歴史の中で、改革者は成功すれば褒め称えられ、失敗すれば必要以上に貶められます。
平安時代の貴族社会で、貴族でありながらそれを覆そうと奮闘し、そして失敗に終わってしまった人物がいました。
それが、藤原頼長です。
目次
藤原頼長のプロフィール
藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、平安時代末期の1120年出生。
父親は堀河天皇の関白を務めた藤原忠実。
家系は藤原道長の直系です。
藤原道長以降、摂政・関白の地位を独占していた藤原氏は、この時代藤原家内部での内紛や白河上皇の院政などで権勢に陰りをみせていたものの、依然朝廷では強い力を持っていました。
それは、頼長がわずか11歳で従三位、12歳で権中納言に任じられていることからもわかります。
14歳で権大納言、そして19歳で左近衛大将、29歳で皇族を除いた最高位である左大臣になっています。
若くして内覧になる
30歳のとき、それまで藤原氏の代表者である藤氏長者であった兄・忠通と父・忠実が対立。
忠実は忠通から長者の地位を奪って、頼長を藤氏長者に立てました。
それとともに頼長は朝廷の内覧になりました。
簡単にいえば都合の良い文書だけ天皇まで上げ、都合が悪い文書は握りつぶすことができるという立場にあります。
朝廷で権力を握った頼長は律令政治への回帰を目指すものの、周囲の反発を買います。
内乱により死去
頼長35歳のとき、時の天皇・近衛天皇が崩御。
この天皇崩御に際して、頼長は天皇を呪詛したという噂を流され、内覧の地位を剥奪されて失脚しました。
近衛天皇の次に即位した後白河天皇についた兄・忠通により謀反人とされた頼長は、崇徳上皇に接近。
忠通と頼長による内乱「保元の乱」が勃発します。
忠通の軍にあえなく敗北した頼長は矢傷を受けながらも逃亡し、父・忠実を頼るものの、保身に走った忠実に見捨てられ死去しました。
享年37歳でした。
藤原頼長は何をした人?
藤原頼長は藤原氏の権勢の中で生き、そして政治的に失脚した敗者であるため、歴史上の敗者の常としてあまりよくは伝えられていません。
しかし、客観的に見ると非常に優秀な人物でした。
真面目すぎて「悪左府」と嫌われる
頼長は内覧に任じられて朝廷の権力を手に入れた後は、朝廷の改革に乗り出しました。
当時は藤原氏が身内で権力を奪い合い、上皇が天皇をないがしろにして院政を行うという状態。
儒教に傾倒したという頼長は、そうした異常な朝廷の状態を、律令を元にした正常な政府組織に戻そうとしたのです。
頼長は厳格な法の執行を行い、当時東北に事実上の独立王国を築いていた藤原基衡に年貢の増徴を要求し、朝廷も恐れる勢力となっていた比叡山などにも強い態度で挑みます。
こうした政治手法は、既得権益の中でなあなあで済ますことが常識であった当時の貴族社会から反発を受け、頼長は「悪左府」と呼ばれます。
悪というのは悪いというより強力なという意味。
左府は左大臣の中国風の呼び名です。
要するにこれは、学校の秩序を取り戻そうと頑張った生徒会長が、バカな不良たちに嫌われたというような話です。
武家政治へとつながる保元の乱
まず当時の状況を説明します。
天皇の系譜は、鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇という流れです。
崇徳天皇即位時に鳥羽天皇が上皇となり院政を敷きました。
それは近衛天皇即位後も続きます。
崇徳天皇も上皇になったものの、鳥羽上皇に抑えられて権力はありませんでした。
頼長は、一時期男子に恵まれなかった兄・忠通の養子となります。
しかし、忠通に男子が生まれたために養子を外されました。
そして、実子を権力の中枢に据えたい忠通と、父・忠実の間で対立が生まれ、頼長は忠実つきました。
近衛天皇崩御の折、それが頼長の呪詛によるものだという噂を流したのは、頼長を追い落としたい忠通一派だと考えられています。
近衛天皇崩御からまもなく鳥羽上皇も崩御し、権力の空白状態が生まれました。
そこで忠通は、さらに頼長が崇徳上皇と組んで謀反を起こそうとしているという噂を流します。
頼長は、実際に崇徳上皇に接近し、軍を挙げて忠通に対抗するしか生きる道は残されていませんでした。
これが保元の乱です。
このとき、忠通軍についたのが源頼朝の父・源義朝と平清盛、頼長軍についたのが、義朝の父・源為義と、清盛の伯父・平忠正でした。
ここで頼長軍を破ったことで清盛が力をつけ、平治の乱で義朝が敗れたことで頼朝が東国へ流されてから幕府をつくり、武家の時代へとなっていきます。
藤原頼長のエピソード・逸話
保元の乱の敗者として知られてきた藤原頼長ですが、最近ではもっとプライベートな部分のほうが有名になっています。
多くの男達と浮き名を流す
藤原頼長は16歳から35歳まで日記をつけていました。
その日記は今日『台記』として伝えられています。
『台記』には頼長と10人近い男性との交際記録がつけられています。
日本では同性愛は平安時代ごろに貴族に広まり、それが武士に伝わり、江戸時代になると町人にまで受け入れられるようになって、明治時代になるまではタブーでも差別の対象でもありませんでした。
頼長が特に愛したのが、ボディーガードだった秦公春(はたのきみはる)です。
頼長の甥で天台僧の慈円が記した『愚管抄』にも頼長は公春を無二に愛し、可愛がっていたと記されるほどでした。
その公春が病気で亡くなると、頼長は1ヶ月間朝廷に出仕せずに喪に服します。
日記にも公春への思い、祈っても公春を治してくれなかった神仏への恨みなどが書き連ねてあります。
頼長は貴族であるため、本人の意思やセクシャリティとは関係なく14歳のときに結婚しています。
この奥様のことは非常に大切にしていたようです。
しかし、頼長はその奥さんの実弟・徳大寺公能とも関係を持っています。
貴族の同性愛は、身分が高いほうが攻めになるという決まりがあったといいます。
その決まりを破った相手が、木曽義仲の父・源義賢でした。
頼長は、義賢との一夜を「義賢と寝たら無礼なことをされたけど気持ちよかった……最初はいやだったけど、初めて……」と書いてあります。
意外と動物好きで優しい性格
政治家としては冷徹で厳しすぎるように見える頼長。
でも、やさしい一面もあったようです。
子供の頃にペットの猫が病気になったので、千手観音の絵を描いてお願いしたところ、病気が治り10歳まで生きた。
その猫が亡くなったときは棺に入れて葬ったなどと書き記しています。
兄の忠通にオウムが献上された時の観察記録も残されています。
頼長には多子という養女がおり、近衛天皇が12歳のときに皇后となりました。
頼長が2人を訪ねていくと、お馬さんごっこがしたいと言われ、お馬さんになって遊んであげたとか。
4行でわかる藤原頼長のまとめ
朝廷の改革を目指すも失敗した「悪左府」藤原頼長のまとめです。
- 藤原道長の直系の子孫
- 若くして左大臣、内覧に任じられる
- 実兄との確執がもとで戦乱のうちに死去
- 男性たちとの関係を日記に記す
法治より人治が重んじられる社会で法治を徹底しようとして疎まれた頼長。
その手法は多少強引だと言えるものの、志は正しかったと言っていいと思います。
頼長をめぐって起こった保元の乱は、貴族中心の社会を終わらせ、武家中心の社会への扉を開きました。
そういった意味で、彼は日本史の中でもっと注目されてもいいのではないでしょうか?