新元号が「令和」と決定されましたが、その典拠は日本最古の歌集である『万葉集』に収められた「梅花の歌三十二首 序文」にある、
初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。
の文言を引用したものです。
大伴家持は万葉集の編纂者の一人といわれており、令和の由来となった「梅花の宴」を主催した父・大伴旅人とともに注目されています。
この記事では大伴家持についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
大伴家持のプロフィール
- 大伴家持(おおとものやかもち)
- 父:大伴旅人(おおとものたびと)
- 母:丹比郎女(たじひのいらつめ)
- 享年68(718年?~785年8月28日)
大伴家持は何した人?
大伴家持は『万葉集』の編纂に関わった歌人として取り上げられていますが、大伴氏は本来武門の氏族で、家持は中納言まで昇進しています。
大伴家持の生い立ち
718年頃、大伴家持は大伴旅人(おおとものたびと)の長男として生まれました。
728年頃、父・旅人が大宰帥(大宰府の長官)に任命されたので、母・丹比郎女と弟・大伴書持(おおとものふみもち)とともに大宰府に赴きます。
その後、母・丹比郎女が亡くなり、歌人である叔母・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)に育てられた家持は歌が得意な若者として成長し、730年に帰京しました。
越中国に赴任
731年、父・旅人が亡くなり、家持は14歳で大伴家を背負うことになります。
738年、内舎人(武装して宮中に宿直し,天皇の雑役や警衛にあたる役職)となり、聖武天皇の伊勢行幸に随行しました。
そして、745年に従五位下に昇叙され、746年には宮内少輔に任じられましたが、わずか3か月後に越中守に任じられ、地方官となってしまいます。
越中国(富山県)に赴任した家持は下級官吏・大伴池主(おおとものいけぬし)と盛んに歌を贈答し、都と異なる越中の風土に接した新鮮な感動を伝える歌など、223首の和歌を詠んでいます。
因幡国と薩摩国に赴任
751年、家持は少納言となって帰京しましたが、橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、758年に因幡守に任じられ、再び地方官となってしまいました。
因幡国(鳥取県)に赴いた家持は、759年に因幡国庁で催された新年の宴で、
新しき 年の始めの初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
(新しい年の初めに降る雪よ、どうかこの世に良いことを積もらせてくれないか。)
という歌を詠み、これが『万葉集』の最後の歌になっています。
その後762年、家持は信部大輔に任じられて帰京しましたが、藤原良継(ふじわらのよしつぐ)らと、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の暗殺計画を企てていたことが露見し、764年に薩摩守に任じられ、左遷されてしまいました。
大伴家持の最期
770年、称徳天皇が崩御すると、家持は左中弁兼中務大輔という要職に就任し、光仁天皇の即位に伴って正五位下となりました。
そして、光仁天皇のもとで要職を歴任し、778年に正四位下へ昇進しました。
さらに、780年に参議に任じられて公卿の末席に連なり、781年には従三位に昇進しましたが、氷上川継の乱に関与していたとされて解官されてしまいます。
しかし、4カ月後に嫌疑が晴れて参議に復帰すると、783年に中納言となりました。
そして、784年に持節征東将軍(蝦夷征討の将軍)に任じられた後、785年8月28日に68歳で亡くなりました。
大伴家持のエピソード・逸話
大伴家持と万葉集
『万葉集』は日本に現存する最古の和歌集で、全20巻4500首以上の歌が収められていますが、「序文」がないため、成立年代と編纂者に関しては詳しくわかっていません。
成立年代については、一番古い写本が平安時代のものであることから、奈良時代末期に成立したと考えられています。
一方、編纂者については様々な説がありますが、
- 1割以上にあたる480首が家持の歌であること
- 家持と恋愛関係にあった女性や大伴氏の歌が多数収められていること
- 最後の4巻は家持の歌日記が基になっていると考えられること
から、家持が『万葉集』を編纂したといわれています。
『万葉集』の名前については、
- 「万の言の葉」を集めたもの、つまり「多くの言の葉=歌を集めたもの」とする説
- 「葉」を「世」の意味にとって、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」とする考え方
があります。
家持が深く関わったとされる『万葉集』は1200年以上経った現在まで伝えられ、多くの人に親しまれています。
大伴家持と雨乞い
家持が赴任した越中国は、749年の6月下旬から1ヶ月近く雨が降りませんでしたが、7月下旬になって、ようやく雨雲の気配が見られました。
そのとき、家持は雨乞いの歌を詠み、天に祈っています。
この見ゆる 雲ほびこりて との曇り 雨も降らぬか 心足(だ)らひに
(今見えている雲がはびこって、空一面に曇り、雨が降らないだろうか、心行くまで。)
家持がこの歌を詠んだ3日後に雨が降り出し、次の歌を詠んでいます
我が欲りし 雨は降り来ぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ
(私が求めていた雨が降って来た。これならば、神に神事を捧げなくても、今年は豊作でしょう。)
友情?愛情!?
一説では、日本で最初の男性同士の特別な感情が記録されたのは奈良時代ではないかといわれています。
『万葉集』には次の歌のやり取りがあるためです。
我が背子は 玉にもがもな ほととぎす こゑにあへぬき 手に巻きてゆかむ
(愛しいあなたがもし装飾品だったなら、ホトトギスの声とともに手に巻いて どこへでも一緒に行けるのに。)
うらごひし 我が背のきみは なでしこが 花にもがもな 朝な朝なみむ
(愛しいあなたがもし撫子の花だったなら、毎朝毎朝その花を眺めるのに。)
最初の歌は家持が詠んだもので、返歌は大伴池主が詠んだ歌です。
奈良時代、和歌は宴席を盛り上げるために、男性が女性の視点で恋の歌を詠み合うこともあったため、家持と池主の関係は友情と捉えられていますが、都に残した妻よりも池主に「会えなくて寂しい」と詠んでいる歌が多いことから、二人の間にはプラトニックな愛があったのでは!?ともいわれています。
池主との10年に及ぶ歌のやり取りは家持の歌の才能を磨き、それは『万葉集』の成立にも影響したとされています。
大伴家持のまとめ
- 718年頃:大伴旅人の長男として生まれる
- 746年:越中守に任じられる
- 758年:因幡守に任じられる
- 764年:薩摩守に任じられる
- 783年:中納言に任じられる
- 784年:持節征東将軍に任じられる
- 785年:68歳で亡くなる
何度も左遷されながら中央政界に復帰し、政争の中を生き抜いて中納言にまで昇進した家持ですが、亡くなった直後に起こった藤原種継暗殺事件に関与していたとされ、罰せられてしまいました。
その結果、家持は埋葬することを許されず、官籍からも除名され、子・大伴永主(おおとものながぬし)は隠岐国(島根県)へ流罪となりました。
その後、806年に恩赦によって従三位に復されましたが、死後も政争に関与したとされたことは、政治家としての家持の人生を象徴しているようです。