日本の歴史の中には、不遇な死を迎えたことにより祟りをなすとされる怨霊が何人かいます。
その中でも特に強力な怨霊として怖れられてきたのが平将門(たいらのまさかど)。
一方で「朝敵」として禁忌の存在とされた将門は、また一方では、新たな秩序を作り出そうとした英雄として崇拝されています。
目次
平将門のプロフィール
平将門の出生年は記録にはなく不明です。
奇しくもこの年、将門と同様怨霊として鎮められることになる菅原道真が死んでいます。
父親は桓武天皇のひ孫にあたる高望王=平高望の三男である平良将。
平氏、源氏ともにもとは皇族だった人物が姓氏を賜り臣下に身分を落とされた(臣籍降下)一族です。
平氏も源氏ももともとは武士ではなく、時代の変遷によって武士になっていきます。
良将は、父が臣籍降下によって上総(今の千葉県のあたり)の国司として赴任したのに従って東国へ下り、そのまま定住して下総の開墾などを行って勢力を広げていきました。
将門は、15歳ごろに一人京都へ上って、後に朱雀天皇の下で関白となる藤原忠平の家臣となりました。
27歳ごろに京都から関東へ帰郷。
ところが、伯父にあたる平国香に襲撃されます。
将門はこれを破ったものの、一族の間で内紛が発生。
将門は伯父・国香を殺害、叔父・良正の軍を破るなどしています。
その騒乱は京都にも知らされ、将門は京都にまで呼び出されて検非違使に取り調べを受けました。
しかし、朱雀天皇が元服されたことで恩赦となり、関東へ戻ります。
そして一族間の抗争が再燃し、将門は一度は伯父の平良兼に敗れるものの逆襲。
良兼を破って関東での覇権を握ります。
将門は40歳を前にして、藤原玄明という指名手配犯を匿うことになります。
玄明を追っていた常陸国府からの引き渡し要求を拒否した将門は、指名手配解除を求めると、国府はそれを拒否して将門に軍を差し向けます。
将門はこれを破ったことにより朝敵となります。
将門は関東を攻めてまわり、そのほとんどを手中に治めて「新皇」として立ちました。
しかしそれから数ヶ月、下野の押領使、いわば軍司令の藤原秀郷によって討たれ、将門の短い生涯が終わりました。
平将門は何をした人?
平将門が朝廷に反逆して東国でいわば独立国をたてるまでになります。
その強さを支えたのは、それまでになかった軍を育てることができたからでした。
将門と騎馬軍団
将門は領地で父親の代から軍馬を育てていました。
将門の強さの要は、その進軍の速さです。
よく、戦国時代の「騎馬軍団」が、実はポニーぐらいの馬に乗って移動し、戦闘は馬から降りて行ったなどと言われます。
しかし、将門が育てていたのはそのような農耕用の小型種ではなく、大陸から輸入した本場ものの騎馬軍団が用いていた馬でした。
そして、将門はその軍団に馬上からの騎射の訓練を徹底させたといいます。
東国の「皇」となる
将門といえば平将門の乱。
その発端は指名手配犯をかくまったことによる常陸国府=朝廷の出先機関との対立です。
常陸国府を打ち破った時、将門は印綬を奪いました。
印綬というのは天皇の権威により与えられるもの。
それを与えられた国府を破り、印綬を奪った時点で将門は朝敵となります。
そこで将門に火をつけた人物がいました。
将門の庇護下にあった武蔵国司の興世王です。
興世王は、「一国を破った罪は軽くないですよ、どうせだったらもう坂東全体を奪い取って気合見せたほうがいいんじゃないっすか?」とそそのかします。
将門は下野に進軍して国司を追い出し、上野も奪い取っていわゆる関八州を我が物にして「新皇」を名乗りました。
特に「皇」を名乗ってしまったのはいささか血気にはやりすぎたかもしれません。
そのせいで朝廷も後に引けなくなりました。
新皇として独立した将門は、油断したのか手元にわずかな手勢しか置かず、その虚を突かれて滅びました。
平将門のエピソード・逸話
短い彼の人生のうち、後半生はほぼ戦乱のみ。
将門の反乱は、一方で朝廷の苛政によって苦しめられていた関東の民衆を代弁したものだとして英雄視されるようにもなりました。
怨霊鎮魂のために神様に
戦いに敗れ命をおとした平将門。
その遺体は首と胴を切り離され、首のほうは京都まで運ばれてさらし首となりました。
その首は数ヶ月生きているようだったとも伝えられます。
将門の遺体が本当はどこに葬られたのか、実は明らかになっていません。
茨城県に、首から下を葬ったとされる胴塚。
そして東京の大手町に首を葬ったとされる首塚があります。
鎌倉時代、この首塚の周囲で疫病や天変地異などが発生し、それが将門の怨霊によるたたりだと信じられたため、鎮魂のために神田明神に神様として祀られました。
このように祟りを起こした怨霊を神様として祀った例はいくつもあります。
ただ、菅原道真=天神さまが、道真の死後ほどなく神様として祀り上げられたのに対し、将門が神様になったのは死後300年以上後のことです。
坂東武者の信仰の対象に
死後、将門は、神様になる前から中央しか顧みない朝廷のために辛酸を嘗めていた坂東武者たちより崇められるようになったといいます。
そして、神様となった将門は、太田道灌、北条氏綱などの関東の大名たちにも信仰されました。
さらに、徳川家康が関ヶ原の戦いを前に戦勝祈願を行い、勝利をおさめたことから、神田明神は江戸総鎮守となります。
朝廷の権威が低下した戦国時代以後は、将門は逆賊というより武士の強さの象徴として見られ、武士の信仰の対象になっていました。
逆賊扱いからの名誉回復
神田明神を江戸の鎮守としていた徳川時代には、将門は朝敵ではないという認定がされていました。
しかし、明治時代になって天皇中心の世となると、朝廷に背いた将門は逆賊であるとして、神田明神の祭神からはずされて、摂社(神社の中にある小さい祠)に追いやられてしまいます。
戦後になると名誉回復運動が行われましたが、将門の神霊が再び神田明神本殿の祭神に戻されるのは、1984年まで待たねばなりませんでした。
4行でわかる平将門のまとめ
日本史上唯一、天皇以外に「皇」を名乗った平将門のまとめです。
- 桓武天皇の子孫
- 関東を開拓し、大陸から輸入した馬を生産する
- 親戚間の内紛に勝利し関東の覇者へ
- 朝廷との対立から「新皇」を名乗る
平将門より200年ほど後に平清盛が出ます。
清盛は、将門が滅ぼした平国香の子孫です。
清盛の台頭によって武士の時代が到来し、やがて朝廷の権威は失墜していきました。
そして、清盛よりさらに400年後の子孫に織田信長がいます(実際には子孫ではないという説が濃厚ですが)。
将門の敵の子孫とはいえ、将門の既存の権威に従わないという気質は、清盛や信長に受け継がれていたのかもしれません。