戦国時代

武田信玄ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

武田信玄

武田信玄と言えば、山梨県の郷土の英雄で、風林火山と書かれた旗をなびかせて、颯爽と登場する武将というイメージがあります。

お土産の信玄餅も有名ですね。

戦国武将の中でも人気の高い武田信玄ですが、実際はどんな人だったのか簡単にわかりやすく簡単にまとめてみました。

武田信玄のプロフィール

  • 1521年(大永元年)甲斐国(現在の山梨県)で守護・武田信虎の長男として生まれる。
  • 1541年(天文10年)父・信虎を駿河の今川義元のもとへ追放、武田家当主となる。
  • 1547年(天文16年)信玄家法(甲州法度)を定める。
  • 1548年(天文17年)上田原の戦いで北信濃の村上義清に惨敗。
  • 1550年(天文19年)再度、村上義清を責める(砥石城の戦い)が大敗(砥石崩れ)。
  • 1551年(天文20年)真田幸隆の策略のより砥石城をおとし、北信濃以外を平定。
  • 1553年(天文22年)北信濃の制圧にむけ、越後の長尾景虎(上杉謙信)と戦う(川中島の戦い始まる)。川中島の戦いは1553年~1564年に亘り、犀川と千曲川との合流点だった川中島で戦ったもので、勝敗の決着はつかなかったが、結果的に信玄は5度戦いで北信濃を手に入れています。
  • 1559年(永禄2年)出家。晴信から信玄と呼ばれるようになる。
  • 1568年(永禄11年)桶狭間の戦いで今川義元が破れたあと、徳川家康とともに駿河の今川を破り、駿河を手に入れる。
  • 1572年(元亀3年)将軍足利義明の信長討伐の命令で、当時織田信長と同盟関係にあった徳川家康と戦い勝利(三方ヶ原の戦い)さらに西へ向かう。
  • 1573年(元亀4年)野田城をせめおとすが持病が悪化(肺結核)、甲斐へ撤退する道中にて病死(享年53歳)。

武田信玄は何をした人?

幕府が権力を失い、地方の権力者が勢力を延ばしていた戦国時代、甲斐国の武田もその一人で、着々と領土を拡大させていきました。

川中島の戦いのあと信濃国を平定

甲斐国を治めていた信玄は信濃攻略に出ます。

次々と領地を拡大していきますが、北信濃攻略に臨んた時、北信濃の村上氏らの要請を受けた越後の上杉謙信と戦うことになります。

これが川中島の戦いです。

信玄と謙信の一騎打ちとして有名で(現在の川中島古戦場史跡公園に一騎打ちの像や三太刀七太刀の跡などが建てられています)、戦国史上最大の激戦とも言われています。

5度にわたり対戦しますが、最終的に勝敗はついていません。

1557年に室町幕府足利義輝による甲越和睦の御内書が下され、信玄は信濃守護職を条件に受諾し、結果的に信濃国を平定しました。

上洛途中にて命尽きる

信濃平定後、さらに駿河に領土を拡大させたころ、京都では足利義昭織田信長が対立。

義昭の要請を受け上洛を開始します。

三方ヶ原の戦いでは家康に勝利し、さらに西へ向かいますが、20代のころから持病を抱えていた信玄はついに力尽き、撤退を余儀なくされ、甲斐へ戻る道中で病死してしまいます。

武田信玄のエピソード・逸話

戦略・戦術を巧みに操る戦国最強武将

信玄は生涯72戦戦い、49勝3敗20分と言われています。

まさむね
まさむね
引き分けが20回と目を引きますが、これは「敵に勝ち過ごしてはならん。負けなければよいのである」という信玄の持論、「負けない戦」をした表れではないでしょうか。

最終的に勝つためには、まず負けないことが大切という現実主義的な考えをもっていたのです。
(ちなみに、負けのうち2敗は北信濃での村上義清との戦いですが、最終的には勝利しています。)

信玄は負けないために、戦う前に勝利する条件を整えることを重要とし、敵の情報を手に入れるため、「三ツ者」または「素破」とよばれる忍びを全国に配置しスパイ活動を行わせていました(三ツ者=身寄りの無い少女たちに忍びの術を教え込み、表向きは巫女の姿ででスパイ活動をさせた)。

また、甲斐は名馬に恵まれた国であったことから、騎馬隊を作ったとも言われています。

さらに、突如風・徐如風・侵掠如火・不動如山を略して「風林火山」という言葉は信玄の軍旗に使用されていたとされ有名ですが(実際は小説等の中でかっこよく略して創作されたものと言われている)、これは信玄が取り入れた中国古来の孫子兵法

  • 疾(はや)きこと風のごとく(迅速に動き先手をとる)
  • 徐(しず)かなること林の如く(息をひそめタイミングをはかる)
  • 侵掠(しんりゃく)すること火の如く(好機が来たら一気に攻める)
  • 動かざること山のごとし(敵に惑わされずどっしりかまえる)

によるもので、戦の勝敗は戦略によって左右できるという意味があり、信玄の強さの秘訣がわかる気がします。

自国の繁栄を願う自国愛の持ち主

政治面では、甲州法度を定め、領主たちが勝手に農民から土地を奪ってはいけないなど領民の財産を保護したり、裁判や納税の規定を作り公正な法のもと国を治めようとしています。

また、合議制という家臣の意見を尊重する政治を行っています。

さらに、甲斐には金山が豊富にあったため積極的に金を産出し、日本で初めて金貨を造っています。

それにより得た財力で、信玄堤と呼ばれる堤防を作ったり、城下町の整備を行ない、甲斐を豊かな住みやすい国にしようと努力しています。

まさむね
まさむね
信玄の言葉に「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」という言葉があります。

城と石垣と堀と同じくらい人は大事、つまり人の心が離れてしまえば強固な城があっても意味がないとし、家臣や領民を大切にしたやさしさや信玄の自国愛が感じられるような気がします。

永遠のライバル上杉謙信

信玄が今川領の駿河に攻め込んだ時、怒った今川氏が甲斐へ塩を売ることを禁止した際、上杉謙信が敵であった信玄に、たとえ敵であっても相手が苦しいときは助けるもの、と言って塩を送ったとされ「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれています。
(実際には送ったわけではなく売ることを禁止しなっただけとか、高く売りつけて儲けたとか、所説ありますが…)。

また信玄は遺言で勝頼に「謙信と和議を結ぶように。謙信に敬意を表して頼りにすること。謙信はそれに値する男である」と残しています。

謙信も信玄の死の知らせを聞き「宿敵がいなくなってしまった」と泣いて悲しんだと言われています。

ともに甲斐の虎・越後の龍と呼ばれた二人、戦国時代最大の激戦を繰り返した二人の間には、最大のライバルでありながらお互いを尊敬しあっていたような、そんなロマンを感じてしまいます。   

上杉謙信についてはこちらの記事で詳しくまとめています。

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4行でわかる武田信玄のまとめ

まとめ
  • 川中島の戦いで上杉謙信と戦い信濃国を平定
  • 戦略・戦術を巧みに操る戦国時代最強の武将
  • 自国愛を持っていた
  • 上杉謙信とは永遠のライバル

やはり戦国時代に名をはせる武将はただ強いだけではありませんね。

武田信玄の強さ、やさしさ、ライバルを尊敬する姿が見えたような気がします。

さらに武田信玄について興味をもっていただけたら嬉しいです。

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