徳川家定(とくがわいえさだ)といえば、江戸幕府第13代将軍で篤姫(あつひめ)の夫として有名ですが、どんなことをした人物なのでしょうか。
この記事では徳川家定はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
徳川家定のプロフィール
- 徳川家定(とくがわいえさだ)
- 幼名:政之助
- 初名:家祥(いえさち・いえさき)
- 父:徳川家慶(第12代征夷大将軍)、母:本寿院(徳川家慶の側室)
- 享年35(1824年4月8日~1858年7月6日)
- 江戸幕府第13代征夷大将軍(在位:1853年10月23日~1858年7月6日)
徳川家定は何をした人?
「うつけ」で「変わり者」というダメ将軍”のレッテルを貼られた家定の生涯とはどのようなものだったのでしょうか?
将軍就任
家定は第12代将軍徳川家慶(いえよし)の4男として生まれました。
家慶には多くの子供(14男13女)がいましたが、みんな早くに亡くなったので、第11代将軍徳川家斉(いえなり)が亡くなると、家定は家慶の後継者となります。
しかし、家定の身体と性格を心配した家慶は「病弱でキレやすく、人前に出ることを嫌う家定より、聡明な一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の方が将軍に相応しいのでは……」と考えていました。
この家慶の考えに、老中・阿部正弘(あべまさひろ)たちが反対して説得したことで、家慶は家定を正式な後継者とします。
1853年アメリカのペリー提督が浦賀にやって来て、開国と通商を求めてきました(黒船来航)。
「開国」か「攘夷(外国を追い出そう)」か、意見が分かれて幕府がドタバタしているなか、家慶が病死してしまいます。
そのため、家定は29歳で第13代将軍となりました。
ペリーの要求に対して幕府は「将軍が病気だから今は決められません」と、返答のために1年の猶予を求めていましたが、将軍が亡くなったことを聞いたペリーは「今こそ幕府を利用できるチャンスだ」と考えて再びやって来ます。
アメリカの圧倒的な軍事力を見せつけて開国を迫るペリーに、「要求を拒むなんて絶対無理……」と判断した幕府は、1854年日米和親条約を締結しました。
この頃、黒船来航という日本を揺るがす大事件のさなかに将軍になり、その対応を迫られたストレスから、もともと悪かった家定の体調はさらに悪くなってしまいます。
そのため、幕府は阿部正弘と堀田正睦(ほったまさよし)を中心に政治が行われるようになりました。
将軍継嗣問題
体調が悪化して政治が行えない状態になった家定には、世継ぎがいないという問題もありました。
家定は3回結婚しましたが、最初の2人は早くに亡くなり、最後に結婚した篤姫との間にも子供を授からなかったので、「次の将軍は誰にする?」と後継者争いが起こります。
候補となったのは紀州藩主徳川慶福(よしとみ)と一橋慶喜で、それぞれ「南紀派」「一橋派」と呼ばれました。
慶福を支持したのは井伊直弼(いいなおすけ)を筆頭とする譜代大名と大奥たちで、「家定の従弟で、将軍家に血統が最も近い慶福を次の将軍に!」と訴えます。
一方、慶喜を支持したのは水戸藩主徳川斉昭(なりあき)・越前藩主松平慶永(よしなが)・薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)たちで、「聡明な慶喜を将軍にして、有力な藩と幕府が協力して国難を乗り越えよう!」と考えていました。
この14代将軍の座をめぐる争いに対し、家定は諸大名を集めて「慶福を後継者にする」という考えを示したうえで、一橋派の大名を処分することを発表します。
ここで初めて将軍らしい行動を見せましたが、その翌日1858年7月6日家定は35歳で亡くなりました。
徳川家定のエピソード・逸話
人前に出ることを嫌った理由は「アザ」?
家定は人前に出ることが大嫌いで、乳母にしか心を開かなかったとされています。
その理由には、病弱で脳性麻痺の疑いがあったことと、幼いときに疱瘡(ほうそう)を患ったことで目の周りにアザが残ってしまい、人目を気にしていたことが考えられています。
真相は分かりませんが、家定の肖像画にアザが描かれていないことからも、顔のアザが家定のコンプレックスだったことは間違いなく、そのことが、家定が将軍としてのリーダーシップをとれない結果へと繋がってしまいました。
本当に「うつけ」だったの?
松平慶永は家定を「平凡な中でも最も劣っている」と酷評しています。
さらに慶永の側近だった橋本左内(はしもとさない)は「じっとしていられない。言語不明瞭で、何を言っているのか分からない。難しいことに直面したら、すぐに泣き出す。とてもじゃないけど、一人前の人物とは言えない」と、もっと酷評しました。
一方で、井伊直弼は家定を「世間の評判とは違い、なかなか聡明だ」と評価しています。
このように将軍継嗣問題で、一橋派からは「うつけ」、南紀派からは「聡明」とされるなど、家定の評価は分かれています。
しかし、家定が後継者に慶喜を選ばなかった理由は「自分よりもイケメンな慶喜が江戸城に入ったら大奥の女性が喜んで騒ぐから嫌だ」というビックリな理由だったことから、家定が「うつけ」のふりをしているだけで本当は「名君」だった可能性はゼロに近いと思われます。
趣味はお菓子作りと料理
家定はカステラや饅頭などのお菓子作りが趣味でしたが、煮豆やふかし芋などの料理も得意としていました。
家定は作った料理を自分だけで食べずに家臣たちにも振る舞っていたことから「イモ公方」と呼ばれてバカにされていましたが、家定が自分で料理していたのは「猜疑心が強い家定は、食事に毒を入れられて暗殺されることを恐れていたからではないか」といわれています。
徳川家定のまとめ
- 病弱で人前に出ることを嫌ったけど、他の兄弟が早くに亡くなったので将軍の後継者となる。
- 黒船来航の直後に家慶が亡くなり、29歳で第13代征夷大将軍になる。
- 黒船来航による激務から体調が悪化し、安倍正弘と堀田正睦が家定の代わりに政治を行うようになる。
- 3回結婚したけど子供がいなかったので、後継者争いが起こる。
- 初めて将軍らしい行動を見せた翌日に、35歳で亡くなる。
- 病弱で脳性麻痺の疑いがあったことと、顔のアザを気にして、人前に出ることを嫌う。
- 一橋派からは「うつけ」、南紀派からは「聡明」と評価される。
- お菓子作りと料理が趣味だったが、自分で料理していた理由は毒殺されることを恐れていたから。
実の父親である家慶に見限られそうになるほど家定の将軍としての資質は疑われていましたが、ただ一人生き残ったことで家定は将軍に就任しました。
黒船来航という最悪のタイミングで将軍になった家定は、リーダーシップをとるようなことがほとんどなく、“ダメ将軍”とされています。
もしも家定が将軍になったのが平穏な時代だったら、家定の評価は変わっていたかもしれません。
もしも13代将軍に徳川慶喜がなっていたら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。
そう考えると、家定は運悪く将軍になってしまった可哀想な人だったといえるのではないでしょうか。