今の日本には、多くの銀行や大企業が存在しています。
そしてそれらには、もちろん設立に携わった人物たちがいます。
その代表的な人物として挙げられるのが、渋沢栄一です。
彼が成し遂げたことは、現代の日本の資本主義制度を決定付けさせる上で非常に重要なことでした。
では、いったい彼はどんなことをしたのでしょうか。
また、エピソードや逸話は?
簡単にまとめてみました!
目次
渋沢栄一のプロフィール
渋沢栄一(しぶさわ えいいち)1840-1931。
日本初の実業家であり慈善家。
明治時代の様々な企業や経営に携わり、「日本資本主義の父」とも称される人物です。
渋沢栄一は何をした人?
徳川慶喜の家臣・幕臣としての働き
渋沢栄一が生まれたのは1840年の2月13日で、時代は江戸時代の末期です。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕の兼営に加え、米や麦の生産も行う豪農でした。
栄一は幼いころから父にしつけられ、7歳の時には既に四書五経や日本外史を学ぶほどでした。
また、同時に剣術も習い、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門して剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結びます。
その影響もあり尊王攘夷の思想に染まった彼は、1863年に幕府を倒すという計画を立てました。
しかし、周囲の説得により中止になります。
その後、京都に出た栄一は、平岡円四郎の推挙によって一橋(徳川)慶喜に仕えることになりました。
さらに1866年に徳川慶喜が将軍になると自身は幕臣となり、フランスやヨーロッパなどの諸外国へ渡航してその先進的な産業や軍備に感銘を受けます。
帰国後、慶喜から「これからはお前の道を行け」と言われ、フランスで学んだ株式会社制度の実践などのために、1869年に静岡で商法会所を設立。
その年の10月には、大隈重信からの説得により大蔵省に入省しました。
実業家としての働き
入省後に彼が行ったことは、度量衝の制定や国立銀行条例の制定などです。
1872年には紙幣寮の頭に就任しましたが、予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信と対立、1873年に井上薫と共に退官しました。
退官後すぐに、第一国立銀行の頭どりに就任、それ以降は実業界に身を置くことになります。
また、その他の多くの地方銀行設立も指導しました。
銀行以外にも、麒麟麦酒やサッポロビール、大日本精糖、帝国ホテルなど数多くの企業の設立に携わり、その数はなんと500以上に及びます。
そのこともあり、1887年ころには渋沢を慕う経営者などが龍門社を組織し、昭和初期の会員数は数千名を超えました。
渋沢栄一のエピソード・逸話
社会貢献活動にも熱心だった
渋沢栄一は、実業界の中でも最も社会活動に熱心でした。
例えば、養育院(現東京都健康長寿医療センター)の院長を務めたり、日本赤十字社などの設立に携わったりするなど、積極的に活動に参加しています。
関東大震災後の復興のために、大震災善後会副会長となって寄付金集めなどにも奔走しました。
また、当時はあまり重視されていなかった実業教育にも目を付け、大倉商業学校(現東京経済大学)の設立への協力や二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任などしました。
さらに、軽視されていた女子への教育の必要性も考え、伊藤博文や勝海舟らとともに女子教育奨励会を設立し、日本女子大学校や東京女学館の設立にも携わりました。
その他には、日本国際児童親善会を設立し外国の子供たちとの交流を深めたり、1931年に中国で起きた水害のために義援金を募るなど、民間外交にも関わっています。
日本紙幣の肖像の候補として挙がったことがあった
やはりこれだけ日本の経済に大きく貢献した人物ですから、紙幣の顔として選ばれても全く不思議ではありませんよね。
実は、渋沢栄一は紙幣の肖像の候補者として、これまでに何度も選ばれています。
1963年には最終候補にまで挙がりました。
しかし、そこまで残っておきながらなぜ選ばれなかったのでしょうか。
その理由は、なんと髭がなかったからなのです。
当時は偽造防止のために、ひげのある人物が紙幣の顔として使われていました。
渋沢栄一は、老いても若々しさを感じさせる立派な顔つきをしてはいますが、髭は生えていませんでした。
だから結局選ばれることがなかったのですね。
しかし、現代では偽造防止の技術も向上し、樋口一葉にも代表されるように髭のない女性も使えるようになりました。
そのこともあり、2024年度上半期に執行予定の紙幣改定によって、ようやく渋沢栄一の顔が一万円札に使われることが決まりました。
4行でわかる渋沢栄一のまとめ
- 徳川慶喜の家臣・幕臣となり、諸外国を巡って知識を身につけ、日本の経済発展に役立てた
- 非常に数多くの銀行や企業の設立に関わり、「日本資本主義の父」と呼ばれ敬われた
- 社会貢献活動にも積極的に参加し、時には外国との交流にも携わるなど、実業家以外の面でも多くの顔を持っていた
- 日本紙幣には、髭がないという理由で採用されていなかった
現代にもその名を刻む数多くの企業、その大本の設立を支えたのが渋沢栄一です。
もし彼がいなければ、日本の経済発展は数十年は遅れていたかもしれません。
また、実業家としてだけでなく、様々な社会活動にも携わり、活動を支援しました。
今の日本に残るほとんどの場所で、渋沢栄一の名を見ることができるでしょう。
日本を代表する人物として挙げるべき、立派な偉人ですね!