだけです。」と答えたと言います。
伊藤の死因が女に刺されたことではないのが不思議なくらいです。
伊藤博文のまとめ
- 農民から日本のトップに上り詰めた
- 若い頃は過激な攘夷派だった
- 初代内閣総理大臣に就任
- 大日本帝国憲法制定に尽力した
- 満州で暗殺された
- 女好きで有名だった
松下村塾の出身者で一貫して攘夷を訴えた人々はほとんどが早くに戦死しています。
伊藤はイギリス留学を機に開国派に転じたため幕末の動乱を生き抜き、明治政府の中心人物からついには日本のトップまで上り詰めました。
伊藤の功績は日本の近代化、ひいては現代日本の根幹に関わるものです。
その一方で手のつけようのない女好きだったというのですから、歴史上の偉人は凡人にはわからないところがあるものですね。
そんな悪癖を持ちながらも、生涯要職に就き続けることができた理由は、松陰先生も評価した伊藤の人柄のおかげかもしれませんね。