戦国時代

【織田長益(織田有楽斎)】女遊びや茶の湯に生きた信長の弟の生涯

織田長益

世の中には兄弟は似ているのが当然という奇妙な考え方の人がいます。

でも、兄弟といえども違う人格なのだから、それぞれの個性があり、兄弟だからといって必ずしも似ていなければならないということはありえません。

とはいえ、戦国時代の武将・織田長益(おだながます)は、強烈な兄とはあまりにもかけ離れた人物でした。

織田長益のプロフィール

織田長益は1547年生まれ。

戦国時代のただ中で、誰が覇権を握るのかすら判然としない群雄割拠の時代でした。

長益の13歳年上の兄が、織田信長です。

つまり、織田信長の弟ということになりますね。

生後の長益は、織田家家老の平手政秀に預けられて、武芸よりも四書五経や歴史、礼儀作法、そして茶の湯を学ばされていたと伝えられます。

まさむね
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あるいは信長のような傾奇者にはしたくないという思いがあったのかもしれません。

しかし、政秀は長益が6歳の時に自刃しているので、実際にはそれほど多くのものは学んではいないでしょう。

それ以後のことはあまりわかっていません。

本能寺の変

長益が記録に現れるのは彼が34歳のときのこと。

1581年に正親町天皇の御前で行われた軍事パレード「お馬揃え」に参加しています。

その翌年、1582年に行われた、甲斐武田を殲滅する戦い、甲斐征伐では、信長の長男、織田信忠の麾下に入っています。

あるいは信忠の後見役だったのではないかとも言われています。

同年、本能寺の変が勃発。

長益は、信忠とともに二条城におり、明智光秀の軍が攻め寄せたとき信忠は自刃したのに対し、長益は脱出したため、人でなしと言われたとか。

しかしこれは後世に言われたことで、本当に二条城にいたのかすら定かではありません。

秀吉の御伽衆になる

本能寺の変後には、信長の次男・織田信雄の下についています。

1590年、信雄は天下人となった豊臣秀吉から国替えを命じられるもののそれを拒否。

そのためお取り潰しになりました。

信雄がお取り潰しになってからは、剃髪して「織田有楽斎(おだうらくさい)」と名乗るようになり、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)となっています。

御伽衆とは、農民上がりで教養がない秀吉に、礼儀作法や茶の湯などを指導する役割で、また主君のご機嫌取りでもありました。

教養がなければできない役目です。

関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に入って、臣下の手柄を献上される形で武功をあげたことになっています。

その功によって長益は大和に3万2000石の所領を与えられました。

徳川の世になってからは茶の湯にいそしみ、75歳のときに隠居先の京都で亡くなっています。

織田長益は何をした人?

織田長益は、武将としてはさして目立った功績は残していません。

しかし、交渉人としての才覚があり、そちらで大きな功績を残しています。

また、長益流の茶の湯も創始しました。

交渉人として活躍

日本の戦において、織田信長が行ったような殲滅戦は例外的であり、多くはある程度勝負が見えたところで敵の降伏、あるいは条件を提示した上での和睦が行われます。

しかし、さっきまで殺し合いをしていた敵同士、話を進めるには間に立つ人が必要です。

間に立つ人は、双方から信頼を得て仲を取り持たなければいけません。

逆に話をこじらせてしまったら無意味です。

長益はそうした仲立ち役、交渉人として活躍しました。

その才覚が最も発揮されたのが、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉が戦った小牧長久手の戦いです。

まず、その戦いで秀吉についた滝川一益が、信雄側の蟹江城を落として占拠。

その蟹江城を信雄と家康の軍が包囲。

長益が一益を説得して開城させます。

小牧長久手の戦いはかなり広範囲にわたって局地戦が行われています。

ところが、信雄が家康には無断で秀吉との講和に応じてしまったので、家康ははしごを降ろされた状態になり、領土の三河に撤退。

そこで長益が、秀吉と家康の間に入って、家康に次男の於義丸、後の結城秀康を、秀吉の養子という形で人質に出させることで和議を結ばせました。

まさむね
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こうした折衝は経験なしにできることではなく、おそらく信長存命中にもそのような役割をつとめていたものと推測されています。

長益は大阪冬の陣において大阪城に入り、姪の淀殿を説得して徳川と和議をむすばせました。

しかし、徳川が強硬策に出たため大阪城内は主戦派の力が強くなり、夏の陣を前にしてもう誰も言うことを聞かなくなったと大阪城を離れています。

このことから、長益は家康の意を受けて大阪城に送り込まれていたとする説もあります。

茶道有楽流を創始

長益は後の世に「利休七哲」に数えられる千利休の高弟です。

いつ千利休の門下に入ったのは定かではありませんが、茶の湯の秘伝とされる「台子点前」を、豊臣秀吉の前で利休から相伝しています。

その長益が創始したのが、武家茶道の一派である有楽流(うらくりゅう)です。

利休の茶は、客も主人も茶室の中では対等で、相互にもてなし、もてなされるというある意味緊張感を必要とされるものでした。

それに対し、武家の茶は世俗での武家のしきたりを重んじて、茶室の中でも身分の上下を認めます。

そして、主人が客をおもてなしすることに重きを置いたのが有楽流だといいます。

有楽流は現在でも長益の子孫に受け継がれています。

織田長益のエピソード・逸話

戦の仲裁につとめ、茶道の流派を創始というとなかなか真面目で堅物に見えるかもしれません。

でも、意外とそんなことはなく、遊び人であったようです。

古田織部を招いてからかう

1607年というと関ヶ原の戦いと大坂の陣のちょうど真ん中ぐらいの時期。

このころ、長益は同じ千利休の弟子である古田織部を台子点前の席に招きました。

台子点前は茶の湯の秘伝。

貴人をもてなすときに用いられるものだったそうです。

織部は将軍・徳川秀忠の茶の湯指南といういわば天下一の茶人ですから、台子点前でもてなすのは当然。

というのは建前の話。

長益は織部が利休から台子点前の指導を受けてないことを知っていました。

台子点前は、もてなす方にも、もてなされる方にも作法があります。

織部はその作法を知りません。

しかし、天下の茶人として織部は秘伝を知らないと言うわけにはいかず、知ったかぶりをします。

でも知ったかぶりなのであきらかに間違った作法を行う織部。

それを長益はにやにやしながら眺めていたそうです。

まさむね
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ようするに作法を知らない織部をからかうために呼んだのですね。

そして結局織部は風炉を覗き込んだときに炭の火でやけどをして、茶席をめちゃくちゃにするという大失態を犯します。

茶席はお開きとなり、その日二人は茶室に寝っ転がって楽しく過ごしたとか。

まさむね
まさむね
長益と織部は、古くからのつきあいで気のおけない仲だったからこそ、こういうどぎついいたずらを仕掛けても笑って許されたのでしょう。

女たらしの子沢山

長益の正室は、織田家家老の平手政秀の娘の清、後に出家して雲仙院と称する女性です。

長益には6男3女、計9人の子供がいますが、そのうち正室の清との子だとわかっているのは次男の頼長だけ、あとは側室でもないどこの誰ともわかっていない女性との子です。

そのせいかどうかはわかりませんが、次男の頼長はグレて傾奇者になりました。

いくつか妾宅を持つ女たらしで、わりと下半身では自由奔放だった様子。

その是非を現代の価値観で問うのは無意味なことです。

母親不詳の4男・長政は家康の小姓から大和国戒重藩の藩祖となり、現在有楽流を受け継いでいるのは長政から続く系統です。

4行でわかる織田長益のまとめ

織田信長の弟の遊び人・織田長益のまとめです。

まとめ
  • お兄ちゃんが織田信長
  • 武芸より教養を学ぶ
  • 戦国末期には周旋役として活躍
  • 千利休の弟子として有楽流を創設

信長、秀吉、家康と、常に上に誰かが君臨する人生は窮屈だったかもしれません。

しかし、そんな中でも女遊びや茶の湯にうつつを抜かし、のらりくらりと生きた彼は意外と人生の達人だったのかもしれないですね。

東京の有楽町は、もと織田有楽斎の屋敷があったことから名付けられたとも伝えられていますが、有楽斎は江戸に住んだことがなく、隠居後は京都に住んでいたので俗説だとのことです。

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