社会から疎まれる不良少年が世界を救ってしまう。
昔の少年漫画ではよくあった話です。
でも、そんなこと現実にはありえない?
ところが、平安時代に本当に日本の危機を救った不良貴族がいました。
それが、藤原氏の一族、藤原隆家です。
目次
藤原隆家のプロフィール
藤原隆家が生まれたのは979年。
ちょうど平安時代の真ん中あたりの時代です。
隆家は、朝廷で権勢を極める藤原氏の貴公子として誕生しました。
父親は藤原道長の兄・藤原道隆。
姉に、一条天皇の皇后となりながら、藤原氏の権力闘争に巻き込まれて非業の死をとげた藤原定子がいます。
11歳で元服した時点で従五位下となり、15歳で近衛中将、16歳で従三位、17歳で権中納言と、藤原氏の家系らしい本人の功績とは何の関係もない出世街道を歩んでいます。
清少納言の『枕草子』には、「中納言」として登場しています。
18歳のとき、花山天皇に弓を射掛け、自分の祖母である東三条院を呪詛するなどして出雲に流されました。
しかし1年で許されて都に戻り、23歳のときに権中納言に復帰します。
30も半ばを過ぎた頃、隆家は眼病を患い、遠縁の藤原実資のすすめもあって、療養のために自ら願い出て太宰府長官の代官である大宰権帥となりました。
ちなみに朝廷の中枢にいた貴族が大宰権帥となるのは左遷人事で、菅原道真は流罪同然に大宰権帥にされています。
その大宰権帥だったときに、刀伊の入寇が発生。
隆家はそれを迎え撃って撃退しました。
40歳のときに京都に戻り、58歳という高齢で再び大宰権帥として赴任。
63歳まで勤め、66歳で死去しました。
藤原隆家は何した人?
藤原隆家はけっこうグレていたというか、不良どころではない反逆児であったようです。
とにかく行動が「京の貴族」のイメージからはかけ離れていました。
天皇に弓を射掛け、祖母を呪詛
隆家には伊周という兄がいます。
隆家が18歳のころ、花山天皇が元太政大臣・藤原為光の娘のところに通い出しました。
その相手は四の君という女性でしたが、伊周はそれを、同じ家に住む自分の彼女の三の君のところに通い出したと勘違い。
隆家にそれを相談しました。
「おう、あの天皇、兄貴のカノジョに手ぇ出したのか」となった隆家。
天皇が四の君のところに通ってきたのを待ち伏せ、弓を射掛けました。
その弓は天皇の袖を射抜いたといいます。
いくら藤原氏が専横を極めていた時代とはいえ、帝は帝。
その権威を貶めたら、自分たちの権勢も保てません。
しかし、隆家はそんなことはおかまいなしでした。
さらに、藤原詮子、出家して東三条院となっていた自分の祖母を呪詛します。
東三条院は皇后ではなかったものの、円融天皇の側室のようなもので、一条天皇の母でもあるという身分。
隆家はこの東三条院を呪詛したとも言われています。
これは、東三条院が隆家の姉の定子を皇后から追い落とし、そのいとこの彰子を皇后に据えようと画策したことと関係あるでしょう。
刀伊の入寇を撃退
隆家が大宰権帥であった40歳のとき、大陸から刀伊と呼ばれる海賊団が九州に攻め入りました。
このころ、朝鮮から九州にかけて日本海を拠点とした刀伊の海賊団が荒らし回っていました。
刀伊は対馬、壱岐を経由して博多に上陸。
略奪と殺戮の限りを尽くします。
しかし、太宰府には反逆児・藤原隆家と、その配下に秦氏を始祖とし、天下無双と讃えられた老齢の武士・大蔵種材(おおくらのたねき)がいました。
隆家は種材とともに海賊団を迎え撃って見事撃退。
後の元寇に先立つ異民族の侵略行為は、かつて天皇にケンカを売った藤原隆家によって防がれたのです。
藤原隆家のエピソード・逸話
藤原隆家や中宮定子の父である藤原道隆が亡くなったのは、隆家が18歳のころ。
道隆という宮中での後ろ盾を失った定子は、叔父の道長に追い落とされ、若くして命を落とします。
清少納言の『枕草子』は、定子が不幸になる前の、幸せだった時代を多く描いています。
そこに、定子の弟の隆家も登場します。
姉にホラを吹いて自慢
藤原道隆の生前で、清少納言が定子についていた頃ですから、隆家が17歳ぐらいのときだと思われます。
姉の定子を訪ねて、扇を献上しました。
あるいは、藤原氏であるゆえ、気にせずどかどか入っていたのかもしれません。
そのとき、隆家は、定子に向かって「すっげー扇の骨を手に入れたから今その骨に合う紙をさがしてるんだよ」と言いました。
定子が興味を持ち、どんな骨なのかと聞くと「とにかく誰も見たことねえぐらいすげえ骨だよ」と答えます。
清少納言が「ではそれはクラゲの骨でしょうね」とツッコミを入れました。
一本とられた隆家、しかし気を悪くするでもなく、「それ俺が言ったことにしてくれよ」と言って笑ったとか。
清少納言はそれを「かたはらいたき」つまり見苦しいことだと記しています。
ただの不良ではない文化人
世の中の うきにおひたる あやめ草 けふは袂に ねぞかかりける
さもこそは 都のほかに 宿りせめ うたて露けき 草まくらかな
『後拾遺和歌集』
別れ路は いつも嘆きの 絶えせぬに いとどかなしき 秋の夕暮れ
『新古今和歌集』
「さがな者」後世で言えば傾奇者のような、権力におもねらず我が道を突き進む気合が入った不良だった藤原隆家。
しかし、姉に皇后をもつような貴族の貴公子でもありましたから、当然宮中で通用するような教養をもった文化人としての側面もありました。
隆家が詠んだ和歌は、平安末期の白河天皇による勅撰和歌集である『後拾遺和歌集』と、鎌倉時代初期の後鳥羽天皇による勅撰和歌集である『新古今和歌集』にそれぞれ収録されています。
また、隆家生前に編まれた漢詩集『本朝麗藻』には、隆家の漢詩も収録されており、ただのやんちゃなだけの人物ではなかったことがうかがわれます。
4行でわかる藤原隆家のまとめ
貴族でありながらも、武断をもって日本を防衛した藤原隆家のまとめです。
- 藤原氏全盛期にうまれる
- 兄のカノジョにちょっかいを出したと勘違いして天皇を射る
- 太宰府赴任のおり九州に侵攻した大陸からの海賊団を撃退
- 勅撰和歌集に和歌を残す
隆家は権力の中枢にいながらも、権勢を極めた叔父の道長にすり寄ることはせず、自らの正義を通した人でした。
もし刀伊の入寇のおり隆家が九州にいなかったら、被害はもっと拡大していたかもしれません。
武力よりまじないのほうが強いと本気で思っていた当時の朝廷には評価されませんでしたが、国を救った英雄であると言ってもいいでしょう。
東三条院は、隆家の父道隆の妹だったと思うのですが、どうなのでしょう?
事件の時、「天皇」はすでに退いていたので、正しくは花山「法皇」ですかね。