江戸時代

徳川光圀は何をした人?水戸黄門のモデルとなった人物の逸話を紹介

徳川光圀

時代劇好きの私から言わせると、平成とは時代劇、特に娯楽アクション時代劇が失われていく寂しい時代でした。

昭和の時代に作られた時代劇でも、特に人気が高かったのが『水戸黄門』。

「天下の副将軍」水戸光圀公が、家来の助さん格さんをひきつれて諸国を漫遊し、庶民を苦しめる悪者を懲らしめるという単純さが、長寿番組となった秘訣かもしれません。

その『水戸黄門』のモデルとなったのが徳川光圀(とくがわ みつくに)です。

徳川光圀のプロフィール

徳川光圀が生まれたのは1628年。

時の将軍は徳川秀忠で、大阪夏の陣の13年後という戦国の気風をまだ色濃く残した時代でした。

父親は、徳川家康の十一男である徳川頼房。

つまり光圀は家康の孫で、徳川家光とはいとこということになります。

徳川頼房は水戸藩の藩祖ではあるものの、光圀の母は正室でも側室でもなく、正室付きの女中の娘に手を出した結果生まれ私生児だったため、当初は頼房の家臣の家で育てられました。

それが光圀4歳のときに水戸城へ呼ばれ、5歳で水戸徳川家の跡継ぎとされます。

8歳で元服。

将軍家光の一字をいただき、光国という名になりました。

まさむね
まさむね
実は光“圀”とするのは晩年になってからです。

しかしこの記事では以下光圀で統一します。

29歳になって国史『大日本史』の編纂を開始。

32歳の時に頼房の死によって水戸藩主を継ぎます。

35歳になり、明の滅亡により日本に亡命していた儒学者の朱舜水を招いて、水戸藩で儒教を広めました。

51歳になり、名前の字を「光圀」にしています。

62歳で家督を養子に譲って隠居。

隠居後は遺跡調査や薬学書の編纂など学術的な活動を行っています。

66歳のとき、将軍・徳川綱吉より江戸に呼ばれた折、江戸の水戸藩邸で能の鑑賞会を開くとともに、自らも能を舞っています。

そしてその時、家老の藤井徳昭を刺し殺しました。

まさむね
まさむね
この動機については不明です。

殺人事件ではありますが、藩主が家老を手討ちにしたということからか特に罪には問われていないようで、そのまま領地の隠居所へ戻りました。

それからは僧侶を招いて仏教について学んでいた様子です。

そして73歳の折逝去。

死因は食道癌だったといいます。

徳川光圀は何をした人?

江戸時代、諸国大名は参勤交代を義務付けられていました。

それは、将軍家と血縁をもつ尾張徳川家、紀州徳川家も例外ではありませんでした。

唯一例外だったのが水戸徳川家で、藩主は基本的には江戸に定住することになっていました。

これは、将軍に何かあった緊急時に備えたものだったといいます。

そのため、江戸に住んでいた光圀は「天下の副将軍」と呼ばれていたようです。

『大日本史』編纂

18歳のときに『史記』と出会った光圀は、国が殷から周に変わった時に、周に仕えるのを拒み餓死したという伯夷・叔斉の列伝に感銘を受けて漢学に親しむようになったといいます。

そして、29歳で『大日本史』、紀伝体による国史編纂という大事業を始めました。

紀伝体というのは中国の歴史書に倣った帝王紀と列伝などで構成される様式です。

『大日本史』は、史料をもとにした考証を経て書かれた日本初の紀伝体の歴史書です。

ただこれは光圀存命中には完成せず、それどころか水戸藩代々の事業としてなんと二百年以上継続され、明治時代になってやっと完成しました。

水戸学の基礎を作る

徳川幕府はその支配を安定させるため、儒教を重視しました。

特に儒教に傾倒したのが光圀です。

光圀は明の遺臣で儒者の朱舜水を招聘し、儒教を学び、また家臣にも学ばせています。

やがて水戸では、儒教に日本の歴史や神道などの思想が加わり「水戸学」と呼ばれる学問体系が作られました。

本来徳川家を主君として、君臣の立場を明確に分けるために利用された儒教でしたが、水戸ではより深く学ばれたため、本来の主君は将軍ではなく天皇であるという尊皇思想が生まれ、それが後に幕府を転覆し天皇中心の世を作り出す尊皇攘夷にも繋がっていきました。

蝦夷地を探検

江戸時代、北海道には松前藩があったものの、その支配域はごく一部。

その北海道を60になった頃の光圀が自ら探検しています。

水戸藩はおおよそ現在の茨城県にあたり、那珂湊などの港も擁していました。

光圀はそこから帆船を出し、3度も北海道探検に赴きました。

まさむね
まさむね
その目的は明らかになってはいないものの、3度目の探検では石狩まで行って、そこでアイヌと物々交換によって塩鮭やクマ・ラッコ・トドの皮を得てきたということなので、交易ルートを開く目的があったのではないかとも考えられています。

しかし、光圀死後は北海道への航海が行われることはありませんでした。

徳川光圀のエピソード・逸話

徳川光圀は有名人だけあっていろいろ逸話がありますが、その中からいくつかご紹介します。

若い頃は不良少年

光圀は父頼房の隠し子のような存在から跡継ぎになった人です。

実は同じ隠し子の兄・頼重がいたのに、どういうわけか光圀が跡継ぎになっていました。

光圀はそのことに罪悪感を持っていたようです。

そのせいで10代はかなりグレていたといいます。

まさむね
まさむね
ドラマでの好々爺のイメージとは違って偉丈夫だったという光圀は、かなりの暴れん坊だったとか。

現在の高校生ぐらいの年齢で吉原の遊郭で遊びまわってもいました。

そして吉原に行ったある日、お堂で休んでいると、遊び仲間が、この床下に当時「非人」という被差別階級にあった人たちが寝ているから試し切りしてはどうかともちかけました。

一度は「罪もない者を斬れない」と断った光圀、しかし「お前ビビってんのかよ」と煽られ、ついに非人の一人を斬り捨ててしまいました。

そんな光圀が心を入れ替えたのは、18歳になって『史記』を読んだからだといいます。

はじめてラーメンを食べた日本人?

光圀は、屋敷に人を招いては自ら打ったうどんを食べさせるのが楽しみだったそうです。

ある日、朱舜水を招いてうどんをふるまったところ、朱舜水がその返礼として中国式の麺料理を作って食べさせたといいます。

まさむね
まさむね
あるいは、作り方を聞いた光圀が自ら作ったという説もあるようです。

このことから、日本で初めてラーメンを食べたのは徳川光圀だと言われていました。

しかし2017年に室町時代に京都の僧侶が中国式の麺を振る舞ったという記録が見つかったため、この説が覆されています。

圀の字は中国では失われた「則天文字」

光圀はもともとは光国でした。

それを51歳で光圀にあらためています。

実はこの“圀”という字は「則天文字」と呼ばれる特殊な漢字です。

唐はおよそ300年の歴史が継続したというのが建前ですが、実は一度滅んでいます。

滅ぼしたのは、中国唯一の女帝・武則天です。

武則天は自ら帝位に就いたとき、国号を周にあらためています。

そしてまた、それまであった字を作り変えたり、新しい字を作ったりしました。

それが則天文字です。

なぜ光圀がいわば簒奪者の武則天が作った文字に改名したのかは不明。

一説には、「国」は天皇を象徴する字で畏れ多いため、朱舜水のアドバイスもあって圀にしたのだともいいます。

4行でわかる徳川光圀のまとめ

後世「水戸黄門」として知られる徳川光圀のまとめです。

まとめ
  • 若い頃は不良
  • 反省して漢学・儒教に傾倒し、国史編纂に着手する
  • 水戸藩に儒教を広める
  • 自ら北海道を探検

諸国漫遊をしなかったかわりに北海道探検はしてしまうアグレッシブおじさんだった徳川光圀。

18歳で反省したものの、その後も将軍にケンカを売ったり家老を刺し殺すなど、激しい気性自体は改められなかったようですね。

光圀にはまだまだエピソードがあり「紙幅が足りない」というのが正直なところです。

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