最近大河ドラマの主人公になったこともあって、ますます人気が高まっている西郷隆盛。
清廉潔白で実直な人柄で知られていますが、どのようなエピソードからそのように言われるようになったのでしょうか?
また幕末から明治に移り変わる際の彼の働きとは、どのようなものだったのでしょうか?
この記事では人気の偉人、西郷隆盛はどんな人物だったのか、簡単だけど詳しく紹介したいと思います。
西郷隆盛のプロフィール
1827年(文政10)12月7日。
鹿児島城下、西郷吉兵衛の長男として西郷隆盛は誕生しました。
幼名小吉、初名を吉之助といいます。
幼少の頃は大久保利通らと同じ郷中教育と呼ばれる、薩摩独自の教育を受けて育ちました。
少年時代に、友人と他の郷中の者同士の喧嘩を仲裁した際に怪我をし、刀を握れなくなってしまします。
これを機に学問で身を立てることを志します。
■1844年(弘文元)
郡方書役の職に就く。
■1854年(安政元)
藩主・島津斉彬の江戸詰御庭方となり、斉彬の江戸参勤に同行します。
これを機に西郷は斉彬に見出さました。
また江戸詰御庭方とは、主の命を受けて諸藩の動向を探ることが仕事でした。
このことが西郷の政治活動のきっかけとなりました。
■1857年(安政4)
主である島津斉彬が死去します。
西郷は安政の大獄により、井伊直弼に追われていた月照とともに入水自殺を図りました。
しかし西郷は生きながらえます。
命を取り留めた西郷は、幕府から隠れるために奄美に潜伏します。
奄美にいる間に、現地の女性と結婚し、2人の子供をもうけています。
■1861年(文久元)
島津久光に呼び戻されますが、久光に逆らい再び沖永良部島に流罪になります。
■1864年(元治元)
当時京・大坂では薩摩の悪評が立っていたことと、公武合体を進めるために人材が必要だったことから、西郷は再び久光により召喚されます。
■同年10月
長州征討の参謀に任命。
この頃勝海舟に出会い、倒幕へと考えを改めます。
■1866年(慶応2)3月7日
薩長同盟成立。
■1868年(慶応4)1月3日
王政復古の大号令煥発。
■1868年(慶応4)~1869年(明治2)
戊辰戦争を主導し、江戸無血開城を果たす。
■1871年(明治4)
一度薩摩に帰郷しますが、明治政府の参議として復職します。
■1871年11月~1873年(明治6)9月
留守政府を預かる。この間に様々な政策を実現させています。
岩倉使節団が帰国した後、征韓論を巡って大久保利通らと対立し、西郷は明治政府を去ることを決断しました。
■1877年
私学校の生徒が陸軍の火薬庫を襲撃したことを発端に、西南戦争が勃発します。
西郷は彼らの大将として挙兵しますが、徐々に劣勢となり、9月24日に鹿児島の城山で自害しました。享年51歳。
西郷隆盛は何をした人?
西郷隆盛と言えば、江戸無血開城で有名ですが、大政奉還からの流れを詳しくご紹介していきましょう。
小御所会での一言
1867年(慶応3)10月に大政奉還が実現しました。
しかしこれは薩長にとっては肩透かしを食らったようなものでした。
大政奉還前の薩長は武力による倒幕を目指していました。
しかし大政奉還により、徳川慶喜が朝廷に政権を返還すると、薩長にとっては徳川を攻撃する理由がなくなってしまったのです。
この大政奉還は、実は慶喜が将軍職を退くわけではありませんでした。
よって慶喜が政務についたままであり、大政奉還前と何も変わらなかったのです。
この現状を打破するために岩倉具視が中心となり、12月9日に王政復古のクーデターが起こされました。
これにより、徳川慶喜の実質的な政治的権力は失われました。
同じ日の夜、小御所会議が開かれ、徳川慶喜の今後の処遇などについて話し合われました。
会議は紛糾し、全く結論が出ませんでした。
そんな時、西郷の一言で会議の流れが一変したと言われています。
「短刀一本あれば片付く」
これは倒幕のためなら殺しも辞さないという、西郷の強い意志の表れだとされています。
これを聞いた徳川擁護派の山内容堂らは、身の危険を感じこれ以上の抵抗は不利だとして、鉾を収めたといいます。
こうして徳川の辞官納地が決定したのです。
戊辰戦争へ
小御所会議で徳川慶喜から領地と官位を剥ぎ取ったものの、薩長はやはり武力での倒幕を考えていました。
そこで西郷が奇策に出ます。
浪人を雇い、江戸市中で放火・暴行・略奪を行い、幕府強硬派を挑発したのです。
この西郷の策にまんまとはまった幕府強硬派は、薩摩藩および佐土原藩邸を焼き討ちにしました。
こうして幕府軍も新政府軍も京都に向かって兵を上げ、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争へと突入していきました。
江戸無血開城
鳥羽伏見の戦いに敗北し、江戸に逃げ帰った徳川慶喜を討伐するために、新政府軍は江戸へ進軍を開始します。
西郷は最初、江戸総攻撃の強硬論者でした。
しかし、信頼する勝海舟と一対一の会談を行い、慶喜が新政府に恭順するという勝の言葉を信じ、江戸総攻撃中止を決断しました。
西郷隆盛のエピソード・逸話
西郷隆盛といえば、清廉潔白で実直な人柄なイメージを持つ人が多いと思います。
ここでは西郷のそんな人柄がわかるエピソードをご紹介します。
年表のところでも触れましたが、西郷は主君・島津斉彬亡き後に自殺を図っています。
主君の死に殉じようとしたという面もありますが、この自殺未遂にはもう一つの側面があります。
斉彬の死の直前、江戸では将軍の後継者争いが勃発していました。
斉彬は一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推し、井伊直弼は徳川家福(後の家茂)を推していました。
この争いは井伊に軍配が上がり、その直後に安政の大獄が始まりました。
井伊直弼による弾圧の手は、京都清水寺成就院の僧・月照にも迫りました。
西郷は将軍継嗣問題における朝廷工作の際に月照と親しくしていた縁で、薩摩に月照を連れ帰ることになります。
しかし薩摩は西郷に「日向送り」を命じます。
つまり「離れた地で匿うふりをして、藩境で斬り捨てよ」ということです。
西郷は藩の決定に逆らうことはできません。
しかし旧知の仲である、月照を殺すこともできません。
西郷が選んだのは、「せめて一人では死なせない。」という道でした。
かくして、西郷と月照は共に身を投げたのです。
普通なら藩命か月照の命を天秤にかけそうなものですが、西郷はそうはしなかったのです。
このようなエピソードからも、西郷の実直な性格が表れています。
西郷隆盛のまとめ
- 島津斉彬に見出された
- 入水自殺を図ったことがある
- 合わせて約7年、離島で潜伏していた
- 薩長同盟、王政復古~戊辰戦争で倒幕に尽力
- 江戸無血開城を決断
- 新政府でさまざまな改革に着手した
- 西南戦争に敗れ、自害した
西郷隆盛の功績はわかりやすく形に残るものはほとんどありません。
そのため、西郷の名前は知っているけど、具体的に何をしたか説明できる人が少ないのかもしれません。
西郷は幕末から明治への転換期のキーマンでした。
江戸無血開城は西郷の懐の深さがなければ、実現しなかったかもしれません。
勝海舟が西郷を「怖ろしい人」と称していることから、西郷を一つの側面から見ていては語れません。
清廉潔白と称されながら、幕府を挑発するために江戸市中の人々を恐怖に陥れたのですから、それだけで大成した人物ではないのでしょう。
西郷について調べれば調べるほど、さまざまな解釈がなされていますし、西郷の様々な側面がわかります。
テレビの中のイメージだけではない西郷を是非探してみてください。