井上馨は、伊藤博文や山縣有朋と並び「長州三尊」と呼ばれた人です。
では井上馨はどのような人だったのでしょうか。
ここでは、その井上馨についてその生涯を見ていきましょう。
目次
井上馨のプロフィール
生誕 | 1836年1月16日 |
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生誕地 |
周防国吉敷郡湯田村 (現在の山口県湯田温泉) |
名前 |
井上馨(いのうえ かおる) 幼名:勇吉 通称:聞多(ぶんた/もんた) 諱:惟精(これきよ) |
死没 | 1915年9月1日(79歳没) |
井上馨は何をした人?
生い立ちから江戸へ
井上馨は長州藩士の父井上光亨と房子の次男として生まれました。
井上家は清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏の家臣の出自で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在(なりあり)でした。
馨は兄とともに1851年に藩校である明倫館に入学します。
1855年長州藩士志道氏(しじし)の養子となり一時期は、志道聞多(しじ もんた)とも名乗っていました。
この年毛利敬親の江戸参勤交代に従い江戸へ行った馨は、伊藤博文と出会い蘭学を学びました。
伊藤博文は百姓の出身でしたが松下村塾で学び長崎にも遊学したことのある秀才でした。
1860年に起きた桜田門外の変で警護を固めるため一旦長州に戻りましたが、1862年には敬親の養子毛利定広の小姓役として再び江戸へ出ています。
長州藩士時代
江戸にいた間に馨は尊皇攘夷運動に共鳴するようになりました。
そして御楯組(みたてぐみ)の一員として高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文らとイギリス公使館焼き討ちに参加しています。
翌年馨は、伊藤博文・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに長州五傑の一人としてイギリスへ密航しました。
そこで国力の違いを見せつけられた馨は開国論に転じ1864年の下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉をするのでした。
長州藩だけで勝てるはずがありませんね。
第一次長州征伐では武備恭順を主張したため椋梨藤太(むくなしとうた)の俗論党に襲われ馨は瀕死の重傷を負うことになりました。
体が回復しても俗論党に謹慎処分にされていた馨は、高杉晋作らと長府功山寺で決起し、再び開国攘夷に統一することができました。
その後1865年下関を外国に向けて開港しようとしていたことが攘夷浪士に知られ、身の危険を感じた馨は別府に逃れ、別府温泉でしばらく身を隠しながら療養しました。
1866年坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれ、第二次長州征伐では幕府軍に勝利しました。
そして1867年王政復古となるのでした。
新政府での活躍
王政復古後の馨は長崎に赴任し、長崎製鉄所御用掛となり、銃の制作事業や鉄橋事業に従事します。
1870年に亡くなった兄の次男を養子にし、大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚しています。
馨は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、大久保利通や木戸が岩倉使節団で外遊している間の留守政府を預かり、「今清盛」と呼ばれるほどの権力を持ちました。
しかし1873年予算問題や尾去沢鉱山汚職事件を追及され辞職することになりました。
政界から一旦身を引いた馨は、三井組を背景に先収会社(現在の三井物産)を設立し、実業家となっていましたが、伊藤の強い要請がありまた政界へと戻るのでした。
1876年黒田清隆と朝鮮の交渉にあたり、日朝修好条規を結びました。
また妻子らとアメリカへ渡りイギリスやドイツ、フランスなどを外遊していましたが、その途中で木戸の死や、西南戦争の勃発、大久保の暗殺などが起こり日本が政情不安な状態にあることを知り、1878年急ぎ帰国しました。
大久保暗殺後に政権を握っていた伊藤のもとで、外務卿へ就任し、1881年大隈重信と伊藤が対立した時は大隈を政界から追放しました。
その後も朝鮮との外交に対処し、三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して、三井など諸企業を集結させ共同運輸会社を設立しましたが、のちに両者を合併させ日本郵船を誕生させました。
1883年には鹿鳴館を建設し、諸外国との不平等条約改正交渉にあたっています。
また華族令で伯爵の地位ももらいました。
1885年伊藤が内閣総理大臣になると馨は外務大臣になります。
1888年伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任し、次の黒田内閣になると馨は農商務大臣になりましたが、外務大臣についた大隈の条約改正案に不満を抱き、馨は病気を理由に閣議を欠席して、辞任しました。
1892年に伊藤が再度内閣を組織すると、馨は内務大臣に就任します。
しかし1894年に日清戦争が勃発し、陸奥宗光とともに伊藤を支え翌年の終戦まで公使を勤め上げました。
1898年の第3次伊藤内閣では大蔵大臣を務め、1900年の第4次伊藤内閣でも大蔵大臣が検討されましたが、渡辺国武が大蔵大臣を望んだため馨の就任にはなりませんでした。
大命降下から最期まで
1901年第4次伊藤内閣の崩壊後大命降下を受けて組閣作業に入った馨でしたが、大蔵大臣に渋沢栄一を押したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと考え大命を辞することを決めました。
1908年三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席した馨は、尿毒症にかかり重篤に陥りましたがなんとか回復しました。
1911年位新資料編纂会総裁に任命されましたが、1913年脳溢血に倒れ左手に麻痺が残り外出は車椅子での生活となりました。
そして1915年長者荘で体調が悪化し、9月にこの世をさりました。
79歳でした。
井上馨のエピソード・逸話
母の力
1864年椋梨藤太率いる俗論党に襲われたとき、馨は瀕死の重傷だったため兄の光遠にとどめを刺してほしいと介錯を頼みました。
しかし母の房子が血だらけの馨を抱きしめ、兄に介錯を思いとどめさせました。
この時の母の愛で馨は50針も縫うほどの傷から生還したのでした。
この事実を「母の力」と題して第5期国定国語教科書に載ったのでした。
料理好き
馨は意外にも自分で料理をして、客人をもてなすことが大好きでした。
必要な材料はどんなに遠くからでももってこさせ、必ず手に入れないと気が済まない人でした。
しかしその味は恐れられるほどのもので、尋常の味覚では味わえないものだったそうです。
雷親父
井上馨は短気な人で、すぐに人を怒鳴りつけることで「雷親父」と呼ばれていました。
しかし渋沢栄一には一目置いており、彼がそばにいる時は語気を荒げることはなかったそうです。
渋沢の周りにいれば雷が落ちないということで、渋沢は「避雷針」とあだ名をつけられました。
ただ渋沢は本当の「避雷針」は馨であったと言います。
どんな攻撃も馨が体を張って受け止めてくれたからこそ自分はやりたいように仕事ができたのだと語っています。
3行でわかる井上馨のまとめ
- 伊藤博文の組閣に協力した
- 長州三尊の一人だった
- 先祖は毛利元就に仕えていた家柄だった
病気の身体をおしても最後まで政治家であり続けた井上馨の生涯を見てきました。
伊藤博文と協力し、何度も閣僚を経験した井上馨でしたね。
どちらかというと、政治の表舞台にたった人ではないかもしれませんが、その分他の人を前へ押し出す役目をした人でした。
短気なくせに、料理好きな一面も意外でしたね。
一度その料理を食べてみたいと思うのは、無謀と言えることでしょうか。