飛鳥時代の女帝、持統天皇がどんな人だったのかと言われれば、それは、実績の残る唯一の女帝ということです。
日本には、10代8人の女帝がいますが、どの女帝も実績が曖昧です。
持統天皇だけは、都をつくり、法律も整備したという実績があります。
今回は、女帝・持統天皇をご紹介したいと思います。
目次
持統天皇のプロフィール
持統天皇は乙巳の変(大化改新)がおこった大化元年(645年)に生まれました。
名前は、鵜野讃良(うののさらら)です。
父は、中大兄皇子(天智天皇)、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘、越智の娘(おちのいらつめ)です。
同母姉には大田皇女(おおたのひめみこ)がいました。
母が亡くなり父との間に距離ができる
そんな讃良皇女に最初の試練がおきます。
大化5年(649年)、讃良皇女が5歳の時、祖父の石川麻呂が自害に追い込まれました。
母の遠智の娘は、心を痛めて亡くなってしまったのです。
遠智の娘は父が亡くなったことにも心を痛めたのでしょうが、このことに中大兄皇子がかかわっていたことが大きな要因だったのです。
5歳とはいえ、讃良皇女もうすうすはわかったのでしょう、これ以来、中大兄皇子と讃良皇女の間に距離が生じました。
叔父と結婚
斉明3年(657年)、13歳で叔父の大海人皇子に嫁ぎました。
現在は、叔父、姪の結婚は近親婚として避けますが、このころは血の純潔を守るために良く行われていました。
草壁皇子を出産
天智元年(662年)、草壁皇子を産みました。
翌年、姉の大田皇女が大津皇子を産みましたが、当時は兄から弟へ皇位を継承するのが一般的で、大海人皇子が天皇につく可能性が高かったのですが、その時は太田皇女が皇后になる予定で皇太子も大津皇子になる可能性がありました。
しかし、天智6年(667年)に大田皇女は亡くなってしまい、讃良皇女が皇后有力候補になってしまったことが後年、大津皇子事件を引き起こしてしまいます。
即位し持統天皇へ
天智10年(671年)父の天智天皇が亡くなりますが、夫の大海人皇子はすぐには即位せず、翌年、壬申の乱をへて天武2年(673年)に大海人皇子(天武天皇)は即位し讃良皇女は皇后になりました。
朱鳥元年(686年)、天武天皇が亡くなり、大津皇子の変が起きました。
持統4年(690年)、讃良皇后は即位し、持統天皇になります。
持統8年(694年)、藤原京に遷都し、文武元年(697年)、孫の軽皇子に皇位を譲って上皇になりました。
大宝元年(701年)、大宝律令を制定しそれを見届けた大宝2年(702年)に持統天皇は崩御しました。
持統天皇は何をした人?
持統天皇はいったい何をした人なのでしょう。
持統天皇のしたことベスト3をご紹介します。
大津皇子の変
変前夜、「懐風藻」に大津皇子の気質について「体格や容姿がたくましかく寛大。幼少時から学問を好み、成人後は武芸をたしなんだ。皇子でありながら謙虚で人々の信望を集めた」とべた褒めしていますが母の大田皇女はなく、後ろ盾がありませんでした。
「懐風藻(かいふうそう)」は日本の漢詩集です。
一方、持統天皇の息子、草壁皇子は、体が弱く、性格も大人しい性格で君主になるのは難しいと思われていましたが、なんといっても持統天皇という後ろ盾があり、持統天皇も自分の産んだ息子に帝位を継いでもらいたいと思っていました。
持統天皇の後押しで天武10年(681年)に草壁皇子は皇太子になり、これで万事OKと思えましたが、やはり草壁皇子の健康状態は良くないのでいつ亡くなるかわからないという懸念がありました。
そんな時、朱鳥元年(686年)、頼みの夫、天武天皇が亡くなってしまいます。
当時は30歳を過ぎてから即位することが一般的で草壁皇子はまだ25歳、全権は皇后の讃良が握りました。
ここで大津皇子の謀反が発覚したのです。
皇后はただちに大津皇子と従者30人余りを逮捕し大津皇子は即日、死罪になりました。
こんなタイミングよく謀反がおこるのでしょうか。
「子を潰すため、皇后が謀反をでっちあげたのではないか」と言われています。
藤原京遷都
国の体制がある程度整ってくると、今度は国家を動かしていく宮都が必要になってきます。
造都事業は天武天皇の時から動いていましたが、持統天皇が即位したのをきっかけに具体化し、大和三山に囲まれた平地が選ばれました。
持統8年(694年)、古代日本で初めての都城、藤原京が作られ、 藤原京は、平城京に遷都するまで日本の首都でした。
飛鳥浄御原令
天武天皇が新たな律令の作成に取り組んでいましたが、完成を見ずに亡くなってしまいました。
その事業を受け継いだ持統天皇は、持統3年(689年)に飛鳥浄後原令(あすかきよみがはらりょう)を完成させました。
持統天皇のエピソード・逸話
持統天皇は、天武天皇を愛し、遺志と事業を継承したと信じられていますが、この夫婦の間には溝が流れていました。
万葉集の持統天皇の歌で
春過ぎて 夏来たるらし 白たえの 衣乾したり 天の香具山
というのがあります。
この歌は、万葉学者は牧歌的だと言いますが、大和を代表する霊山に洗濯物が干してあるというのは信じられません。
この歌の中で持統天皇は王朝交代をアピールしています。
「丹後国風土記」に天女・豊受大神が沐浴していると天の羽衣が奪われてしまい天に戻ることができなくなってしまい、やむなくこの地にとどまったとあります。
持統天皇はこの話を利用し、
天の香具山に白たえ(天の羽衣)が干してある。
あの羽衣を奪えば天女は身動きできなくなる。
春(平和な天武朝)が過ぎ、夏が来たように、今がチャンスなのだ
と歌ったという逸話があります。
そんな夫・天武天皇についてはこちらの記事にまとめています。
持統天皇のまとめ
- 持統天皇は乙巳の変(大化改新)がおこった大化元年(645年)に生まれた。
- 父は、中大兄皇子(天智天皇)、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘、越智の娘(おちのいらつめ)。
- 斉明3年(657年)、13歳で叔父の大海人皇子に嫁いだ。
- 天武2年(673年)に大海人皇子(天武天皇)は即位し讃良皇女は皇后になる。
- 朱鳥元年(686年)、天武天皇が亡くなり、大津皇子の変が起きた。
- 持統4年(690年)、讃良皇后は即位し、持統天皇になる。
- 持統8年(694年)、藤原京に遷都。
- 文武元年(697年)、孫の軽皇子に皇位を譲って上皇になった。
- 大宝2年(702年)に崩御。
以上、今回は持統天皇の一生を振り返ってみました。
持統天皇は、天武天皇につくしてきたと思われていますが、本当は仮面夫婦だったのか、甥を死罪に追い込む非道さ。
しかし、日本書記は、持統天皇は、良妻賢母だと書かれています。
聖女なのか悪女だったのか、今となっては遠い飛鳥時代の闇に包まれています。