「君死にたまふことなかれ」という詩、一度は耳にしたことがあると思います。
同時に、その作者も思い浮かぶことでしょう。
そう、与謝野晶子ですね。
彼女は歌人としての姿が最も知られていますが、それ以外にも様々な場所で活動していた人物です。
では、具体的にはどんなことをしたのでしょうか?
エピソードや逸話を簡単にまとめてみました!
目次
与謝野晶子のプロフィール
与謝野晶子(よさのあきこ)1878-1942。
明治から昭和にかけての歌人、作家、思想家。
実は晶子はペンネームで、戸籍上の本名は志よう(しょう)です。
与謝野晶子は何をした人?
作家・歌人としての業績
幼い頃から兄の影響を受けて育った晶子は、『文学界』や紅葉などの小説を読むのが一番の楽しみでした。
そのこともあり、自身も創作活動に身を投じていくことになります。
20歳頃から和歌を投稿し始め、
- 1900年委は後の夫・与謝野鉄幹が創立した機関紙『明星』に短歌を発表
- 翌年には東京に出て女性の官能をテーマとする処女歌集『みだれ髪』を刊行する
など精力的に活動し、浪漫派歌人としてのスタイルを確立させます。
1904年、有名な『君死にたまふことなかれ』を『明星』で発表しました。
これは、日露戦争の旅順攻囲戦に従軍した弟への嘆きを詠っています。
また、与謝野晶子の代表的な著作物に『新約源氏物語』があります。
その名の通り、平安時代に紫式部が書いた『源氏物語』を現代語に訳したもので、1911年から1913年にかけて全4巻で出版されました。
これは「初めて行われた源氏物語の現代語訳」として完成当初から評判を呼び、谷崎潤一郎など他の源氏物語にも大きな影響を与えるなど、高い評価を受けました。
思想家としての業績
日露戦争後から、晶子は評論活動を始めています。
内容は女性の自立論と政治評論に分類され、教育問題に言及することもありました。
女性の自立論については、女性は自分で自己鍛錬・自己修養し、人間陶治すべきだと説きました。
これは英米思想的な個人主義であり、1912年頃からイギリスやベルギーな様々な国を訪れ、影響を受けたことが関わっています。
また、平塚らいてうの唱える母性中心主義に対して反論し、「夫人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張して、母性保護論争が起こりました。
最終的には、女性解放思想家である山本菊栄が「差別のない社会でしか婦人の開放はあり得ない」と社会主義の立場で論じ、論争は終結しました。
政治評論については、反共産主義・反ソ連の立場に立ち、シベリア出兵への反対や米騒動後の寺内内閣の退陣の要求などの活動をしています。
女性教育に関しては、1919年に『中央公論』の中で「教育の国民化を望む」と書き、各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案しています。
他にもヨーロッパを参考に日本にも成人教育や社会教育の場を作るべきだとも提言しました。
1912年には文化学院を創設、男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させました。
与謝野晶子のエピソード・逸話
12人の子供を出産した
与謝野晶子は、生涯で12人もの子供を産むほど子だくさんでした。
うち1人は生後2日で亡くなっていますが、それでも11人の子どもを抱えるという当時としてはかなりの大家族です。
もちろんそれを支えるための収入が必要になるわけですが、夫の鉄幹は詩の売れ行きが悪くなる一方であり、大学教授になるまで収入が全く当てにならなかったため、晶子も来る仕事はすべて引き受け、時には歌集の原稿料を前払いしてもらっていたこともありました。
そんな多忙な間にも即興短歌の会を開き5万首以上もの歌を残すなど歌人としても積極的に活動し、評論活動や『源氏物語』の現代語訳にも取り組むといった、多くの業績を残しています。
双子の命名を森鴎外に頼んだ
晶子は明治・対象の著名な小説家である森鴎外と深い交流があり、源氏物語の翻訳時にもよく手伝ってもらっていました。
1907年に晶子は女の双子を生みますが、その命名を森鴎外に頼みます。
その名前は、八峰(やつお)と七瀬(ななせ)。
さらに鴎外は、二人の名前を入れた歌を後に晶子に贈りました。
「聟(むこ)きませ一人は山の八峰こえ一人は川の七瀬わたりて」
娘たちの名前が入った歌を作ってもらえたことは、晶子にとっても大変うれしいことだったのではないでしょうか。
3行でわかる与謝野晶子のまとめ
- 幼いころから文学を好み、夫の与謝野鉄幹と出会って以降は世に詩を発表しその名を知らしめた
- 思想家としての一面もあり、男女平等に対する考えは特に強かった
- 子供を12人出産しており生活は大変だったが、その中でも精力的に様々な活動を続けていた
与謝野晶子と言えば「君死にたまふことなかれ」が最も有名ですが、それ以外にも様々な場所で活動をしていました。
作家として、歌人として、思想家として、当時の女性としては珍しいほど多くの側面を持っていた彼女は、そのどれもで足跡を残し、後世に影響を及ぼしています。
子どもを産んだ後も休むことなくさらに活動の幅を広げていることからも、生来動いていないと気が休まらない人だったのかもしれませんね。
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