崇徳天皇(すとくてんのう)といえば、保元の乱を起こしたことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。
保元の乱に敗れて怨霊となり、天皇家を呪ったとされていますが、実際はどうだったのでしょう。
この記事では崇徳天皇についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
崇徳天皇のプロフィール
- 崇徳天皇(すとくてんのう)
- 諱:顕仁(あきひと)
- 父:鳥羽天皇(第74代天皇)
- 母:藤原璋子(藤原公実の娘)
- 享年46(1119年5月28日~1164年8月26日)
- 第75代天皇(在位:1123年1月28日~1141年12月7日)
崇徳天皇は何した人?
実権がない天皇として即位し、院政に苦しまされて、最後の意地で挙兵した非運の天皇とされる崇徳天皇の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
崇徳天皇の生い立ち
崇徳天皇は鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院)の第1皇子として生まれ、顕仁と命名されました。
顕仁親王が生まれた平安時代後期には院政(上皇が天皇に代わって政務を直接行う政治形態)が行われており、政治の実権は父の鳥羽天皇ではなく曾祖父の白河法皇が握っていました。
1123年、顕仁親王が5歳になると、白河法皇は鳥羽天皇に譲位を迫り、顕仁親王を即位させます。
崇徳天皇が即位したとき、鳥羽上皇は20歳で、政務を執れる年齢になっていたことから、本来なら鳥羽上皇が院政を行うことが順当でしたが、政治の実権は白河法皇が握ったままで、鳥羽上皇は政治に関わることができませんでした。
白河法皇からこのような屈辱を受けた鳥羽上皇は、あることでも白河法皇に疑念を抱いていたとされています。
その疑念とは、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通してできた子ではないかというもので、幼いころから白河法皇に寵愛され、白河法皇の養女として鳥羽上皇に入内した璋子には、白河法皇と男女の関係があったという悪い噂がありました。
そのため、崇徳天皇の本当の父親は白河法皇ではないかと疑っていた鳥羽上皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼び、毛嫌いしていたといわれています。
1129年、白河法皇が亡くなり、院政を開始した鳥羽上皇は、事実上の君主である治天の君(ちてんのきみ)として朝廷内を統率するようになり、白河法皇という強大な後ろ盾を失った崇徳天皇は孤立していきました。
そして、璋子に代わって藤原得子(美福門院)を寵愛するようになった鳥羽上皇は、得子との間に生まれた躰仁(なりひと)親王を即位させるため、崇徳天皇に譲位を迫ります。
躰仁親王を即位させるために、鳥羽上皇は躰仁親王を崇徳天皇の中宮・藤原聖子(皇嘉門院)の養子としていたので、躰仁親王は崇徳天皇とも養子関係にあると考えられていました。
そのため、崇徳天皇は譲位しても院政を行えると考えていましたが、譲位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されており、即位した近衛天皇の父ではなく兄とされた崇徳天皇は院政をすることができなくなってしまったのです。
復権を望む崇徳上皇
このように、鳥羽上皇に騙された形で天皇の座を追われた崇徳上皇は、鳥羽田中殿に移ったことで新院と呼ばれ、和歌の世界に夢中になるようになりました。
不遇の日々を過ごしていた崇徳上皇でしたが、1155年に近衛天皇が亡くなるという好機が到来します。
崇徳上皇を嫌いながらも表向きは大らかな態度で接していた鳥羽法皇は、崇徳上皇の第1皇子である重仁親王を美福門院の養子としていたため、重仁親王が次の天皇として最有力候補となり、院政による復権の可能性が見えてきたのです。
しかし、崇徳上皇の報復を恐れた美福門院は、もう一人の養子である守仁親王の即位を望み、幼い守仁親王が成長するまでの中継ぎとして、父である雅仁親王が即位することになり、崇徳上皇の院政への望みは握りつぶされてしまいました。
鳥羽上皇と保元の乱
1156年、崇徳上皇は病に倒れた鳥羽法皇の見舞いに訪れましたが面会を断られます。
さらに、鳥羽法皇は「私の遺体を崇徳上皇に見せないように」と側近に命じていたともいわれており、激怒した崇徳上皇は鳥羽田中殿へ帰りました。
その直後に鳥羽法皇が亡くなると、さらなる悲劇が崇徳上皇を襲います。
美福門院や藤原忠通などの後白河天皇方が「鳥羽上皇が藤原頼長と手を組んで軍を率い、国家を転覆させようとしている」という噂を流して先制攻撃をしかけてきた結果、保元の乱が起こりました。
崇徳上皇の下には源為義や平忠正などの武士が集まりましたが、後白河天皇方に夜襲をかけられたことで大敗し、崇徳上皇は剃髪して投降しましたが、讃岐国へ流罪となります。
讃岐国での生活
天皇または上皇が流罪となったのは400年ぶりのことで、讃岐国に流された崇徳上皇に同行することが許されたのは、寵愛していた兵衛佐局と少数の女房だけでした。
讃岐国での崇徳天皇は仏教を心の拠りどころとして、写経に明け暮れる日々をおくり、国府役人の娘との間に1男1女を儲けましたが、京に帰ることは許されず、流罪となってから8年後の1164年、46歳で悲運の生涯を終えました。
崇徳天皇のエピソード・逸話
怨霊となった崇徳天皇
保元の乱の経緯が描かれている『保元物語』によると、崇徳上皇は犠牲者の供養と自らの反省を示すために五部大乗経の写経を行い、出来上がった写本を朝廷に送り届けて、寺に収めて欲しいと頼みましたが、「経典に呪詛がかけられているのでは」と疑った後白河天皇は崇徳上皇の願いを拒絶しました。
真心を込めて完成させた写本を送り返されたことに激怒した崇徳上皇は舌を噛み切り、その血を使って「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と天皇家を呪うことを書き記します。
魔縁とは人を魔道に導く天狗のことで、爪や髪を伸ばし続けて夜叉のようになった崇徳上皇は、やがて天狗になったとされている他、亡くなった崇徳上皇を納めた棺は、蓋を閉めても血が溢れ続けていたといわれています。
崇徳上皇が亡くなった後、後白河上皇は喪に服すこともせず、崇徳上皇を罪人として扱い続けていましたが、後白河天皇の周りで異変が続出するようになりました。
後白河天皇の第1皇子である二条天皇や、後白河法皇が寵愛していた平滋子(建春門院)が急死した他、安元の大火によって朝廷と関係のある建物を含めた平安京の三分の一が消失してしまいました。
そして、これらの災いが発生したのは崇徳上皇の怨霊による仕業だと恐れられるようになります。
近親者を相次いで亡くして精神的に参っていた後白河法皇は崇徳上皇を罪人として扱うことをやめ、保元の乱の古戦場に「崇徳院廟」を設けて、崇徳上皇の霊を慰めました。
歌人としての崇徳天皇
政治から遠ざけられ、不遇の日々を過ごしていた崇徳上皇は、和歌の世界に夢中になり、多くの歌を残しています。
『小倉百人一首』の77番の和歌
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
は特に有名で、「現世では結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれるでしょう」という意味のこの歌は、古典落語の題材にもされており、町人の恋愛模様を描写した「崇徳院」という滑稽話が作られました。
崇徳天皇のまとめ
- 5歳で天皇に即位する
- 鳥羽上皇に騙された形で近衛天皇に譲位する
- 近衛天皇が亡くなった後、弟の後白河天皇が即位したことで、復権する機会を失う
- 後白河天皇方の先制攻撃で保元の乱が起こり、敗れて讃岐国に流罪となる
- 失意の内に46歳で亡くなり、怨霊になったとされる
- 歌人としても名を残す
現在まで続き、数多くいる天皇のなかで怨霊となってしまったとされる崇徳天皇は、平将門と菅原道真とともに、日本三大怨霊とみなされていますが、出自から悲運が始まっていた崇徳天皇の怨みは、将門や道真とは比べものにならないものとされています。
そのため、武家政権から政権を取り戻した明治天皇は崇徳天皇を祀る白峰神宮を創建し、昭和天皇は崇徳天皇が亡くなってから800年目にあたる1964年に香川県の崇徳天皇陵に勅使を派遣して式年祭を執り行わせるなど、近年まで崇徳天皇の怨霊は恐れられていました。
日本三大怨霊のなかでも史上最強の怨霊とされる崇徳天皇ですが、承久の乱で土佐に流罪となった土御門上皇が崇徳天皇の霊を慰めるために琵琶を弾くと、崇徳天皇が夢に現れて家族を守ることを約束したおかげで、土御門上皇の皇子である後嵯峨天皇が即位できたとされています。
さらに、室町時代に四国の守護となった細川頼之は、崇徳天皇を弔ったことで四国平定に成功したので、細川家は守護神として崇徳院天皇を崇敬していました。
朝廷を怨んでいながらも、自分に敬意を表してくれた人には加護を与えていたとされる崇徳天皇は、出自に問題がなければ、怨霊としてではなく功績のある天皇として語り継がれていたのではないでしょうか。