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安土桃山時代

南光坊天海の逸話まとめ!明智光秀と同一人物説や徳川家康との関係など

南光坊天海

仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代。

それ以降、仏僧は時に政治の中枢にかかわり、戦国時代になると太原雪斎、安国寺恵瓊、金地院崇伝など大名の軍師、宰相ともなる「政僧」が増えました。

そうした政僧の中で、最も高位といえる徳川家康のブレーンにまで上り詰めたのが、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)です。

南光坊天海のプロフィール

天海がいつ生まれたのかはまったく不明です。

その生年には、1510年生まれから1554年生まれまで12もの説があるといいます。

これは要するに記録に残される身分の出身ではなかったということです。

その後、武田信玄や蘆名盛氏に招かれたというような話も伝わっているものの、史実かどうかは未確定です。

1590年に豊臣秀吉が小田原城を攻めたときには、徳川家康の陣にいたと伝えられています。

いつどこで家康と知り合ったのはまったくの不明。

まさむね
まさむね
かなり謎の人物です。

1599年、関ヶ原の戦いの前年に、川越市にある天台宗の寺院・無量寿寺(現在の喜多院)の住職となります。

1607年には比叡山延暦寺の再興をしました。

このとき住んだのが南光坊だったので、後に南光坊天海と呼ばれるようになりました。

1613年には日光山輪王寺の再興などを行っています。

家康没後、家康の神号「東照大権現」を定め、また徳川秀忠徳川家光にも仕えました。

1643年に逝去。

一説には享年は108歳の大往生だったといいます。

南光坊天海は何をした人?

徳川家康のブレーンとして活躍した天海。

日本の歴史にかかわる重要な出来事にも関わっていたと伝えられています。

江戸の霊的守護を設計

天海は江戸城を中心として鬼門にあたる北東に上野寛永寺、裏鬼門にあたる南西に増上寺を置き、鬼門封じにしたといいます。

また同様に、神田明神の対角線に、太田道灌が川越から招来した日枝神社を移し、こちらも鬼門封じだと言われています。

鬼門というのはその名の通り霊界の出入り口。

それを神社と寺で封じることで、霊的守護を行ったようです。

まさむね
まさむね
現代ではただのオカルトと考えてしまうことでも、当時は真剣に考えられるべきことでした。

さらに、家康死後は江戸城の真北の日光に東照宮を建て、ここに家康の御霊=東照大権現を祀って江戸の守護としました。

東京には現在でも目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の「五色不動」があります。

これも陰陽道の五芒星を利用して天海が江戸鎮護に用いたとも言われていますが、五色不動については実際には天海は関係していないようです。

3つの寺院を再興

天海が行った事績でもっと重視されるべきだと思われるのが、その時代廃れていた比叡山延暦寺、星野山無量寿寺、日光山輪王寺の再興です。

まず延暦寺は、1570年に織田信長が焼き討ちをしたために荒廃したと伝えられてきました。

しかし、現在の調査では大規模火災の痕跡は見当たらず、実際には焼き討ちはなく、それより以前から没落していたと考えられるようになっています。

川越の無量寿寺は、北条早雲の息子の北条氏綱と、川越を支配していた扇谷上杉氏との抗争で焼失していました。

輪王寺は、戦国時代に宇都宮氏の家臣の壬生氏に支配されており、その壬生氏が小田原攻めの折北条についたことに連座し、秀吉に寺領を没収されていたせいでやはり没落していました。

まさむね
まさむね
これらの寺院を再興したことは、日本の宗教史、文化史上大きな功績だと言っていいでしょう。

家康の神号を定める

徳川家康は、その臨終を前に天海、同じく家康に仕えた政僧・金地院崇伝、そして本多正純に、自分の死後は神として武家が崇拝するようにせよという遺言を遺しました。

ここで、神とされる家康の神号、つまり神様ネームについて天海と崇伝・正純側が対立します。

天海が推したのは「権現」号。

神仏習合の時代、日本の神様は仏教の仏菩薩がアバターとして顕現したものだという設定が作られています。

「権現」は「仏の仮の姿」という意味です。

一方崇伝側が推したのは「明神」号。

明神も同じように仏菩薩が神として姿を明らかにしたと言う意味です。

ここで天海は、家康の跡継ぎの秀忠に「秀吉は死後“豊国大明神”にされたのに、豊臣家は滅びました。明神号だと縁起悪くないですか?」と言いました。

「それはそうだね」と思った秀忠は権現号を採用。

家康は東照大権現という神様ネームとなりました。

南光坊天海のエピソード・逸話

天海は謎に包まれた人物で、特に家康の幕下に突然現れるまではどこでなにをしていたのか不明です。

そこで、ある説が生まれました。

明智光秀が天海だった?

織田信長を討ったものの、まったく味方を得られず即滅びた明智光秀

しかし光秀は実は生き残って天海となり、徳川家康に味方して豊臣への復讐を果たしたんだよ!

などという俗説があります。

その証拠として、

  • 天海がその建設に深く関わった日光東照宮のいたるところに、明智家の家紋・桔梗紋が散りばめられている
  • いろは坂の途中にあり、現在展望台となっている「明智平」は天海が名付けた

などいろいろあげられています。

まさむね
まさむね
なるほどあの明智光秀が、家康を裏から操り怨敵豊臣を滅ぼしたというのはなかなかロマンがある話です。

でも、実際は明智平を天海が名付けたという証拠はなく、東照宮にある桔梗紋と言われているものは、実際には花びらがとがった桔梗紋ではなく、花びらの先端が三つに分かれた唐花紋であることもわかっており、その他の証拠としてあげられるているものもこじつけの域を出ません。

小説のネタとしてはおもしろいけれど、本気にしないほうがよさそうです。

明智光秀についてはこちらに詳しくまとめていますので、良ければご覧ください。

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川中島の戦いを見学した?

天海が1554年に行われた第4次川中島の戦いを山の上から見物していたという話が伝わっています。

天海の出生を1510年にするのであればありえないことではありません。

また、天海が信玄に招かれていたことがあるとも言われています。

天海は上杉謙信武田信玄に斬りつけたシーンを見たといいます。

後に直接信玄にそのことを言うと、あの信玄は影武者だったと教えてくれたとか。

ただこれは1670年に編纂された歴史書『本朝通鑑』の資料として上杉家から提出された報告書に記されていたエピソードだというので、本当のことかどうかは不明です。

5行でわかる南光坊天海のまとめ

徳川幕府の黎明期に大きな影響を与え「黒衣の宰相」とも言われた南光坊天海のまとめです。

まとめ
  • 出自不明の謎の僧侶
  • いつのまにか家康の下に
  • 現代に残る重要な寺院3箇所を復興
  • 家康死後の神号を定める
  • 江戸の霊的守護を考案

仏教から見れば政治に関わること自体ナマグサであるとは言っても、その事績を追うと意外と普通の人だった天海。

普通でないのは、江戸時代にあって現代でも珍しい100歳を超える長寿だったことだけかもしれません。

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