戦国時代

古田重然(織部)はどんな人?織部焼の確立や千利休との関係など

古田重然(古田織部)

日本には「数寄(すき)」という文化があります。

数寄とは芸術分野に入れ込むことで、特に室町時代以降は茶の湯を中心とした文化を指します。

そして、数寄の道に没頭した人を「数寄者(すきしゃ/すきもの)」と言います。

まさむね
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今の言葉で言えば、マニア、もしくはオタクですね。

オタクも極めればもはや立派な文化です。

この記事では、数寄を極め、「織部流」という一つの流派まで残した戦国の茶の湯オタク、古田織部はどんな人物だったのかについてまとめてみました。

古田織部のプロフィール

古田織部(おりべ)は通称。

本名は古田重然(しげなり)といいます。

古田重然は、天文12年、西暦1543年に産まれました。

同じ年に徳川家康も産まれています。

父親は美濃国の豪族、古田重定。

斎藤道三の配下でしたが、道三死後、織田信長が斎藤龍興を滅ぼし、美濃を支配すると、そのまま織田家の家臣となります。

重然も父とともに信長の家臣になり、信長が明智光秀に滅ぼされた後は豊臣秀吉の家臣となりました。

信長麾下、秀吉麾下でいくつかの軍功をたてた重然は、秀吉より従五位下織部助の官位を授かり、それ以降古田織部と呼ばれるようになります。

織部助は古代より朝廷にあった官位で、織物、染色などを司っていました。

戦国時代ではほぼ有名無実の官位です。

重然は、後に「利休七哲」に数えられるようになった千利休の弟子です。

いつ弟子入りしたのかは不明ですが、40歳のころにはすでに利休と交流があったようです。

戦国の世は茶の湯ブームでした。

貴族から金持ちの商人、武士に至るまで茶の湯をたしなみ、茶会を開き、また茶の湯の指導を受けていました。

そうした中で重然は茶の湯の世界でのし上がっていきます。

まさむね
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それは、利休本人やその弟子たちが、秀吉、家康など時の権力者に逆らい、ある者は殺されていく中で、重然のみが秀吉や家康の家臣としてつかえていたという影響もあるかもしれません。

関ヶ原の戦い以降、重然は家康の配下に入ります。

そして、二代将軍徳川秀忠の茶の湯指南役とされました。

これは、武家茶人として事実上の最高位です。

しかし、大阪夏の陣のおりに豊臣方との内通を疑われ、切腹を命じられました。

古田織部は何をした人?

古田織部は、武将ではあるものの茶人としてのほうが有名です。

武人としては、戦に際して主にコネを利用した調略が伝わっており、華々しい武功をたてたということはなかったようです。

芸術としての陶芸の確立

茶の湯と器は切っても切れない関係にあります。

お茶を立てる茶碗だけではなく、抹茶を入れる棗(茶壺)、花器などにもこだわるのが数寄者としての感性の見せ所です。

重然は、ちょっと変わった感性の持ち主でした。

博多の商人・神屋宗湛は、重然の茶会に招かれ、そこで見た茶器を「セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウケモノ也(瀬戸茶碗、ひずみ候、ひょうげもの也)」と書き残しています。

まさむね
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茶会には瀬戸茶碗が使われていたが、それがゆがんだ形をしており、おどけたものだったということです。

重然が好んだのは、それまでの茶の湯の世界で使われていたきちっとした形の器ではなく、ゆがんだり、ひずんだり、わざと欠けさせてからつないだような器でした。

もちろん、既存の器にそんなものはありません。

そこで重然は、美濃焼、瀬戸焼、唐津焼など、日本各地の陶器生産地に、自分好みの色、形の器を作らせました。

特に、自身の地元の美濃焼には私財を投じて援助しています。

形をゆがませた器、重然が好んだ緑の釉薬を器の一部にかけたものは「織部好み」と呼ばれ、そうしたスタイルの陶器は「織部焼」と呼ばれるようになりました。

まさむね
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織部好みの器は、その形のおもしろさ、歪みの中にある美を楽しむ芸術となり、陶芸が芸術になったのは、古田織部以降からであるという人もいます。

織部流茶道の確立

古田織部は千利休の弟子ではありますが、利休の茶の湯を受け継ぎつつ、それを崩して自分好みに変化させています。

つまり、器に表したゆがみの精神は、ただ器の形だけではなく、例えば茶室の柱にわざと歪んだ木材を使うなどの部分にも発揮されました。

それと同時に、武家最高位の茶人として、武家のための茶の湯も作っています。

利休の茶の湯は、主客一体、ホストとゲストが膝を突き合わせるほどの狭い茶室で身分の隔てなく行われるものでした。

これに対し、武士の体面にも気を使い、茶室をある程度広くして、ゲストの身分の上下を分けられるようにするなどの改変を加えています。

そうした茶の湯への心得は「織部百ヶ条」という形で残され、「織部流」として弟子たちによって受け継がれました。

古田織部のエピソード・逸話

近年『へうげもの』という漫画に描かれた古田織部。

「へうげもの」は「剽げもの(ひょうげもの)」と書き、「ひょうきんもの」というような意味を持ちます。

しかし、ただのひょうきんなおじさんではなく、芯が一本通った人でもあったようです。

千利休が弟子になる

当時の茶の湯では、床の間に掛け軸をかけ、その下にかごなどに入れた花を置くというスタイルをとっていました。

そして、その花かごの下には板を置くのが一般的でした。

ある日、重然が利休を招いた茶席では、花かごの下に板を敷かず、直接かごを置いて迎えました。

それを見た利休は、「板を敷くのは昔からの習慣だったが、板を敷かないほうが断然いい!」となって、「私もこのやり方の弟子となる」と申し出て、実際それからは重然をまねて板を敷かずに花かごを置くようになったといいます。

数多くいる利休の弟子の中でも、利休に「弟子入りします」とまで言わせた工夫をしたのは重然だけでした。

天下の茶頭、織田有楽斎にからかわれる

重然生涯の友人に織田信長の弟・織田有楽斎がいました。

まさむね
まさむね
東京の有楽町の名前のもとともなった人です。

有楽斎も数寄者で、重然とは若いころからつるんでいた様子。

重然が将軍の茶の湯指南となり、天下の茶頭となったころ、有楽斎はその天下のご茶頭様を台子点前の茶席に招きました。

台子点前は茶の湯の秘伝とも言われ、貴人を招く茶席は台子点前で行われたともいいます。

この台子点前を有楽斎は利休から伝えられていましたが、重然は学んでいませんでした。

台子点前には特別な作法があります。

ところが重然はそれを知りません。

場の雰囲気からなにか特別な作法があると察した重然は、トンチンカンな行動をとってしまい恥をかきました。

有楽斎は茶席が終わってから重然に台子点前の作法を教え、「お前そんなことも知らなかったの?」とからかったといいます。

秀吉に背いて師匠を見送る

千利休は、権力者の権威に折れないところがありました。

そのせいか、天下人となった秀吉の不興を買い、京都から追放されることになります。

護送され京都を去る利休を見送るのは、秀吉の決めた処置に不満を示すことにもなります。

秀吉に睨まえることを怖れた利休の弟子たちがほとんど見送りに出なかった中、重然と同じく利休の弟子であった細川忠興のみが見送ったといいます。

後に、家康から豊臣との内通の嫌疑をかけられたとき、重然は一切の申し開きをせず、粛々と切腹にのぞんだといわれます。

3行でわかる古田織部のまとめ

まとめ
  • 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕える
  • 千利休に茶の湯を学ぶ
  • 織部焼、織部流茶道など、自らの趣味に合わせた新しい茶の湯とその周辺芸術をうちたてる

誰もが武功を上げてのし上がろうとする戦国時代。

古田織部は武士でありながら茶の湯に入れあげ、その結果茶の湯の頂点にまで上り詰めました。

それは、時代の流れ、人脈、本人の才能など様々な要因がからみあった結果であったとしても、趣味の世界で天下一になったという点で稀有な人物だったのだろうと思います。

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