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	<title>安土桃山時代で有名な歴史上の人物一覧｜歴史上の人物外伝</title>
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		<title>千利休は何した人？実は身長がかなり高かった？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 06 Dec 2019 11:36:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
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					<description><![CDATA[千利休と言えば、お茶の名手として有名です。 ただ、彼に関する話はお茶だけには留まりません。 実は、あの織田信長や豊臣秀吉とも深く関わる人物なのです。 彼はどんなことを成し遂げたのでしょうか。 また、エピソードや逸話は？ ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>千利休と言えば、お茶の名手として有名です。</p>
<p>ただ、彼に関する話はお茶だけには留まりません。</p>
<p>実は、あの織田信長や豊臣秀吉とも深く関わる人物なのです。</p>
<p>彼はどんなことを成し遂げたのでしょうか。</p>
<p>また、エピソードや逸話は？</p>
<p>簡単にまとめてみました！</p>
<h2>千利休のプロフィール</h2>
<p>千利休（せんのりきゅう）1522-1591。</p>
<p>戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。</p>
<p>主にわび茶の完成者として知られ、黒の帽子と衣を羽織った姿絵で有名です。</p>
<h2>千利休は何をした人？</h2>
<h3>豊臣秀吉の側近</h3>
<p>1569年以降、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>は境を直轄地としていきますが、その過程で千利休は茶堂として召し抱えられることとなります。</p>
<p>そして1582年の本能寺の変により信長が亡くなると、<span class="marker">豊臣秀吉に仕える</span>ようになりました。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>は利休に茶室を作るように命じ、約半年をかけて待庵を完成させ、以降はそこで茶会を開いていきます。</p>
<p>その後は大阪城内にも茶室を作り、1587年には聚楽第内に屋敷を構え、禄を3千石も賜るなど、茶人として大きく評価されるようになりました。</p>
<p>また、日枝佳乃側近として政事にも大きく関わり、豊臣秀長は「公儀のことは私に、内々のとは利休に」と語っていたといいます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>こうして順風満帆に思えた利休でしたが、1591年、突然悲劇が訪れます。</p>
<p><span class="marker">秀吉の怒りを買い、切腹を命じられてしまう</span>のです。</p>
<p>その原因には様々な説が唱えられていますが、未だ確定はされていません。</p>
<p>一つには、茶器を高額で売り私腹を肥やしたという疑いを持たれたから。</p>
<p>他には、秀吉と茶堂に対する考え方で対立したからや、朝鮮出兵を批判したからなどの理由が挙げられています。</p>
<p>中には、茶会で秀吉に茶をこぼしてしまったからという、本当なら理不尽に思える説まであります。</p>
<p>いずれにせよ、切腹を命じられたからには逃れることはできません。</p>
<p>弟子たちの懇願も空しく、利休は京都で最期を迎えました。</p>
<p>当時70歳でした。</p>
<h3>わび茶の完成</h3>
<p>わび茶とは茶の湯の一様式であり、書院における豪華な茶の湯に対して、簡素簡略の境地である「わび」の精神を重んじたものです。</p>
<p>村田珠光が初めて以降、弟子の宗珠、武野紹鴎などが発展させ、千利休が完成させたと言われています。</p>
<p>彼は<span class="marker">受け継がれてきたわび茶の概念をさらに独自に発展</span>させ、道具を自分でデザインしたり、竹で作った簡易なものを用いたりしました。</p>
<p>これらは他からすれば粗末な道具とみなされていましたが、あえてそれを使うことに「わび」の精神が宿るとしていたのです。</p>
<p>他にも茶を飲む空間にも革新を行い、元々は「部屋の一部」でしかなかった茶室を、独立した建物である「草庵」として新しく生み出しました。</p>
<p>この茶への新たな考え方は孫の千宗旦にも引き継がれ、「わび茶」のイメージは完成されました。</p>
<p>このように、利休はそれまでの茶に対する考え方を根本から変えていき、現代に至るまでに多大な影響を与えることになったのです。</p>
<h2>千利休のエピソード・逸話</h2>
<h3>身長がかなり高かった</h3>
<p>利休の身長は、180cmもあったと推定されています。</p>
<p>現代でもかなり高い方ですが、当時の平均身長からすれば並外れた体格の持ち主だったと言えるでしょう。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
それだけの大男が茶室で正座している様子は、それだけで緊張感がありそうですね(笑)
</div>
</div></div>
<h3>切腹を命じられても動じなかった</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>が千利休の切腹を決断した後、利休のもとに使者が来ました。</p>
<p>それを伝えられた利休は、「茶室の鍵をなくしてしまいました」と、動じることもなく答えたと言います。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
既に覚悟できていたのか、日ごろの茶室で培った精神のおかげなのか、いずれにしても彼の肝の据わった人間性が伺えるエピソードですね。
</div>
</div></div>
<h3>朝顔で秀吉を感動させた</h3>
<p>ある時、利休に招かれた秀吉は庭の朝顔がすべて切り取られていることに気付きました。</p>
<p>不思議に感じながらも茶室に入ると、そこにあったのは一輪の朝顔。</p>
<p>普段なら何も感じない朝顔でも、たった一輪だけという状況だとより一層その美しさを際立たせてくれます。</p>
<p>それを見た秀吉は、利休の心意気に深く感動しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
一つを高めるために他を犠牲にする、という考え方は一見残酷なようにも思えますが、何かを追求するということにはそれだけの覚悟と決断が必要なのでしょう。</p>
<p>他の誰もやらないことをやることができる彼の精神が、秀吉を惹きつけたのだと思います。
</p></div>
</div></div>
<h2>3行でわかる千利休のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>織田信長・豊臣秀吉に仕え、側近や茶人として大成していくが、秀吉の怒りを買い切腹をさせられた</li>
<li>村田珠光が生み出した「わび茶」の精神を受け継ぎ、完成させた</li>
<li>切腹を伝えられても動じないような強い心を持っていた</li>
</ul>
</div>
<p>千利休の人生はすべて茶と共にあり、彼のおかげで茶に対する世間の関心は大きく向上しました。</p>
<p>秀吉の側近としても優秀で、大きな信頼も持たれていましたが、最期には怒らせてしまい自害するというのは、なんとも悲しい終わり方だと思います。</p>
<p>しかし、それもきっと利休自身が信念を曲げなかったゆえのことだったのでしょう。</p>
<p>茶で培われた精神は、後世にも受け継がれ、そして現代にも多くの影響を残しています。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>本多忠勝ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/hondatadakatsu/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 13 Aug 2019 10:44:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[徳川四天王のひとりである本多忠勝といえば、勇猛無比、名槍・蜻蛉切の持ち主、生涯57回の戦闘で傷を負わなかった男。 忠勝についてのイメージは、まさにザ・戦国武将といったものです。 そんな忠勝の人となりをクローズアップしてみ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>徳川四天王のひとりである本多忠勝といえば、勇猛無比、名槍・蜻蛉切の持ち主、生涯57回の戦闘で傷を負わなかった男。</p>
<p>忠勝についてのイメージは、まさにザ・戦国武将といったものです。</p>
<p>そんな忠勝の人となりをクローズアップしてみたいと思います。</p>
<p>まずはその生涯から見ていきましょう。</p>
<p>戦国時代を駆け抜けた男、本多忠勝はどんな人生を送ったのでしょうか。</p>
<h2>本多忠勝のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1548年3月17日</li>
<li>死没　1610年12月3日</li>
<li>享年　63歳</li>
</ul>
</div>
<p>本多忠勝は1548年に本多平八郎忠高の長男として、現在の岡崎市西蔵前町で生まれました。</p>
<p>本多家は松平家の古参の臣ですが、父・忠高は忠勝がわずか2歳のときに戦死してしまいます。</p>
<p>忠勝は叔父・忠真のもとで成長しました。</p>
<p>初陣は13歳、現代ではちょっと考えられない年齢です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これが戦国時代のシビアなところです。</p>
<p>忠勝が初めて首をとったのが14歳といいますから、さらに驚きです。
</p></div>
</div></div>
<p>現代では中学生にすぎない子どもが、殺し合いをしなければならない、それが戦国の掟です。</p>
<p>しかし、忠勝は戦争においてその本領を発揮するタイプの人間でした。</p>
<p>彼の能力を存分に生かせる場所は戦場なのです。</p>
<p>忠勝は典型的な戦闘的人間でした。</p>
<div class="m50"></div>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/imagawayoshimoto/">今川義元</a>が桶狭間で討たれ、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>が<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>と同盟を結んで勢力拡大につとめると、忠勝の活躍の場はいよいよ広がります。</p>
<p><span class="marker">戦場で縦横無尽に暴れまわる武人</span>として、その名声を高めていきます。</p>
<p>「鹿角脇立兜」と「蜻蛉切」は彼のトレードマークとして知られていくのです。</p>
<ul>
<li>1570年の姉川の合戦</li>
<li>1572年の一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い</li>
<li>1575年の長篠の戦い</li>
<li>1584年の小牧・長久手の戦い</li>
</ul>
<p>など、徳川家の重要な戦いには常に忠勝の姿がありました。</p>
<p>「家康にすぎたるものがふたつあり。唐の頭と本多平八」</p>
<p>武田家の小杉左近によるこの狂歌は、のちにさまざまなパロディを生むほど有名になったものです。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>にも「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称されるほど、有名な存在となっていきます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>関ケ原の合戦以後は、伊勢桑名（三重県桑名市）10万石を領する大名となり、<span class="marker">桑名市発展の礎を築いた名君</span>として記憶されています。</p>
<p>1610年に本多忠勝は桑名で死去しました。</p>
<p>享年63歳でした。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>本多忠勝は何をした人？</h2>
<p>本多忠勝がその勇猛ぶりをいかんなく発揮した有名な戦い2つをご紹介しましょう。</p>
<p>まずは一言坂の戦いからです。</p>
<h3>一言坂の戦い</h3>
<p>これは1572年の戦いです。</p>
<p>舞台は遠江（静岡県西部）二俣城、プレイヤーは<a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>と<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>です。</p>
<p>二俣城は戦略上の要地であり、ここを抑えたものは遠江を勢力圏にできる重要地点です。</p>
<p>なんとしても二俣城を死守したい家康でしたが、数で勝る武田軍は、二俣城への軍勢の展開の速さでも徳川軍を圧倒していました。</p>
<p>勝負は始めからついていたと言っていいでしょう。</p>
<p>本多忠勝はこの戦いにおいて殿をつとめ、徳川本隊を天竜川を越えて浜松に退却させるため、武田軍と死闘を繰り広げます。</p>
<p>本多軍と武田軍が激突したのが一言坂というところで、<span class="marker">忠勝の獅子奮迅の働きによって家康は天竜川を越えて退却することに成功しました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このとき武田軍で忠勝と戦ったのが小杉左近であり、例の狂歌、「家康に過ぎたるものがふたつあり。唐の頭と本多平八」というのは、この時の戦いの感慨を歌にしたものだと思われます。
</div>
</div></div>
<h3>小牧・長久手の戦い</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が本能寺に倒れた後、後継者として急速に台頭する<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>と織田信雄・<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>は1584年についに刃を交えることとなりました。</p>
<p>いわゆる小牧・長久手の戦いですが、この戦争は半年間にわたる長期戦となり、関ケ原のような両軍の会戦で勝敗を決する類のものではありませんでした。</p>
<p><span class="marker">本多忠勝が一役買ったのは長久手の戦いにおいて</span>です。</p>
<p>両軍あわせて2万ほどの軍勢が激突し、秀吉側の<a href="https://rekishigaiden.com/morinagayoshi/">森長可</a>が戦死した戦いですが、実は忠勝はこの激戦には参加していません。</p>
<p>忠勝の出番は、秀吉の本陣約2万を相手に、500人ほどの手勢で悠々と挑発した一件です。</p>
<p>秀吉がその気になれば本多忠勝隊を血祭にあげることもできたでしょうが、秀吉は常識的な行動を好まない男です。</p>
<p>悠然と愛馬に水を飲ませる忠勝を見逃しました。</p>
<p>忠勝の大胆不敵な行動に、敵である秀吉も感服したのです。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>本多忠勝のエピソード・逸話</h2>
<h3>蜻蛉切</h3>
<p>忠勝といえば<span class="marker">蜻蛉切（とんぼきり）</span>、といってもいいでしょう。</p>
<p>ひらりと飛ぶ蜻蛉が刃先で真っ二つに切れたという逸話をもつこの名槍は、忠勝を語るときになくてはならないものです。</p>
<p>当時の槍は2丈（約6m)が標準の長さといいますから、接近戦用ではなく、突撃を防ぐためのものでしょう。</p>
<p>蜻蛉切は柄の長さ1丈3尺（約4m)といいますから、相当短いです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
使いやすさを考慮した結果でしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>桑名藩主としての実績</h3>
<p>忠勝は<span class="marker">藩主として有能な一面もあった</span>ようです。</p>
<p>積極的な城下町の区画整理をおこない、現在の桑名市発展の基礎を築いた名君とされています。</p>
<p>戦闘のプロフェッショナルである忠勝が優れた行政能力をもっていたのは意外ですが、よくよく考えれば当然なのです。</p>
<p>戦場で何よりも必要なのは合理的精神です。</p>
<p>生き残るためには、勇猛さだけでは足りません。</p>
<p>合理的精神が絶対に必要です。</p>
<p>常に状況に応じた最適解を見つけ出さなければなりません。</p>
<p>生涯57回の戦場で傷一つ負わなかったという忠勝は、行政の手腕でも合理性を発揮したといえます。</p>
<h2>3行でわかる本多忠勝のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>根っからの戦争好き。戦いこそが存在理由。</li>
<li>腕っぷしも度胸も一人前以上。</li>
<li>統治者として有能な一面もあった。</li>
</ul>
</div>
<p>本多忠勝を一言でいうとすれば、「迷いのない人」といえるのではないでしょうか。</p>
<p>彼からは葛藤というものが感じられません。</p>
<p>行動原理はあくまでシンプルで、かつ力強いものです。</p>
<p>「主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」</p>
<p>忠勝の言葉として伝えられているものです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
忠勝自身の言葉かどうかは不明ですが、彼にふさわしい言葉ではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>本質的に忠勝には葛藤がないため、ドラマがありません。</p>
<p>ドラマがないため一本調子になりがちなのです。</p>
<p>しかし、この点は彼の欠点とばかりはいえません。</p>
<p>戦国時代とは、そんな感傷を許さない世界だったかもしれないからです。</p>
<p>関ケ原の戦いで忠勝軍が首を90個とった、と事も無げに書かれていますが、首をとるということを具体的に想像してみれば、生首を90もぶら下げた軍勢の行進というのは、不気味でおぞましいものです。</p>
<p>忠勝が生きたのはそんな時代だった、ということを少しだけ想像してみるのも、大切なことなのではないでしょうか。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>支倉常長ってどんな人？ヨーロッパへ渡った侍の生涯に迫る</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 09 Aug 2019 07:41:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[支倉常長は江戸時代初期にヨーロッパにわたった侍です。 主君・伊達政宗の命をおびて、遠くローマまで派遣された常長を今回はご紹介したいと思います。 その生涯を探っていくと、時代に翻弄された悲劇の人物としての姿とともに、あの時]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>支倉常長は江戸時代初期にヨーロッパにわたった侍です。</p>
<p>主君・<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>の命をおびて、遠くローマまで派遣された常長を今回はご紹介したいと思います。</p>
<p>その生涯を探っていくと、時代に翻弄された悲劇の人物としての姿とともに、あの時代に二つの大洋を横断して日本に戻るという並外れた冒険を成し遂げた偉大な人物としての姿が浮かび上がってきます。</p>
<p>それでは、彼の生涯から説明していきましょう。</p>
<h2>支倉常長のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1571年</li>
<li>死没　1622年7月1日</li>
<li>享年　52歳</li>
</ul>
</div>
<p>支倉常長（はせくら つねなが）は、<span class="marker">慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡った人物</span>として知られています。</p>
<p>1571年、現在の米沢市に、山口常成（やまぐちつねしげ）の次男として生まれました。</p>
<p>山口常成は伊達輝宗・政宗に仕えた武士で、その祖先をたどれば<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>のひ孫・高望王にさかのぼるといいますから、かなりの名家の出身だったと推測されます。</p>
<p>ただ、常成は1600年に<span class="marker">政宗に自害を命ぜられて亡くなっています。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
どんないきさつがあったのかは不明ですが、父の自刃は常長にとって大きな衝撃だったと同時に、伊達家家中においての立ち位置にも影響を及ぼしたのではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>名誉挽回のためにも主君・政宗のためにより一層の忠節を果たす必要があったのではないかと推測されます。</p>
<div class="m50"></div>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>が城下町・仙台にキリスト教の布教を許可したとき、当地の仏教寺院とトラブルになったことがあります。</p>
<p>1611年のことです。</p>
<p>政宗はトラブルになった寺院の仏像破壊や、僧侶たちの殺害を支倉常長に命じており、常長はその仕事を忠実に遂行しました。</p>
<p>幕府がキリスト教の禁教令を出したのは1612年3月21日（直轄領のみ）、翌年1613年12月19日には全国に波及させていきます。</p>
<p>常長が慶長遣欧使節として石巻を出帆したのが、1613年9月15日です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
仙台におけるキリスト教布教も常長の出帆も、幕府の対キリスト教政策が大転換する前夜にあたるわけです。
</div>
</div></div>
<p>サン・ファン・バウティスタ号で太平洋を横断し、メキシコを越え、ヨーロッパに上陸した常長らは、スペインでは国王フェリペ3世と謁見し、ローマでは教皇パウロ5世にも謁見しました。</p>
<p>その道中、常長は洗礼を受け、クリスチャンとなっています。</p>
<p>この<span class="marker">遣欧使節派遣の目的は、さまざまな推測がなされていますが、表向きは通商を求めたもの</span>です。</p>
<p>しかし、日本におけるキリスト教弾圧の情報は遠くローマまで届いていました。</p>
<p>そのこともあってか、この使節派遣はさしたる成果も生まず、常長らは帰国せざるを得ませんでした。</p>
<p>常長は1620年に仙台に帰国しますが、日本におけるキリスト教をめぐる環境は激変していました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
心のうちはわかりませんが、形式上はクリスチャンとなった常長です。</p>
<p>しかも、主命であるヨーロッパとの通商交渉もまとまらないなかで帰国しなければならなかった常長は、さぞ無念だったのではないでしょうか。
</p></div>
</div></div>
<p>常長は失意のうちに1622年に没したと伝えられています。</p>
<h2>支倉常長は何をした人？</h2>
<p>日本の戦国時代は、世界史においては大航海時代と重なり、その交流がかつてないほど拡大・深化した画期的な時代でもあります。</p>
<p>日本人も日本列島から中国、東南アジアへとその行動範囲を広げ、田中勝介のようなアメリカ大陸まで進出する商人もあらわれました。</p>
<p>「下剋上」という言葉が示すように、身分制度が崩壊し、実力がものをいう社会が出現した戦国日本は、まさに沸騰するエネルギーの場だったといえるでしょう。</p>
<p>そのエネルギーの爆発が日本人の海外進出となってあらわれたのです。</p>
<p>しかし、常長の場合は、その戦国が終結しつつあり、国内があらたな身分制度の確立に向かう過渡期にあたっていました。</p>
<p>沸騰したマグマが冷え固まり、あらたな土壌を形成しつつあったのです。</p>
<p>時代の変わり目に生きた常長の大きな仕事である慶長遣欧使節について、少し詳しく説明していきます。</p>
<h3>慶長遣欧使節の道のり</h3>
<p>使節団をのせたサン・ファン・バウティスタ号は1613年9月15に出帆しました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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出発のときは150人ほどいたそうですから、かなり大規模な使節団といえるでしょう。
</div>
</div></div>
<p>スペイン国王やローマ法王に手渡すための書状は、日本語とラテン語の2種類作成され、ラテン文は<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>の信頼厚い宣教師のルイス・ソテロによってしたためられました。</p>
<p>食料や水を十分に積載した船は、まず太平洋を横断するという大仕事にとりかかります。</p>
<p>暴風雨や乗員の病気、食料の問題など、考えられるトラブルは枚挙に暇がありません。</p>
<p>しかし幸いにも、3か月ほどで使節団はメキシコに無事たどり着くことができました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これだけでも大変な業績といえるでしょう。
</div>
</div></div>
<p>アカプルコから今度は陸路でメキシコを横断し、メキシコ湾にのぞむウルワから別の船で大西洋に進みます。</p>
<p>ハバナでまた別の船に乗り換えたあと、いよいよ大西洋横断です。</p>
<p>一行は60日ほどでスペインのサン・ルカルに到着します。</p>
<p>1614年10月5日のことです。</p>
<p><span class="marker">一年あまりをかけて、常長らは太平洋と大西洋の二つの海を渡った</span>のです。</p>
<p>その後、マドリードではスペイン国王フェリペ3世に謁見しました。</p>
<p>8か月ほど滞在したあと、一行はバルセロナから船でフランスを経てイタリア・サヴォナに上陸します。</p>
<p>そして、1615年10月18日についにローマへと到着しました。</p>
<p>ここまで来るのに2年あまりを費やしました。</p>
<p>アジアからヨーロッパまでの長い旅です。</p>
<p>現在とは比べ物にならない危険と隣り合わせの航海でした。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これだけでも、偉大な達成といっていいと思います。
</div>
</div></div>
<h3>使節派遣の目的</h3>
<p>一方でキリスト教を禁じ、もう一方では交易を望むというアンビバレントな幕府の姿勢には、当時の世界情勢と深い関係があります。</p>
<p>1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れ、ヨーロッパの勢力図が変わろうとしていたといえ、当時、世界でもっとも勢いのあったのはスペインです。</p>
<p>アメリカ大陸を勢力圏におさめ、フィリピンを植民地化したスペインは、虎視眈々と中国や日本をその支配下におさめようと企んでいました。</p>
<p>スペインの常とう手段は、まず宣教師を送り込み、現地の民衆をキリスト教に教化し、しかる後に軍隊を送り込むというもので、日本に来る宣教師が植民地化のための尖兵であることを、<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>、<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>など為政者たちはよく見抜いていました。</p>
<p>それでも、西洋との交易は莫大な利益を生むため、キリスト教の布教も一定の範囲内で許容していたにすぎません。</p>
<p><span class="marker">慶長遣欧使節の目的も、西洋との貿易にある</span>と断言していいでしょう。</p>
<p>その際、注意すべきは、この使節派遣を企てたのが伊達政宗だったということ。</p>
<p>政宗が絡んでいるため、スペインと組んで幕府転覆の陰謀があったのではないか、などの憶測がされますが、この使節派遣は幕府も了承しており、というより積極的に援助しており、幕府と伊達家の共同作業というほうが適切かもしれません。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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むしろ、国策としての使節派遣だったと考えていいでしょう。
</div>
</div></div>
<h3>日本帰国後の支倉家</h3>
<p>常長が日本に帰国してからの詳しい記録は残っていません。</p>
<p>どこで亡くなったのかも確定しがたいのです。</p>
<p>さらに、常長帰国後、<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>によるキリシタン迫害はいよいよ厳しくなります。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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常長の不遇は、そのことと無関係ではないはずです。
</div>
</div></div>
<p>常長死後、支倉家を継いだ長男の常頼は、家臣にキリシタンがいたという理由で処刑されています。</p>
<p>次男の常道もその最期がはっきりしません。</p>
<p>行方不明になったとも処刑されたとも伝えられます。</p>
<p>なお、幸いに常頼の子である常信のときに支倉家は再興することができました。</p>
<h2>支倉常長のエピソード・逸話</h2>
<h3>ローマ教皇パウロ5世に謁見する</h3>
<p>常長は1615年11月3日に<span class="marker">ローマ法王パウロ5世に謁見</span>しています。</p>
<p>目的はもちろん、主君・<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>の書状を手渡すことですが、政宗の書状は書記官によりその場で読み上げられました。</p>
<p>書状には日本語とラテン語の2種類があり、読み上げられたのは、ラテン語のほうです。</p>
<p>その内容は、</p>
<ul>
<li>政宗がメキシコとの通商を欲していること</li>
<li>メキシコを領有しているスペインの許可を斡旋してほしいこと</li>
</ul>
<p>などが述べられていました。</p>
<p>これに対する法王の回答は、スペイン国王に依頼することを約束する、というものです。</p>
<p>この謁見が成功であったかどうかというのは判断が難しいところです。</p>
<p>なぜなら常長一行は、ローマに到着する前にスペインで国王フェリペ3世に謁見しており、その後ローマで法王にスペインとの斡旋を頼むというのは、スペインとの交渉がうまくいかなかったことを想像させるからです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
真相はわかりませんが、確かなのは、日本がメキシコとの通商を開くことはなかったということです。
</div>
</div></div>
<h3>ローマ市公民権を授与される</h3>
<p><span class="marker">常長ら一行は、ローマにおいて大変な歓迎を受けました。</span></p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
洗礼をうけてクリスチャンとなったこともその一因だったかもしれません。
</div>
</div></div>
<p>ローマの元老院より公民権を授与されただけではなく、貴族にも列せられています。</p>
<p>遠く極東の日本からやってきた異邦人に対して、きわめて丁重なもてなしというべきでしょう。</p>
<p>現在とは違い、遠洋航海というのはきわめて危険な旅であったことを考えれば、ローマにおける歓待も納得できるというものです。</p>
<h2>3行でわかる支倉常長のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡った</li>
<li>ヨーロッパで洗礼を受けてクリスチャンになる</li>
<li>伊達政宗に自害を命ぜられて亡くなる</li>
</ul>
</div>
<p>戦国時代に遠くヨーロッパまで到達した支倉常長。</p>
<p>めずらしい異国からの来訪者に、ヨーロッパの人々も興味津々だったに違いありません。</p>
<p>まさに冒険とよぶにふさわしいこの使節派遣に使われたサン・ファン・バウティスタ号は現代に再建造され、震災も乗り越え、石巻市にその雄姿をたたえています。</p>
<p>宮城県を訪れる機会があれば、ぜひ石巻市にも足を延ばし、サン・ファン・バウティスタ号と支倉常長に思いをはせてみてはいかがでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>最上義光ってどんな人？鮭と妹が大好き？伊達政宗との関係は？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/yoshiaki/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 09 Aug 2019 06:58:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[戦国時代、現在でも注目される武将たちは日本の中心だった京都の近くにいて、戦を繰り返していました。 反面、あまり注目されていないのが東北地方です。 しかし、東北にも有名武将たちと並べて全く遜色がない英雄がいました。 それが]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>戦国時代、現在でも注目される武将たちは日本の中心だった京都の近くにいて、戦を繰り返していました。</p>
<p>反面、あまり注目されていないのが東北地方です。</p>
<p>しかし、東北にも有名武将たちと並べて全く遜色がない英雄がいました。</p>
<p>それが最上義光（もがみ よしあき）です。</p>
<h2>最上義光のプロフィール</h2>
<p>最上義光は1546年生まれ。</p>
<p>出羽最上＝山形を支配した最上家の祖・最上兼頼から数えて11代目にあたります。</p>
<p>義光が生まれた年に<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshiteru/">足利義輝</a>が室町幕府第十三代将軍になっています。</p>
<p>12歳のとき、父親の最上義守とともに上洛して足利義輝に拝謁。</p>
<p>「義」の一字をいただいて義光という名になりました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>義光18歳のとき、妹の義姫が、領土を接する伊達家の伊達輝宗に嫁ぎます。</p>
<p>この輝宗の嫡男が<a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>。</p>
<p>義光は政宗の伯父にあたります。</p>
<div class="concept-box6">
<p>実は最上氏は、義守の養父・最上義定の代に伊達氏と戦って敗北し、伊達家の配下になっていました。</p>
<p>義守は、義定に嫡男がいなかったため、家督相続に伊達家が介入し、最上の傍流から養子に迎えられたという人物。</p>
<p>伊達家から強い影響を受けていました。</p>
</div>
<p>対して義光は、最上を伊達から独立させようと画策していました。</p>
<p>そのため父・義守との間で対立が生じ、結果義光が家督を相続して義守は出家することで収まりました。</p>
<h3>伊達家の支配下にあった最上家を独立させる</h3>
<p>義光26歳のとき、義守は義理の息子である輝宗と内通して義光を攻めます。</p>
<p>しかし、その攻撃をしのいだ義光は、輝宗と和議を結ぶとともに<span class="marker">伊達から独立を果たしました。</span></p>
<p>とはいえ、伊達家の配下に置かれていた最上氏には力がなく、領土内には複数の勢力が割拠する状況。</p>
<p>独立したのち、義光はまず最上の支配権確立に努めました。</p>
<h3>豊臣政権下での活躍</h3>
<p>義光は、伊達輝宗との和睦から10年を費やして、戦や和睦、あるいは謀殺などで各勢力を攻略し、最上全域を支配下に起きました。</p>
<p>義光42歳のとき、最上氏の親戚筋にあたり、同じように伊達の配下にあった大崎義隆を、すでに伊達家当主となっていた政宗が攻めます。</p>
<p>これは、大崎氏の内紛を利用して、独立を阻止すべく政宗が仕掛けた戦でした。</p>
<p>義光は大崎氏に加勢して政宗の軍を破ります。</p>
<p>そして、妹の義姫を介入させ、両者を和睦させました。</p>
<p>同年、義光は<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>から羽州探題のポストを与えられます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これは、時の覇者より正式に出羽の支配権を認められたということです。
</div>
</div></div>
<p>1590年の秀吉の小田原攻めでは、義光は政宗より遅れて参陣しました。</p>
<p>ただ、意図的に遅参した政宗とは違い、出陣を前に逝去した父親の葬儀を行っていたためで、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>に根回ししていたこともあって、政宗のようなパフォーマンスを行わずに許されています。</p>
<h3>長谷堂城の戦い</h3>
<p>1600年、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>が<span class="marker">会津征伐</span>に出陣。</p>
<p>最上を含む東北諸勢力は家康側につきます。</p>
<p>ところが家康が会津に着く前に<a href="https://rekishigaiden.com/ishidamitsunari/">石田三成</a>が挙兵したため、家康は関ケ原へと転進。</p>
<p>残された諸家は、それを知り撤退。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/datemasamune/">伊達政宗</a>に至っては<a href="https://rekishigaiden.com/uesugikenshin/">上杉謙信</a>と和睦を結びました。</p>
<p>義光も上杉との和睦を模索するものの失敗し孤立。</p>
<p>上杉は直江兼続に2万の兵を与えて最上を攻撃させます。</p>
<p>義光はその半分以下の兵力で善戦するものの、長谷堂城を包囲されてしまいます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
長谷堂城を抜かれると、本拠地山形城に攻め込まれるという状況です。
</div>
</div></div>
<p>しかし、家康が関ヶ原であっさり勝ってしまったため、兼続はその包囲をといて撤退。</p>
<p>義光は九死に一生を得ました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>結果的に東北に上杉を釘付けにすることに成功した義光は、<span class="marker">家康より57万石の所領を安堵され、出羽山形藩の藩祖となります。</span></p>
<p>徳川の支配が安定すると、戦から開放された義光は内政につとめ、山形藩を発展させていきました。</p>
<p>68歳のとき、体調不良をおして駿府城赴き、家康に拝謁した義光は、家康から薬を与えられました。</p>
<p>その薬も功を奏せず、69歳のとき山形城で病没しました。</p>
<h2>最上義光は何をした人？</h2>
<p>最上義光は、没後に知勇あわせもつ武将として讃えられています。</p>
<p><span class="marker">山形の安定化、発展につとめた人物</span>でした。</p>
<h3>硬軟併せ持つ戦上手</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>は戦国大名の中でいち早く鉄砲の有効性に気が付き、鉄砲軍団を作ったことで知られています。</p>
<p>それがいかに正しかったかは、1575年の長篠の戦いで証明されました。</p>
<p>でもそのような先進的な発想を持っていたのは信長だけではありません。</p>
<p>義光もまた鉄砲に目をつけて、わざわざ堺から鉄砲鍛冶を招聘しています。</p>
<p>長篠の戦いの前年、1574年に起きた伊達輝宗との戦いを有利に進められたのも鉄砲隊のおかげだと考えられています。</p>
<p>直江兼続の山形侵攻において、半分以下の兵力でもちこたえたのも鉄砲隊の火力があったからでした。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかし、義光の強さはそうした戦闘力のみではありませんでした。</p>
<p>10年に及ぶ最上平定では、敵の一部を調略により裏切らせ、内紛を起こさせるといった作戦を何度か成功させています。</p>
<p>最上をさしおいて信長に出羽守への推戴を願い出た白鳥長久は、偽情報でおびき寄せて殺しています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
こうしたやり方は変に日本人に嫌われるので、義光を謀略家のように言う人もいます。</p>
<p>しかし、兵力を消耗せずに勝利するのは兵法にもかなったやり方で、優れた戦上手であると言えます。
</p></div>
</div></div>
<h3>内政につとめ領民に慕われる</h3>
<p>山形藩を得た義光は、山形城下の経済発展を行いました。</p>
<p>まず商人や職人に城下の土地を与え、税金を免除して商売を始めやすくしています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
現在でも有名な山形の鋳物は、義光による職人保護により発展しました。
</div>
</div></div>
<p>最上川を整備し水運を活発化。</p>
<p>酒田港への道路を整備するなどして、藩の運輸能力を高めました。</p>
<p>さらには農業用水を確保して農地拡大により生産力を向上させています。</p>
<p>領内では年貢以外の税金をとらない殿様だとして領民から慕われていました。</p>
<p>また、病人、高齢者には扶持米を与えるという福祉政策も行っています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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こういう人は名君と呼ぶにふさわしいと思います。
</div>
</div></div>
<h2>最上義光のエピソード・逸話</h2>
<p>哺乳類は寒冷地だと体温維持のために大型化します。</p>
<p>その影響なのかどうか、最上義光は180cm以上という大男で、大力の豪傑でした。</p>
<p>山形には義光の剛力伝説のようなものがいくつか残っています。</p>
<p>しかし、だからといって傍若無人ということはなく、むしろ気が優しい力持ちだったようです。</p>
<h3>妹大好き兄ちゃん</h3>
<p>義姫は義光の2歳年下の妹です。</p>
<p>義光はラノベ主人公並みに妹のことをかわいがっていたようで、義姫が伊達に嫁いでからも、「兄ちゃんまた義姫ちゃんと会っていろんなことお話したいよー」などという手紙を出しています。</p>
<p>義光の読みが「よしあき」だと判明したのも、妹への手紙にひらがなでそう書いてあったおかげでした。</p>
<p>妹のほうもそんな兄を慕っていた様子で、夫の伊達輝政と兄の争いでは、なんでお兄ちゃんと仲良くできないのと輝政のほうを諌める形で間に入りました。</p>
<p>後に大崎家を巡って義光と政宗が対立したときも、義光は妹の説得を受けて停戦しています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ただ、これは伊達との大規模決戦を避けたい義光が妹に要請したものだとも言われています。
</div>
</div></div>
<h3>鮭大好き</h3>
<p>最上義光は、鮭好きとして知られています。</p>
<p>家臣に「鮭様」と呼ばれるレベルで鮭が好きだったようです。</p>
<p>義光が偉いのは、自分が鮭を食べるだけではなく、布教活動もしていたということ。</p>
<p>大好きな鮭を独り占めせず、家臣に配り、甥にあたる伊達政宗にプレゼントし、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>にも献上しています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
最上川の水運を発展させたのも鮭を入手しやすくするためだという噂があるとかないとか？
</div>
</div></div>
<h2>5行でわかる最上義光のまとめ</h2>
<p>山形の大名最上義光のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>仙台伊達家の支配下にあった最上家を独立させる</li>
<li>山形を統一</li>
<li>いち早く鉄砲軍団を組織し、寡兵をもって大軍に対する</li>
<li>一代にして領土を57万石に拡大</li>
<li>領地の経済、文化を発展させる</li>
</ul>
</div>
<p>領地を統一、発展させ、鉄砲隊を組織、調略も武勇も強い。<br />
これはまるで<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>です。</p>
<p>最上義光がもう少しはやく、そしてもう少し都の近くに生まれていたら、天下統一を成し遂げたのは最上義光だったかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>中川清秀はどんな人？荒木村重の運命を握っていた不運の戦国武将</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 05 Aug 2019 07:23:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
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					<description><![CDATA[歴史上の偉人の多くは、乱世を生き残り自分の存在を歴史に記すことができた人が多くを占めています。 しかし、その時代の中で不運にも命を落としたため、時の政権下で名前を残すことができなかった人物も多く存在しています。 中川清秀]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>歴史上の偉人の多くは、乱世を生き残り自分の存在を歴史に記すことができた人が多くを占めています。</p>
<p>しかし、その時代の中で不運にも命を落としたため、時の政権下で名前を残すことができなかった人物も多く存在しています。</p>
<p>中川清秀はそんな戦国武将の一人ではないでしょうか。</p>
<p>一時、摂津国に12万石の領地を持っていた清秀ですが、どのような生涯を辿ったのか詳しく見てみたいと思います。</p>
<h2>中川清秀のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>名前：中川清秀（なかがわきよひで）</li>
<li>別名：瀬兵衛（せびょうえ）</li>
<li>享年：42歳（1542年～1583年）</li>
<li>摂津国の戦国武将として池田氏や荒木氏に仕える。のちに信長や秀吉に仕えて秀吉の勢力拡大に貢献する。</li>
</ul>
</div>
<h2>中川清秀は何をした人？</h2>
<p>中川清秀は摂津国の戦国武将として<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が勢力を拡大しつつある中、独自の勢力として活躍していましたが、自分が所属する勢力が弱体化する中で信長に降伏する道を選びました。</p>
<p>また、自身が所属していた<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>が信長に反旗を翻したために、再び信長に対抗するなど、敵対する陣営を何度も行き来したりもしました。</p>
<p>最終的に<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>の陣営下に入り秀吉の武将として活躍しますが、秀吉が権力を手中に収める過程の中で戦死してしまいます。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
もし生きていれば豊臣政権下の有力大名として活躍していたのかもしれません。
</div>
</div></div>
<p>では、具体的にどのような活躍をした人物なのか詳しく見てゆきたいと思います。</p>
<h2>中川清秀のエピソード・逸話</h2>
<h3>摂津国（現大阪府北部）の戦国武将として誕生し池田氏に仕える</h3>
<p>中川氏はもともと、清和源氏の一派として<span class="marker">摂津国に勢力を持つ小さな国人領主でした。</span></p>
<p>その後、池田氏に仕えるようになったために、池田氏の属将として活躍し、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>と戦っていました。</p>
<p>池田氏の勢力が弱体化すると、織田信長の陣営に入りともに池田氏の元で一緒に戦っていた<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>の家臣として織田軍の一員として中国地方などで戦う事になりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
小さな領主にとって大きな勢力が近づいてくると、従順な態度を取らなければ攻め滅ぼされてしまうので、中川家にとっては賢明な判断をしたのだと思います。
</div>
</div></div>
<h3>荒木村重の運命を握っていた？</h3>
<p>天正六年、従っていた<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>が突然<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>に反旗を翻しました。</p>
<p>村重の反乱の原因として、中川清秀の家臣が当時織田家に敵対していた石山本願寺に食糧を横流ししていた事が判明したために、処罰を恐れて謀反を起こしたとも言われていますが、他にもいろいろな説があるので真実かどうかわかりません。</p>
<p>また、荒木村重が反乱した際に信長に謝りに行くという事になった時に、「安土城に向かえば殺されるかもしれない」と助言したとも言われ、村重は引き返し謝罪に行かなかったとも伝えられています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
<span class="marker">村重の反乱の原因となり、信長に謝りに行かせない助言をした</span>という事は村重の運命を握っていた人物であったのかもしれません。
</div>
</div></div>
<h3>従兄弟の高山右近と多くの戦場を共にする</h3>
<p>清秀は、キリシタン大名であった<span class="marker">高山右近（たかやまうこん）と常に行動を共にしていました。</span></p>
<p>それは、父親同士が兄弟でありお互いが従兄弟同士という間柄があったという事も関係しています。</p>
<p>若いころはともに、戦国大名の池田氏に仕え、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>の勢力が強まると<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>とともに信長に付き、村重が反旗を翻すと同様に信長に反旗を翻し、その後、高山右近とともに再び信長側に付きます。</p>
<p>信長の弔い合戦である山崎の戦いでも高山右近とともに<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>側の陣営として活躍しました。</p>
<p>その後、柴田勝家軍と対決する賤ヶ岳の戦いも一緒に秀吉側の陣営として戦いますが、中川清秀は不運にも戦死してしまいます。</p>
<p>歴史の転換点となる大きな合戦には高山右近とともに常に清秀の姿がありました。</p>
<h2>幻の賤ヶ岳八本槍</h2>
<p><span class="marker">賤ヶ岳の戦い</span>で羽柴軍に所属して活躍した七人の武将を「賤ヶ岳七本槍」と呼びます。</p>
<p>この中には加藤清正や福島正則といった秀吉にゆかりのある武将などが含まれています。</p>
<p>中川清秀は秀吉側の武将としてこの戦いに参加しましたが、不運にもこの戦いで戦死してしまいます。</p>
<p>大名級で戦死した唯一の武将でした。</p>
<p>江戸時代に作られた『太閤記』の中では「賤ヶ岳七本槍」という活躍した武将が描かれますが、もし中川清秀が生きていたらこの中に含まれて「八本槍」であったとも伝えられています。</p>
<h2>5行でわかる中川清秀のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>摂津国の小勢力として誕生する。</li>
<li>荒木村重の運命を握る！？</li>
<li>村重から離れ再び信長に降伏する。</li>
<li>従兄弟の高山右近と常に行動を共にする。</li>
<li>幻の賤ヶ岳「八本槍」、賤ヶ岳の戦いで戦死する。</li>
</ul>
</div>
<p>中川清秀は摂津国の国人領主として小さな勢力を保っていましたが、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/arakimurashige/">荒木村重</a>らの間で寝返りを繰り返し、自身の所属する勢力を見定めていたのかもしれません。</p>
<p>そんな行動の中には常に従兄弟であったキリシタン大名の高山右近の姿があり、のちの時代の行く末を決める「山崎の戦い」や「賤ヶ岳の戦い」などでもともに行動しました。</p>
<p>摂津国の小さな勢力の戦国武将ではありましたが、信長や秀吉からは大いに認められていたようです。</p>
<p>最終的に<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>の勢力下で奮闘しますが、清秀はその勢力拡大の過程で戦死してしまいました。</p>
<p>秀吉の政権下で子孫は活躍しますが、秀吉から叱責を受けて取潰しの恐れがあった時に、賤ヶ岳の戦いで清秀の死という貢献があったおかげで、取潰しを免れた事もありました。</p>
<p>秀吉政権の樹立に清秀が命を懸けて尽力したという事実が、中川家の子孫を守る事になりました。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>伊達政宗ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/datemasamune/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/datemasamune/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 05 Aug 2019 05:47:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[伊達政宗を知らない人はいないのではないでしょうか。 この記事では戦国時代の人物として抜群の知名度をもつ伊達政宗について、どんな人物なのか、何をした人物なのかをご紹介していきます。 どんな生涯をおくったのか、まずは確認して]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>伊達政宗を知らない人はいないのではないでしょうか。</p>
<p>この記事では戦国時代の人物として抜群の知名度をもつ<span class="marker">伊達政宗について、どんな人物なのか、何をした人物なのか</span>をご紹介していきます。</p>
<p>どんな生涯をおくったのか、まずは確認していきましょう。</p>
<h2>伊達政宗のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1567年8月3日</li>
<li>死没　1636年5月24日</li>
<li>享年　70歳</li>
</ul>
</div>
<p>政宗は1567年、米沢城（山形県米沢市）に生まれました。</p>
<p>伊達家16代当主輝宗を父として、<a href="https://rekishigaiden.com/yoshiaki/">最上義光</a>の妹・義姫を母として誕生しました。</p>
<p>父・輝宗はやがて悲劇的な死を迎え、母・義姫は最上義光とともに政宗にとって厄介な存在となっていきます。</p>
<p>伊達家は、当時すでに、奥州では米沢を中心として現在の宮城県南部にその影響力をもつ大勢力でした。</p>
<p>政宗はその名家をつぐべき長男として生まれたわけですが、幼いころは恥ずかしがりやで、家臣たちにその将来を危ぶまれていたと伝えられています。</p>
<p>母・義姫もなぜか長男の政宗を好かず、次男の小十郎にその愛情を注ぎました。</p>
<p>母からも愛されず、家臣にも疑惑の目を向けられる政宗でしたが、父・輝宗は政宗を深く愛していたようです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
輝宗の政宗への書状には細やかな心遣いが感じられます。
</div>
</div></div>
<h3>右目を失明</h3>
<p>5歳のころ、病気のため右目を失明します。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
右目を失ったことは政宗にとって大きなコンプレックスだったようです。</p>
<p>後年の肖像には右目を描かせた作品も残っているからです。
</p></div>
</div></div>
<p>右目を失ったことは、恥ずかしがりやの少年をさらに内向的にしたのではないかと想像されます。</p>
<h3>家督相続後の活躍</h3>
<p>しかし、18歳で家督を継いだあとの政宗は、まさに別人のような活躍を見せ始めます。</p>
<p>あるいは、もともとの素質が開花したといっていいのかもしれません。</p>
<p>1585年に政宗の良き理解者であった父・輝宗が畠山善継に殺害されると、翌年には畠山氏の居城・二本松城を攻め、救援の蘆名・佐竹らの連合軍と干戈を交えます。</p>
<p>一年余りを費やし、二本松城を手に入れた政宗の次なる目標は会津の蘆名氏、そしてその背後にいる常陸（茨城県）の佐竹義重です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
「鬼義重」との異名をとる佐竹義重は百戦錬磨のつわものです。
</div>
</div></div>
<p>この佐竹氏と事をかまえるためには、伊達家の背後、つまり北方を抑えておくことが肝要です。</p>
<p>現在の宮城県北部と岩手県南部に穏然たる勢力をもっていたのが大崎氏で、政宗が大崎氏の攻略に動きます。</p>
<p>しかし、大崎氏との戦は思うように進まず、さらに<a href="https://rekishigaiden.com/yoshiaki/">最上義光</a>が不穏な動きを見せます。</p>
<p>母・義姫の斡旋で最上・大崎氏とひとまず和睦し、事なきを得ました。</p>
<p>同時期に蘆名氏では当主が幼年で死去し、後継として佐竹義重の息子義広が蘆名氏に入ってあとを継ぎました。</p>
<p>これで会津・蘆名氏は実質、佐竹氏の勢力圏です。</p>
<p>いよいよ伊達家と蘆名家の激突は目前に迫ってきました。</p>
<p>1589年、両者は摺上原で激突します。</p>
<p>伊達の軍勢およそ2万3000にたいして、蘆名軍は1万6000です。</p>
<p>この戦いに勝利した政宗は、福島県の浜通り以外のほぼ全域を勢力圏におさめます。</p>
<h3>戦国時代の終焉</h3>
<p>しかし、政宗の快進撃もここまででした。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>による日本統一はもはや目前だったからです。</p>
<p>戦国時代はひとまず終わりを告げ、秩序形成の時代に入ったのです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
政宗があと10年早く生まれていれば、と言われる所以です。
</div>
</div></div>
<p>その後、秀吉から<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>へと支配者が交代していく中で、政宗は家康との関係を深めていき、仙台藩62万石の大名として、その後の仙台市発展の基礎を築きました。</p>
<p>3代将軍・<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaiemitsu/">徳川家光</a>には「伊達の親父殿」と慕われ、70年の生涯を畳の上で全うすることができました。</p>
<p>政宗も晩年はさすがに大人しくなりましたが、秀吉時代には一揆を扇動して関与を疑われ、徳川家の天下となっても、家臣の<a href="https://rekishigaiden.com/hasekuratsunenaga/">支倉常長</a>をヨーロッパに派遣するなど、野心的な試みをあきらめなかった点が、他の戦国大名とは一線を画すところです。</p>
<h2>伊達政宗は何をしたひと？</h2>
<h3>24歳で奥州を席捲する</h3>
<p>政宗が摺上原の合戦で蘆名・佐竹連合軍を破った後、伊達家の版図は最大となります。</p>
<p>居城の米沢をはじめ、宮城県の中部・南部、福島県の浜通り以外のほぼ全域を手中におさめたのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
まさに大大名といったところで、驚くべきは、当時政宗が24歳の若者にすぎなかったことでしょう。</p>
<p>引き継いだ伊達家の所領があったにしても、たかが24歳の若者が家臣団をまとめあげ、さらに最上義光などの曲者を牽制しつつ、蘆名家を滅ぼすという大事業をやってのけるというのは、やはり只者ではない証拠です。
</p></div>
</div></div>
<h3>派手なパフォーマンスで危地を脱する</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>による全国統一の総仕上げともいうべき北条氏小田原攻めに政宗は遅参します。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
理由はいろいろありますが、本質は政宗自身の迷いにあるのではないでしょうか。</p>
<p>何度となく催促されても、なかなか参陣を決断できなかったのには、自身の成功に裏打ちされた情勢認識の甘さがあったのかもしれません。</p>
<p>いずれにしても、政宗は参陣することを決断しました。
</p></div>
</div></div>
<p>遅参した政宗は、秀吉の謁見もしばらくお預けになってしまいます。</p>
<p>さんざん待たされたあげく、いよいよ謁見というとき、政宗は死に装束といういで立ちで秀吉のもとに向かいます。</p>
<p>秀吉は持っていた杖を政宗の首にあて、「もう少し遅ければ、命はなかったぞ」と政宗に語りかけたそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
秀吉にしてみれば政宗はまだまだ若造にすぎませんが、死に装束で謁見の間にくるというパフォーマンスは秀吉の好みそうな行為です。
</div>
</div></div>
<div class="m50"></div>
<p>この死に装束パフォーマンスを政宗はもう一回使っています。</p>
<p>2回目は大崎・葛西一揆のときです。</p>
<p>北条氏を滅ぼし、日本全国を統一した秀吉は、奥州も再編成します。</p>
<p>伊達家は、領地だった会津や岩瀬、安積などを没収され、会津には名将・蒲生氏郷が移ってきます。</p>
<p>伊達家の北方に勢力をもっていた大崎氏と葛西氏は領地を没収され、かわりに秀吉の家臣である木村吉清が統治することになりました。</p>
<p>政宗は北に木村、南は蒲生氏郷と秀吉譜代の臣に挟み撃ちにされた格好です。</p>
<p>この木村領で大崎・葛西の旧臣を中心にして一揆が発生します。</p>
<p>実はこの一揆が政宗のそそのかしによるものではないか、という報告が氏郷から秀吉に伝えられます。</p>
<p>氏郷は証拠として政宗の花押入りの書状まで入手していました。</p>
<p>またもや政宗のピンチです。</p>
<p>今回も政宗は死に装束のパフォーマンスです。</p>
<p>しかも金箔の磔柱を持参するという念の入れようです。</p>
<p>証拠とされる書状については、知らないとしらを切り、捏造だとの主張を通しました。</p>
<p>秀吉も内心では政宗の関与があったと思っていたでしょうが、いくつかの領地の没収で済ませました。</p>
<p>しかもそのうえ、大崎・葛西の旧領地12郡まで政宗に与えました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
責任をもって大崎・葛西一揆を始末しろということでしょうか。</p>
<p>何だかんだいっても政宗は秀吉のお気に入りだったのでしょう。
</p></div>
</div></div>
<p>政宗は喜び勇んで一揆を鎮圧しています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>ちなみに、今回のような一揆を扇動して領地拡大作戦を政宗は懲りずにもう一回使っています。</p>
<p>関ケ原の合戦のときです。</p>
<p>岩手県と青森県東部を領土とする南部氏の領内で起きた和賀一揆がそれです。</p>
<p>当主の南部信直に不満をもつ分子を扇動し、一揆をおこさせ、どさくさにまぎれて領土をかすめ取ろうというのです。</p>
<p>しかし、今回は政宗の扇動であることが完全にバレてしまい、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>の「百万石のお墨付き」、味方になってくれたら100万石をやるという書状ですが、この約束が反故にされてしまうという落ちがつきました。</p>
<h3>支倉常長をヨーロッパに派遣する</h3>
<p>1613年には家臣の<a href="https://rekishigaiden.com/hasekuratsunenaga/">支倉常長</a>をヨーロッパに派遣しています。</p>
<p>その目的は通商とも、スペインの力を借りての幕府の転覆ともさまざまな説があります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
この遣欧使節の派遣もさしたる結果を生んだわけではありませんでしたが、ヨーロッパまで視野にいれるというのは、政宗のキャラクターにふさわしい雄大さではありますね。
</div>
</div></div>
<h2>伊達政宗のエピソード・逸話</h2>
<p>政宗のエピソードは数多くありますが、複雑な彼のキャラクターを象徴する二つのエピソードを紹介しましょう。</p>
<p>武人としての政宗と文人としての政宗と。</p>
<h3>大坂の陣で敵もろとも味方の軍も皆殺しにする</h3>
<p>これは大坂夏の陣での出来事です。</p>
<p>5月7日の道明寺口の戦いで、伊達軍の前方にいた神保相茂軍36名を銃撃し、皆殺しにしてしまった事件です。</p>
<p>戦後、神保家は伊達家に抗議しましたが、政宗は「伊達の軍法に敵味方の差別はない」と相手にせず、一万石に満たない小大名であった神保家はそのまま泣き寝入りするしかなかったということです。</p>
<h3>和歌、茶道などに通じた教養人</h3>
<p>幼いころから虎哉宗乙のような名僧の教育を受けた政宗は、和歌・書・茶道などさまざまな分野で深い教養を身につけていました。</p>
<p>特に和歌はお気に入りだったようで、多くの歌が残されています。</p>
<p>代表的なものを一首ご紹介しましょう。</p>
<div class="simple-box9">
<p>いつ見ても　はじめてむかふ心かな　たびたびかはる不二のけしきは</p>
</div>
<p>不二は富士であり、また仏教でいう対立のない世界、すなわち「空」であります。</p>
<p>ささやかな文言から、政宗の教養の深さが伺えます。</p>
<h2>3行でわかる伊達政宗のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>24歳の若さで奥州随一の勢力にのし上がる</li>
<li>こそこそした陰謀が好きだが、露見したときの謝罪は派手</li>
<li>戦場では味方でも容赦しない冷徹さ</li>
</ul>
</div>
<p>人気実力ともに戦国屈指の武将である伊達政宗は、実に多彩な側面をもった魅力的な人物です。</p>
<p>政宗に興味を持たれた方は、ぜひ仙台市にも足をお運びください。</p>
<p>瀟洒な東北の都会・仙台市で、政宗を偲ぶのも素敵な経験になると思いますよ。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>荒木村重はどんな人？織田信長に謀反を起こした一族を置いて逃げた武将の生涯に迫る</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/arakimurashige/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/arakimurashige/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 30 Jul 2019 09:22:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
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					<description><![CDATA[戦国時代に大名に仕える武将たちにも様々な性格の人物が存在していました。 信念が強い者、優柔不断な者、臆病な者など様々だったと思います。 この記事で取り上げる荒木村重という武将は表面的には強い武将ではありましたが、内面的に]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>戦国時代に大名に仕える武将たちにも様々な性格の人物が存在していました。</p>
<p>信念が強い者、優柔不断な者、臆病な者など様々だったと思います。</p>
<p>この記事で取り上げる荒木村重という武将は表面的には強い武将ではありましたが、内面的にはとても臆病な一面を持ち、その臆病さが自らの築き上げてきたものを失う結果となりました。</p>
<p>では、村重がどのような事をした人物なのかみてゆきたいと思います。</p>
<h2>荒木村重のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>名前：荒木村重（あらきむらしげ）</li>
<li>別名・官位：十二郎、道糞、道薫、摂津守</li>
<li>享年：52歳（1535～1586）</li>
<li>実力を認められ<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>に仕えるも、謀反を起こしたのち一族を見捨てて逃亡する。</li>
</ul>
</div>
<h2>荒木村重は何をした人？</h2>
<p>荒木村重は<span class="marker">織田信長に仕えて反旗を翻した武将</span>として知られていますが、その村重を有名にしたのは一族や家臣たちを置き去りにして自らが逃亡してしまったために残されたものが処刑されたという悲しいエピソードではないでしょうか。</p>
<p>この悲惨な事件を起こすきっかけとなった村重の心変わりとなった要因は詳しくはわかっていませんが、残されたエピソードから村重の性格が見えてくると思います。</p>
<p>村重の成り上がりや信長・秀吉にかかわるエピソードを交えながら以下で詳しく人物像を見てゆきます。</p>
<h2>荒木村重のエピソード・逸話</h2>
<h3>織田信長に仕え摂津一国を任せられる</h3>
<p>もともとは摂津国（現大阪府北部）の池田氏や三好氏に仕える家臣でしたが、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が近畿地方に勢力を広げる過程でその<span class="marker">性格を気に入られて織田家の家臣となりました。</span></p>
<p>後に、かつて仕えていた池田氏を自らの家臣としたので、荒木村重も下剋上によって成り上がった戦国武将の一人と言えるでしょう。</p>
<p>村重は摂津国の全域を信長から任される事となり、その信頼されていた大きさが伺えます。</p>
<h3>信長の刀に刺さった餅を食べる</h3>
<p>『絵本太閤記』にあるエピソードなので史実かどうかわかりませんが、村重が信長に謁見した時に信長が刀に差した餅を村重に差し出したという話があります。</p>
<p>これに対して村重は従順に差し出された餅を一口で食べて、餅で汚れた刀の切っ先を自らの服の袖でキレイに拭いて返したと言われています。</p>
<p>この行動を信長に賞賛されて摂津の国を荒木村重に任せたという事です。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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エピソードの真偽について史実かどうかわかりませんが、村重の豪快さや人物などが確認できる事象ではないでしょうか。</p>
<p>少なからず村重の人間性が後世へ伝えられた証拠なのかもしれません。
</p></div>
</div></div>
<h3>信長に反旗をひるがえす</h3>
<p>織田氏が中国地方に向けて勢力を拡大する中、1578年に村重は<span class="marker">突如信長に対して反乱を起こしました。</span></p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>は中国地方の最前線で戦っていたので、背後を村重にとられる形となったのです。</p>
<p>これは、村重が秀吉と戦っていた毛利氏と繋がっていたとも、大阪の本願寺勢力と繋がっていたとも、信長に対する積年の恨みであったとも言われています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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後世に様々な説が考察されるという事は、村重自身も実際に様々な勢力と何かしらの繋がりがあったのかもしれません。</p>
<p>それだけ行動力があり、諸勢力とも接点を持つ事のできる人物だったのではないでしょうか。
</p></div>
</div></div>
<h3>説得しに来た黒田官兵衛を幽閉</h3>
<p>摂津国の有岡城に立てこもった村重ですが、そんな村重を説得するために羽柴秀吉から派遣された<span class="marker">軍師の黒田官兵衛を捉えて牢屋に約1年間幽閉</span>します。</p>
<p>有岡城の降伏とともに<a href="https://rekishigaiden.com/kurodakanbe/">黒田官兵衛</a>は解放されましたが、牢屋での生活で足を悪くしたためにこれ以降は杖を使い足を引きずって生活したと言われています。</p>
<h3>自らは脱走し残された一族は皆殺しとなる</h3>
<p>信長に反旗を翻してから約1年が経過すると村重も次第に不利となってきました。</p>
<p>信長からは降伏するならば命は助けようと言われていましたが、<span class="marker">村重は家族や家臣たちを居城に残したまま逃げ出してしまいました。</span></p>
<p>このため、有岡城に残っていた女性たちや一族の家族など100人を超す人々が捉えられて見せしめのために処刑されてしまいました。</p>
<p>この話は様々な歴史書などでも取り上げられており、悲劇の話として語り継がれています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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なお、この時に一族の中には生き残りもいたとされ、江戸時代に浮世絵師として活躍する岩佐又兵衛は荒木村重の子供と言われています。
</div>
</div></div>
<h3>毛利家に出奔し茶人として活躍するも……</h3>
<p>有岡城を抜け出した村重はのちに毛利氏の元へ亡命します。</p>
<p>その後、信長が本能寺で亡くなると安心したのか境に移り住み、<a href="https://rekishigaiden.com/sennorikyu/">千利休</a>と親交を持ち茶人として活躍します。</p>
<p>その後、秀吉の悪口を言った事が広まってしまうと、処刑を恐れて出家して荒木道薫と名乗りました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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異端児でありながらも自分に「死」が及ぶ可能性が生じると保身に走るような部分が各所で垣間見られることからも、村重は臆病な性格であったのかもしれません。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかる荒木村重のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>摂津国池田氏の家臣であったが信長に気に入られて家臣になる。</li>
<li>信長に反旗を翻して謀反を起こし、説得にあたった黒田官兵衛を幽閉する。</li>
<li>居城に一族を残したまま自らが逃亡したため、一族は皆殺しになる。</li>
<li>毛利氏の元に身を寄せ、のちに堺で茶人として活躍する。</li>
</ul>
</div>
<p>荒木村重は小さな戦国武将に仕える一介の武将にすぎませんでしたが、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>に見いだされて取り立てられたおかげで摂津国を治めるという重要なポストを与えられました。</p>
<p>刀に刺さった餅を喰らうというようなエピソードや、元々仕えていた殿様を下剋上ののちに自らの家臣にするというような豪快なイメージがある一方で、信長や秀吉に処刑される可能性が生じると逃げ出して、家族や一族の命をなげうってまで自らの保身に走ってしまうという臆病な一面が垣間見られます。</p>
<p>若い頃や信長に認められた頃は追い風からイケイケな雰囲気があったのかもしれませんが、ある程度の支配権や裁量権が与えられるようになると選択を間違えてしまい、窮地に立たされることが多くあったようです。</p>
<p>その点では上に立つ立場の人物としての器ではなかったのかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>細川ガラシャってどんな人？悲劇のヒロインとして伝えられる明智光秀の娘</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/hosokawagarasha/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/hosokawagarasha/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 30 Jul 2019 02:37:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
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					<description><![CDATA[日本史の中には意外と「悲劇のヒロイン」は少ないです。 それは、日本で女性が大切にされてきたからではなく、近代以前は軽視されていたために、悲劇が起きても記録に残りにくいからです。 そんな中で際立って悲劇的に伝えられている女]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本史の中には意外と「悲劇のヒロイン」は少ないです。</p>
<p>それは、日本で女性が大切にされてきたからではなく、近代以前は軽視されていたために、悲劇が起きても記録に残りにくいからです。</p>
<p>そんな中で際立って悲劇的に伝えられている女性が、細川ガラシャです。</p>
<h2>細川ガラシャのプロフィール</h2>
<p>細川ガラシャは1563年生まれ。</p>
<p>その3年前は桶狭間の戦いで<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が鮮烈デビューを果たし、その2年後には<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshiteru/">足利義輝</a>が暗殺されるという戦国時代真っ只中でした。</p>
<p>ガラシャというのは後にキリスト教徒になったときの洗礼名で、本名は明智玉子（玉、珠とも）。</p>
<p><span class="marker">父親は、本能寺の変を起こしたあの明智光秀です。</span></p>
<a href="https://rekishigaiden.com/akechimitsuhide/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/akechimitsuhide-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="明智光秀" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">明智光秀ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</span><span class="blog-card-excerpt">明智光秀と言えば、歴史もののテレビドラマや映画でもよく登場しています。

「敵は本能寺にあり」、「三日天下」という言葉がすぐに頭に浮...</span></div></div></a>
<h3>15歳で細川忠興に嫁ぐ</h3>
<p>玉子が15歳のおり、父光秀と同じく信長の臣下であった<span class="marker">細川藤孝の息子・細川忠興に嫁ぎます。</span></p>
<p>この結婚はもちろん本人たちの意思は関係なく、信長が家臣間を婚姻関係で結ぶ政策の一環として命じたものでした。</p>
<p>結婚の翌年には長女、その翌年には長男・細川忠隆を生みました。</p>
<h3>本能寺の変で幽閉</h3>
<p>玉子19歳のときに本能寺の変が勃発。</p>
<p>首謀者の<a href="https://rekishigaiden.com/akechimitsuhide/">明智光秀</a>は山崎の戦いで<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">羽柴秀吉</a>に破れ、逃亡した山中で殺害されました。</p>
<p>信長の家臣であった夫の忠興は、謀反人の娘である玉子を京都の山奥に幽閉します。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
ただ、この幽閉時代に次男の細川興秋が生まれているため、幽閉はポーズであったとか、あるいは美人で知られる玉子が、新たな覇者となった秀吉に奪われないために実際には守ったのだというような説もあります。
</div>
</div></div>
<p>2年後に秀吉の命により幽閉が解かれ、細川家の大阪の屋敷にうつされました。</p>
<h3>キリスト教に出会って洗礼を受ける</h3>
<p>玉子23歳のときに、後に熊本藩主となる三男・細川忠利を出生。</p>
<p>その翌年、忠興が九州支配を狙った秀吉に従って九州へ出征。</p>
<p>玉子はその隙にキリスト教会を訪れます。</p>
<p>このときのことは、イエズス会の宣教師、コスメ・デ・トーレスが記録に残しています。</p>
<p>玉子はその翌年<span class="marker">自宅で洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を授けられました。</span></p>
<h3>人質を拒否して自害</h3>
<p>1600年、玉子37歳のとき、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>が会津の上杉景勝を討つため出陣します。</p>
<p>忠興もその軍に従っていました。</p>
<p>その隙をついて<a href="https://rekishigaiden.com/ishidamitsunari/">石田三成</a>が大阪で挙兵。</p>
<p>大阪にいた家康についた武将たちの家族を人質にとりました。</p>
<p>その手はガラシャにも伸びます。</p>
<p>しかしガラシャは人質になることを拒否しました。</p>
<p>ガラシャをとらえるべく三成の兵が屋敷を取り囲むと、ガラシャは自害。</p>
<p>介錯をした小笠原秀清が屋敷ごと爆破し、自らも自害しました。</p>
<h2>細川ガラシャは何をした人？</h2>
<p>細川ガラシャは本来ならただの武家の奥方でしたが、その敬虔な信仰心と、壮絶な死によって歴史に名を残しています。</p>
<h3>深いキリスト教への信仰</h3>
<p>ガラシャはもともとは禅宗を信仰していたようです。</p>
<p>それがキリスト教に興味を持ったのは、夫・忠興からキリシタン大名の高山右近の話を聞かされたからだといいます。</p>
<div class="concept-box6">
<p>高山右近は、後に徳川の世になったとき、キリスト教信仰を捨てることを肯んぜず、国外追放になったほど深くキリスト教を信仰していた人でした。</p>
</div>
<p>幽閉は解かれたとはいえ、ほぼ軟禁状態だった玉子は自由には外出できませんでした。</p>
<p>忠興が留守になったのはちょうど春の彼岸の時期だったため、彼岸の墓参りを口実に屋敷を出て、こっそりとイエズス会の教会を訪れています。</p>
<p>そのとき布教していたのは、フランシスコ・ザビエルとともに日本に来ていたコスメ・デ・トーレスでした。</p>
<p>トーレスはガラシャのことを非常に聡明な女性だと書き残しています。</p>
<p>なかなか外出できないガラシャは、<span class="marker">かわりに侍女を教会に通わせ、洗礼を受けさせて、彼女たちを通じてキリスト教を学んでいきました。</span></p>
<p>しかし、ガラシャがキリスト教と出会った翌年、<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>がバテレン追放令を出し、宣教師たちは長崎に移ることになりました。</p>
<p>その直前、ガラシャは同じく<span class="marker">イエズス会のセスペデス神父により自宅で洗礼を受けています。</span></p>
<p>洗礼のことは秘していたものの、後に忠興にそのことを告白すると、忠興は信仰をやめさせようとします。</p>
<p>しかし、もともと気が強かったというガラシャは受け入れず、忠興が折れた形になり、<span class="marker">屋敷の中に密かに聖堂を作った</span>といいます。</p>
<h3>肥後細川家の礎をつくる</h3>
<p>細川忠興は九州の小倉藩の藩主でした。</p>
<p>江戸時代になり、加藤清正の三男で肥後熊本藩を継いでいた加藤忠広がお取り潰しとなったとき、忠興がその後を受け継ぐことになりましたが、忠興はその座を三男の忠利に譲って引退しています。</p>
<p><span class="marker">忠利はガラシャによって洗礼を受けたクリスチャンだった</span>ようです。</p>
<p>忠利は三男だったものの、長男忠隆は廃嫡され、次男興秋は細川家を出奔した後大阪の陣で豊臣方についたため切腹させられていました。</p>
<p>忠利は肥後細川家の祖となり、その系統は現在まで続くことになります。</p>
<p>元内閣総理大臣の細川護煕氏は肥後細川家の末裔で、いわば細川ガラシャの子孫です。</p>
<h2>細川ガラシャのエピソード・逸話</h2>
<p>細川ガラシャの悲劇的な生涯は現代でも小説やドラマの中で語られています。</p>
<p>ただ、伝えられるところによれば、一方的に運命に流された弱い女性というわけでもなかったようです。</p>
<h3>男勝りの“強い女”</h3>
<p>ガラシャは戦の時は甲冑をつけて戦っても男には負けないわよ！などと豪語するなかなか激しい性格の女性だったようです。</p>
<p>あるとき細川忠興が家臣を手討ちにすると、そばにいたガラシャの着物で血を拭き取るという、いくら戦国時代でもありえないことをしました。</p>
<p>ガラシャはその着物を洗わず、何日も着続けました。</p>
<p>結局忠興のほうが謝って、やっと着替えたそうです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
後に忠興にキリスト教を捨てるように言われても譲らなかったのは、強い信仰心とともに、彼女のこうした強情ともいえる性格のせいだったかもしれません。
</div>
</div></div>
<h3>神聖ローマ帝国でオペラになる</h3>
<p>現在我々が戦国時代のことを知ることができるのは、イエズス会の宣教師が日本での出来事などを記録して報告していたおかげでもあります。</p>
<p>その報告の中で、ガラシャのことも伝えられていました。</p>
<p>ガラシャの死後98年後、ガラシャの物語は『丹後王国の女王グラツィア（ガラシャ）』というオペラにされ、神聖ローマ帝国時代のウィーンのハプスブルク家の宮殿で上演されました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
数多いオペラ作品の中でヒロインになった日本人はおそらく細川ガラシャだけでしょう。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかる細川ガラシャのまとめ</h2>
<p>戦国の世に翻弄され、悲劇的な死を迎えた細川ガラシャのまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>明智光秀の娘</li>
<li>15歳で細川忠興に嫁ぐ</li>
<li>キリスト教に出会って洗礼を受ける</li>
<li>関ヶ原の戦いを前にしたかけひきに巻き込まれ死去</li>
</ul>
</div>
<p>生まれたと思ったら父親が謀反を起こし、キリスト教に出会ったら禁教令が出て、自分は何も悪くないのに人質にされそうになって自ら命を絶つ。</p>
<p>運命と呼ぶにはあまりにもひどく、彼女の生涯に幸せはあったのだろうかと思ってしまいます。</p>
<p>せめてオペラの中で敬虔な殉教者と描かれることが鎮魂になればいいなと思います。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>南光坊天海の逸話まとめ！明智光秀と同一人物説や徳川家康との関係など</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/tenkai/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 25 Jul 2019 02:32:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
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					<description><![CDATA[仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代。 それ以降、仏僧は時に政治の中枢にかかわり、戦国時代になると太原雪斎、安国寺恵瓊、金地院崇伝など大名の軍師、宰相ともなる「政僧」が増えました。 そうした政僧の中で、最も高位といえる徳川家]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代。</p>
<p>それ以降、仏僧は時に政治の中枢にかかわり、戦国時代になると太原雪斎、<a href="https://rekishigaiden.com/ankokujiekei/">安国寺恵瓊</a>、金地院崇伝など大名の軍師、宰相ともなる「政僧」が増えました。</p>
<p>そうした政僧の中で、最も高位といえる<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>のブレーンにまで上り詰めたのが、南光坊天海（なんこうぼうてんかい）です。</p>
<h2>南光坊天海のプロフィール</h2>
<p>天海が<span class="marker">いつ生まれたのかはまったく不明</span>です。</p>
<p>その生年には、1510年生まれから1554年生まれまで12もの説があるといいます。</p>
<p>これは要するに記録に残される身分の出身ではなかったということです。</p>
<p>その後、<a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>や蘆名盛氏に招かれたというような話も伝わっているものの、史実かどうかは未確定です。</p>
<p>1590年に<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>が小田原城を攻めたときには、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>の陣にいたと伝えられています。</p>
<p>いつどこで家康と知り合ったのはまったくの不明。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
かなり謎の人物です。
</div>
</div></div>
<p>1599年、関ヶ原の戦いの前年に、川越市にある天台宗の寺院・無量寿寺（現在の喜多院）の住職となります。</p>
<p>1607年には比叡山延暦寺の再興をしました。</p>
<p>このとき住んだのが南光坊だったので、後に南光坊天海と呼ばれるようになりました。</p>
<p>1613年には日光山輪王寺の再興などを行っています。</p>
<p>家康没後、家康の神号「東照大権現」を定め、また<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawahidetada/">徳川秀忠</a>、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaiemitsu/">徳川家光</a>にも仕えました。</p>
<p>1643年に逝去。</p>
<p>一説には享年は108歳の大往生だったといいます。</p>
<h2>南光坊天海は何をした人？</h2>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>のブレーンとして活躍した天海。</p>
<p>日本の歴史にかかわる重要な出来事にも関わっていたと伝えられています。</p>
<h3>江戸の霊的守護を設計</h3>
<p>天海は江戸城を中心として鬼門にあたる北東に上野寛永寺、裏鬼門にあたる南西に増上寺を置き、鬼門封じにしたといいます。</p>
<p>また同様に、神田明神の対角線に、太田道灌が川越から招来した日枝神社を移し、こちらも鬼門封じだと言われています。</p>
<p>鬼門というのはその名の通り霊界の出入り口。</p>
<p>それを神社と寺で封じることで、霊的守護を行ったようです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
現代ではただのオカルトと考えてしまうことでも、当時は真剣に考えられるべきことでした。
</div>
</div></div>
<p>さらに、家康死後は江戸城の真北の日光に東照宮を建て、ここに家康の御霊＝東照大権現を祀って江戸の守護としました。</p>
<p>東京には現在でも目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の「五色不動」があります。</p>
<p>これも陰陽道の五芒星を利用して天海が江戸鎮護に用いたとも言われていますが、五色不動については実際には天海は関係していないようです。</p>
<h3>3つの寺院を再興</h3>
<p>天海が行った事績でもっと重視されるべきだと思われるのが、その時代廃れていた<span class="marker">比叡山延暦寺、星野山無量寿寺、日光山輪王寺の再興</span>です。</p>
<p>まず延暦寺は、1570年に<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>が焼き討ちをしたために荒廃したと伝えられてきました。</p>
<p>しかし、現在の調査では大規模火災の痕跡は見当たらず、実際には焼き討ちはなく、それより以前から没落していたと考えられるようになっています。</p>
<p>川越の無量寿寺は、北条早雲の息子の北条氏綱と、川越を支配していた扇谷上杉氏との抗争で焼失していました。</p>
<p>輪王寺は、戦国時代に宇都宮氏の家臣の壬生氏に支配されており、その壬生氏が小田原攻めの折北条についたことに連座し、秀吉に寺領を没収されていたせいでやはり没落していました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これらの寺院を再興したことは、日本の宗教史、文化史上大きな功績だと言っていいでしょう。
</div>
</div></div>
<h3>家康の神号を定める</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>は、その臨終を前に天海、同じく家康に仕えた政僧・金地院崇伝、そして本多正純に、自分の死後は神として武家が崇拝するようにせよという遺言を遺しました。</p>
<p>ここで、神とされる家康の神号、つまり神様ネームについて天海と崇伝・正純側が対立します。</p>
<p>天海が推したのは「権現」号。</p>
<p>神仏習合の時代、日本の神様は仏教の仏菩薩がアバターとして顕現したものだという設定が作られています。</p>
<p>「権現」は「仏の仮の姿」という意味です。</p>
<p>一方崇伝側が推したのは「明神」号。</p>
<p>明神も同じように仏菩薩が神として姿を明らかにしたと言う意味です。</p>
<p>ここで天海は、家康の跡継ぎの秀忠に「秀吉は死後“豊国大明神”にされたのに、豊臣家は滅びました。明神号だと縁起悪くないですか？」と言いました。</p>
<p>「それはそうだね」と思った秀忠は権現号を採用。</p>
<p>家康は東照大権現という神様ネームとなりました。</p>
<h2>南光坊天海のエピソード・逸話</h2>
<p>天海は謎に包まれた人物で、特に家康の幕下に突然現れるまではどこでなにをしていたのか不明です。</p>
<p>そこで、ある説が生まれました。</p>
<h3>明智光秀が天海だった？</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>を討ったものの、まったく味方を得られず即滅びた<a href="https://rekishigaiden.com/akechimitsuhide/">明智光秀</a>。</p>
<p>しかし光秀は実は生き残って天海となり、<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyasu/">徳川家康</a>に味方して豊臣への復讐を果たしたんだよ！</p>
<p>などという俗説があります。</p>
<p>その証拠として、</p>
<ul>
<li>天海がその建設に深く関わった日光東照宮のいたるところに、明智家の家紋・桔梗紋が散りばめられている</li>
<li>いろは坂の途中にあり、現在展望台となっている「明智平」は天海が名付けた</li>
</ul>
<p>などいろいろあげられています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
なるほどあの明智光秀が、家康を裏から操り怨敵豊臣を滅ぼしたというのはなかなかロマンがある話です。
</div>
</div></div>
<p>でも、実際は明智平を天海が名付けたという証拠はなく、東照宮にある桔梗紋と言われているものは、実際には花びらがとがった桔梗紋ではなく、花びらの先端が三つに分かれた唐花紋であることもわかっており、その他の証拠としてあげられるているものもこじつけの域を出ません。</p>
<p>小説のネタとしてはおもしろいけれど、本気にしないほうがよさそうです。</p>
<p>明智光秀についてはこちらに詳しくまとめていますので、良ければご覧ください。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/akechimitsuhide/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/akechimitsuhide-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="明智光秀" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">明智光秀ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</span><span class="blog-card-excerpt">明智光秀と言えば、歴史もののテレビドラマや映画でもよく登場しています。

「敵は本能寺にあり」、「三日天下」という言葉がすぐに頭に浮...</span></div></div></a>
<h3>川中島の戦いを見学した？</h3>
<p>天海が1554年に行われた第4次川中島の戦いを山の上から見物していたという話が伝わっています。</p>
<p>天海の出生を1510年にするのであればありえないことではありません。</p>
<p>また、天海が信玄に招かれていたことがあるとも言われています。</p>
<p>天海は<a href="https://rekishigaiden.com/uesugikenshin/">上杉謙信</a>が<a href="https://rekishigaiden.com/takedashingen/">武田信玄</a>に斬りつけたシーンを見たといいます。</p>
<p>後に直接信玄にそのことを言うと、あの信玄は影武者だったと教えてくれたとか。</p>
<p>ただこれは1670年に編纂された歴史書『本朝通鑑』の資料として上杉家から提出された報告書に記されていたエピソードだというので、本当のことかどうかは不明です。</p>
<h2>5行でわかる南光坊天海のまとめ</h2>
<p>徳川幕府の黎明期に大きな影響を与え「黒衣の宰相」とも言われた南光坊天海のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>出自不明の謎の僧侶</li>
<li>いつのまにか家康の下に</li>
<li>現代に残る重要な寺院3箇所を復興</li>
<li>家康死後の神号を定める</li>
<li>江戸の霊的守護を考案</li>
</ul>
</div>
<p>仏教から見れば政治に関わること自体ナマグサであるとは言っても、その事績を追うと意外と普通の人だった天海。</p>
<p>普通でないのは、江戸時代にあって現代でも珍しい100歳を超える長寿だったことだけかもしれません。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>宇喜多直家はどんな人？暗殺によって下克上を成し遂げた戦国大名の家臣</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/ukitanaoie/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 24 Jul 2019 09:58:33 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[安土桃山時代]]></category>
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					<description><![CDATA[戦国時代は弱肉強食の時代であり、親兄弟が勢力争いに巻き込まれて命を落とすという事はよくある話でありました。 そんな家族や家を奪われて苦汁を味わった後に、仕返しをしたいというのは武士としての悲願ではないでしょうか。 宇喜多]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>戦国時代は弱肉強食の時代であり、親兄弟が勢力争いに巻き込まれて命を落とすという事はよくある話でありました。</p>
<p>そんな家族や家を奪われて苦汁を味わった後に、仕返しをしたいというのは武士としての悲願ではないでしょうか。</p>
<p>宇喜多直家という人物は戦国時代に自らの家を滅ぼされた経験を持ち、数十年の後にその仇である人を討ち取り悲願を達成する事ができた数少ない人物の1人です。</p>
<p>その後、大きな勢力が自国の周囲に形成されつつある中、下克上によって宇喜多家という大名家を作り小さいながらも独立した支配権を勝ち取りました。</p>
<p>家を滅ぼされて、ゼロから戦国大名になるには並々ならぬ努力や行動が必要になってきます。</p>
<p>直家がどのような手段で戦国大名になり得たのか詳しく見てゆきましょう。</p>
<h2>宇喜田多家のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>本名：宇喜多直家（うきたなおいえ）</li>
<li>通称：三郎右衛門尉、和泉守</li>
<li>享年：52歳（1529～1582年）</li>
<li>暗殺を多用し勢力を拡大させた戦国大名。今の岡山県に相当する地域に勢力を持つ。</li>
</ul>
</div>
<h2>宇喜多直家は何をした人？</h2>
<p>宇喜多直家は備前国の戦国大名である浦上氏に仕える一介の家臣でした。</p>
<p>しかし、その家臣同市の仲違いから、直家の祖父である能家（よしいえ）は同じ浦上家に仕える家臣であった島村盛実（しまむらもりざね）に居城を攻められて自害に追い込まれてしまいました。</p>
<p>この時にわずか6歳であった直家は父に連れられて浪人となってしまいます。</p>
<p>成人した後に浦上氏に仕えると<span class="marker">祖父を自刃に追い込み自らの家を滅ぼした島村氏を暗殺</span>したのを皮切りに敵対する人物を「暗殺」によって排除し、浦上家中でもトップに立ちます。</p>
<p>その後、主人の浦上氏を追放し戦国大名になり現在の岡山県を中心とした地域を支配下に治めました。</p>
<p>では、具体的にどのような事をしたのか、以下でエピソードを見てゆきたいと思います。</p>
<h2>宇喜多直家のエピソード・逸話</h2>
<h3>祖父能家の敵討ちをする</h3>
<p>直家は幼少の頃に同じ浦上氏に仕える家臣であった島村盛実によって祖父能家を自害に追い込まれ、居城も奪われて父親とともに流浪の身を経験しました。</p>
<p>この苦汁を味わった事が直家の中に強く刻まれていたことでしょう。</p>
<p>成人した後に再び浦上氏に仕えるようになると、<span class="marker">祖父の仇であった島村盛実に裏切りの疑いをかけて殺害する事に成功</span>しました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
戦国時代に家族の仇を討つ事ができたというエピソードは少なく非常に珍しい事例です。
</div>
</div></div>
<h3>「暗殺」を多用し浦上家中でトップに登りつめる</h3>
<p>直家が使った手段でよくみられるのが相手を油断させておいて暗殺するという方法でした。</p>
<p>自分の舅である中山氏を殺害し<span class="marker">浦上家中のライバル家臣を次々と排斥してトップに登りつめる</span>事になりました。</p>
<p>近年まで浦上氏の家臣であった撮所（さいしょ）氏も直家によって暗殺されたと言われていましたが、別の人物によって暗殺された事が分かりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
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直家の周囲で人物が殺害されると直家によって暗殺されたと思われるのも、「暗殺の名手」として知られていたためなのかもしれません。
</div>
</div></div>
<h3>敵の大名も暗殺して勢力を弱体化させる</h3>
<p>直家が暗殺を行ったのはライバル家臣だけでなく、敵対する大名もそのターゲットになりました。</p>
<p>当時、浦上氏の近辺では備中国（岡山県西部）に勢力を持っていた<a href="https://rekishigaiden.com/mimuraiechika/">三村家親（みむらいえちか）</a>という大名がいました。</p>
<p>三村氏が浦上氏を攻めるために重臣を集めて会議をしていた時、鉄砲を持った刺客を配置し、火縄銃によって銃撃して殺害しました。</p>
<p>この三村家親の死によって三村氏は弱体化する原因にもなりました。</p>
<p>また、暗殺の手段として鉄砲が使用されたのは、<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>の暗殺未遂事件もありますが、とても珍しいケースでした。</p>
<h3>主人に対して2回も下克上を企てる</h3>
<p>直家は浦上家の中でトップに登りつめ、隣国の三村家親おも殺害する事に成功すると、徐々に野望が芽生えてきたのか主人である浦上氏に最初の反乱を起こしました。</p>
<p>しかし、まだ協力する勢力が少なく最初の反乱は失敗に終わります。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
驚くべき事はこの時に主人である浦上氏より許されているという事です。</p>
<p>それだけ能力を持っていた直家の存在が必要とされていた表れなのかもしれません。
</p></div>
</div></div>
<p>しかしその5年後に直家は毛利氏などと協力すると再び<span class="marker">反乱を起こし浦上氏を国外に追放し、戦国大名宇喜多氏を誕生させました。　</span></p>
<h3>巨大勢力の合間で上手く世渡りをする</h3>
<p>宇喜多直家が戦国大名として誕生した1575年頃は戦国時代の終盤に差し掛かった頃で、周囲には中部地方から関西地方にかけて大きな勢力となっていた<a href="https://rekishigaiden.com/odanobunaga/">織田信長</a>や、中国地方に大きな支配を広げていた毛利元就などがいました。</p>
<p>宇喜多家が戦国大名として生き残るためにはこの巨大勢力とどのように付き合っていくのかという課題がありました。</p>
<p>宇喜多氏はまず、共通の敵であった三村氏を滅ぼした後に西側の毛利氏に属します。</p>
<p>その後、東側より織田氏の勢力が強まると織田方に属し毛利氏に対抗しました。</p>
<p>織田信長の死後は<a href="https://rekishigaiden.com/toyotomihideyoshi/">豊臣秀吉</a>に従い、直家の息子の宇喜多秀家は信頼されて五大老という職に就きました。</p>
<h2>4行でわかる宇喜多直家のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>幼少の頃に祖父を殺され苦汁を舐めるが成人した後に敵討ちを遂げる。</li>
<li>使える浦上家の内部でライバル勢力を排除しトップに登りつめる。</li>
<li>直家本人に野望が芽生え、下克上により仕えていた浦上氏を追放し戦国大名となる。</li>
<li>巨大勢力に挟まれるも上手く世渡りを行い息子は豊臣政権の重要ポストに就任する。</li>
</ul>
</div>
<p>宇喜多直家は「暗殺」という手段を多用したため、戦国時代に美濃国の<a href="https://rekishigaiden.com/saitodozan/">斎藤道三</a>や安芸国の毛利元就のように謀略を用いた戦国武将として知られています。</p>
<p>幼少の頃に祖父の能家を殺されて居城を奪われ流浪の身を味わったという思いから、どんな事をしても必ず敵を討ちたいという強い意識が芽生えたのかもしれません。</p>
<p>その結果、自身の仕える浦上家の内部でも卑怯な手段かもしれませんが「暗殺」という手法を用いるなどした結果、敵対勢力を排除し自分の意のままに動く勢力の強化に当たったのではないでしょうか。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
幼少の頃に味わったハングリー精神が直家の強さを作り上げていたのかもしれません。
</div>
</div></div>
<p>ただ、「暗殺」だけでは世の中は生きてゆけません。</p>
<p>もちろん他に認められる部分があってこそ、ある一定規模の範囲内で戦国武将と成り得る事ができたのだと思います。</p>
<p>直家は敵に謀略を用いる武将として恐れられる一方で、自らの家臣はとても大切にしたようで、古くからの家臣は終生直家を支え続けたと言われています。</p>
<p>しかし、息子の秀家は羽柴秀吉から「秀」の文字をもらい豊臣政権でとても重用されましたが関ヶ原の戦いで西軍に属したため取り潰しとなり八丈島に島流しとなりました。</p>
<p>宇喜多氏の子孫はその後百姓となり、現在でも八丈島には浮田（うきた）と名乗る子孫が多く住んでいます。</p>
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