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戦国時代

明智光安ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

明智光安

本能寺の変で織田信長を討ったことで、歴史に名を残した有名人といえば明智光秀ですね。

光秀の若い頃は、織田家に仕官するまで謎の部分が多いとされています。

そんな光秀は幼い頃父親を亡くしています。

その光秀の後見人だったのは、叔父の明智光安です。

この記事は明智家を守ってきた戦国時代の武将・明智光安についてお話ししましょう。

明智光安のプロフィール

  • 生誕 1500年
  • 出生地 美濃国
  • 死没 1556年
  • 享年 56歳
  • 幼名 亀寿丸
  • 別名 柿田弥次郎

明智光安は何をした人?

明智光安は1500年に美濃の長山城主・明智光継(あけちみつつぐ)の三男として生まれました。

父の光継は東美濃周辺を治めていた武将でした。

明智家のことが歴史に登場するのはこの父・光継の頃からです。

光継は美濃で斎藤道三の力が強まると、いち早く道三に近づいた人でした。

明智光秀の後見人を務める

1535年美濃国・明智城主の家督を継いでいた光安の兄・光綱(みつつな)が若くして亡くなりました。

死因は、父とともに斎藤道三に仕えていたものの、その道三に明智城を攻められ討ち死にしたという説と病死だったという説があり、はっきりしていません。

ただ光綱には幼い嫡子・彦太郎がいました。この彦太郎が後の明智光秀だったのです。

光安は兄の子である彦太郎がまだ幼いため、隠居していた父光継にその後見役となるように命じられました。

光安は後見人とはいえ、立派に当主の代行を務めたと言います。

事実光秀が成人してからも、変わらず当主として城を守っていました。

まさむね
まさむね
これは最初から光安が城主として明智城に入ったという見方と、光秀が光安に遠慮をして城主になりたがらなかったという説があります。

従五位下兵庫頭に

1547年に光安は室町幕府第12代将軍・足利義晴に謁見を許され、従五位下兵庫頭(じゅごいのげひょうごのかみ)の位を賜りました。

1553年光安は出家し、法名を宗寂(そうじゃく)と名乗りました。

光安は斎藤道三と近しくなるために、妹の小見の方(おみのかた)を継室として送っています。

まさむね
まさむね
継室といえば正室と同じような立場でしたが、戦国時代にはこのような政略結婚が普通でしたので、人質に差し出されたということですね。

つまりこの時の明智家は斎藤道三の支配下にあったということです。

斎藤道三が敗れ明智城で朽ちる

ところがその頼りの斎藤道三が嫡男の義龍(よしたつ)と対立します。

1556年ついに戦となります。

そして斎藤道三は義龍に敗れ討ち死にしてします。

道三に従っていた明智家は斎藤義龍やそれに味方する稲葉良通(いなばよしみち)らの攻撃を受けることになります。

光安は弟の明智光久や三宅氏、藤田氏、妻木氏ら仲間の氏族と明智城に籠城します。

しかし長井道利らに攻撃され、明智城は落城となりました。

光安は光久らとともに自害して果てました。

その時光安は自分の息子である明智秀満に宗家嫡男の光秀を託し、城から逃がしたと言われています。

まさむね
まさむね
ただ明智秀満が事実光安の息子であったかどうかははっきりしていません。

これ以降明智光秀は城をなくして、各地を転々とするようになったのでした。

光秀について行った光安の息子とされる秀満は「明智五宿老」の一人として有名です。

明智光秀についてはこちらの記事で詳しくまとめています。

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明智光安のエピソード・逸話

光安の妹・小見の方の子供は

小見の方は斎藤道三の継室だったのですが、彼女は道三との間に女の子を産んでいます。

それは後に織田信長の正室となる「帰蝶(きちょう)」別名「濃姫」でした。

まさむね
まさむね
明智光秀も織田家に仕えることになりますから、明智家は織田との縁が深かったのでしょう。

光安は遠山景行と同一人物だった?

明治になってから、明智光安は遠山景行のことだという説が出ました。

それによると、景行は明智光継の三男として生まれ、明知遠山氏を継いだとあります。

景行は出家した時「宗叔」と名乗っていますが、光安は「宗寂」でとてもよく似ていることも二人が同一人物だったことを意味しているといいます。

この遠山景行と言う人は明智遠山氏の当主で美濃国の明知城主でした。

1509年遠山景成の子として生まれ、1543年家督を相続しています。

甲斐の武田家の支援を受け東美濃の主勢力となりました。

後に武田と織田が対立するようになってからは織田家に近づくことになります。

1570年武田信玄が信長打倒のために西上を始めました。この時景行は上村合戦で破れ討ち死にしています。

このように一人の武将として歴史のある人物が、明智光安と同一人物だったのかはっきりとはわかりませんが、そのような説があることも歴史のミステリーとして面白いですね。

4行でわかる明智光安のまとめ

まとめ
  • 明智光秀の叔父
  • 従五位下兵庫頭の位をもらったが、斎藤道三の支配下にあった
  • 妹の子供は織田信長の奥さん
  • 遠山景行と同一人物だったという説がある

明智家そのものが歴史的に見てあまりはっきりとわかっていない中で、光秀の後見役として明智家を支えた明智光安についてお話ししてきました。

明智家を切り盛りしてきた光安の活躍はその最期からも良くわかりますね。明智家のために生きて、明智家のために散った光安の生涯は立派です。

そして最期まで光秀を守ったのですから。

さて、大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀が取り上げられますが、その中で光安はどのような活躍を見せるのでしょうか。

光秀の叔父さん「明智光安」に注目です。

明智光秀についてはこちらの記事で詳しくまとめています。

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