戦国時代

竹中半兵衛ってどんな人?天才軍師の逸話を簡単にまとめてみました

竹中半兵衛

多くの実力を備えた武将たちが天下を争った戦国時代、その武将を陰で支えたものたちがいます。

その人たちは「軍師」と呼ばれました。

中国の三国志には、諸葛亮という名軍師がいたことが書いてあります。

同じように日本の武将にも優れた軍師がいたのです。

この記事では、その中でも最も有名な軍師・竹中半兵衛(たけなか はんべえ)についてお話ししましょう。

竹中半兵衛のプロフィール

  • 本名 竹中重治(たけなか しげはる)
  • 生誕 1544年
  • 生誕地 岐阜県揖斐郡(若しくは池田郡)
  • 死没 1579年(享年36歳)

竹中半兵衛は何をした人?

竹中半兵衛は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。

1544年美濃斎藤氏の家臣で大御堂城(おおみどうじょう)の城主・竹中重元の子として生まれました。

母は杉山久左衛門の娘で妙海大師という女性でした。

初名を「重虎」といい、後に「重治」と改名しています。

まさむね
まさむね
「半兵衛」というのは通称ですが、「竹中重治」よりも「竹中半兵衛」の方が認知度が高いと思われるのでここでは「半兵衛」と呼ぶことにします。

初陣は長良川の戦い

1556年斎藤道三と息子の義龍が争った、長良川の戦いで半兵衛は初陣となります。

斎藤道三に味方していたのですが、父の不在にも関わらず立派に大将を務め上げ城を守り抜きました。

まさむね
まさむね
すでに軍師としての力が目覚めていたのですね。

信長軍に勝利

父の重元は不破郡岩手城主・岩手弾正を攻め落とし1559年菩提山城(ぼだいさんじょう)を築き居城とし、半兵衛も共に移り住みました。

1560年父が隠居(一説には死去)したため、菩提山城の主となり斎藤義龍に仕え、義龍亡き後は斎藤龍興に仕えました。

その頃尾張の織田信長が美濃を攻めてきました。

1563年信長が侵攻した際、半兵衛の策により斎藤軍は勝利しました。

しかし主君の龍興は、酒に溺れ政を全くしない人でした。

その上一部の側近のみを頼り、半兵衛や西美濃三人衆らは疎まれ遠ざけられていました。

西美濃三人衆は斎藤家の重臣で、稲葉良通、安藤守就(もりなり)、氏家直元の三人のことです。

半兵衛らは龍興の居城である稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃し、城を乗っ取ったのです。

しかし半年後龍興に加勢する勢力の攻撃にあい、城を放棄し龍興に取り戻されていました。

半兵衛らから稲葉山城を取り戻した龍興でしたが1567年信長が侵攻し城は奪われ、斎藤家は没落したのでした。

これを機に、半兵衛は斎藤家を見限り、浅井長政のところへ客分として1年ほど身を寄せていましたが、やがて岩手へと移り住みました。

信長に猛アピールを受けるも秀吉の家臣に

織田信長は浪人していた半兵衛を家臣にしたいと考え、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて勧誘を始めました。

なかなか承知しない半兵衛に、秀吉は「三顧の礼」をもって接したといいます。

「三顧の礼」とは中国の劉備が諸葛亮を迎えるときに三度尋ねたということから、目上のものが格下のもののところへ三度も出向いてお願いするということです。

半兵衛はこの時秀吉に才能があると見抜き、信長の直接の家臣にはならないが、秀吉になら仕えようと決めました。

この後信長包囲網が敷かれ、浅井長政と敵対した際、半兵衛は浅井家の家臣の人脈を利用し、うまく調略に成功し浅井の家臣を信長へ寝返らせています。

姉川の戦いでも安藤守就の軍に参加して見事な活躍を見せました。

まさむね
まさむね
ちなみに半兵衛の正室はこの安藤守就の娘です。

秀吉が中国攻めを命じられると、半兵衛も一緒に中国地方にいきます。

宇喜多氏の備前八幡山城を調略により落城させ、京の信長のところへ行き恩賞をもらいました。

この頃から半兵衛は病に伏せることが多くなります。

京で少し休んでいたのですが、自分の死期を悟ると陣中で死にたいと、再び播磨に戻り三木合戦に参陣します。

しかしその最中に力つき、陣中でこの世を去ったのでした。

享年36歳の惜しまれる死でした。

竹中半兵衛のエピソード・逸話

半兵衛と官兵衛

織田信長に対して謀反を起こした荒木村重の元へ黒田官兵衛が説得に行くのですが、逆に捕まって牢に監禁されてしまいました。

戻ってこない官兵衛が裏切ったのだと考えた信長は、官兵衛の嫡男・松寿丸を殺すよう秀吉に命じました。

しかし半兵衛は松寿丸を密かに助け、自分の領地に隠していたのでした。

後に官兵衛が捕まっていたことがわかり、信長は松寿丸を殺させたことを後悔したのですが、半兵衛の機転で松寿丸の無事がわかり安堵したのでした。

また官兵衛からも深く感謝され、彼は竹中家の家紋を貰い受けています。

華奢な武将

「太閤記」などの書物によると、半兵衛は体が弱く、細身で女性のようであり、出陣の時も静かに馬に乗っているだけだったそうです。

容貌が女性のようだったため、斎藤家に仕えているときに龍興の寵臣に嘲笑され、小便を顔にかけられたことがありました。

数日後半兵衛はこの寵臣を惨殺して稲葉山城を乗っ取ったといわれています。

まさむね
まさむね
風貌は穏やかな女性でも、中身は知恵の優れた武将だったというわけですね。

4行でわかる竹中半兵衛のまとめ

まとめ
  • 黒田官兵衛と並ぶ智慧者
  • 秀吉に三顧の礼で迎えられた
  • 見かけは弱々しい武将だった
  • 死を陣中で迎えたかった

36歳という若さでこの世を去った名軍師・竹中半兵衛の生涯を見てきました。

彼の病気は肺の病だろうと言われています。

自分の死期を悟り半兵衛は秀吉にこう言い残しています。

「信長公は英知大才の方ですが、気質は温順ではなく片寄ったところがありますのでご用心ください」

半兵衛は信長の気質の危うさを察していたのですね。

もし半兵衛が生きていたら、本能寺の変は防げたのでしょうか。

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