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	<title>鎌倉時代の人物一覧【日本史に出てくる武士など】｜歴史上の人物外伝</title>
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		<title>源頼朝ってどんな人？鎌倉幕府は1192年じゃない？簡単にまとめてみました</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 19 Mar 2022 06:47:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
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					<description><![CDATA[源頼朝といえば、鎌倉幕府。 「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせ、一度は耳にしたことがあるはずです。 しかし、近年鎌倉幕府の始まりに対しての議論が白熱しています。 その論点となるのが、鎌倉幕府の立役者、源頼朝の存在な]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>源頼朝といえば、鎌倉幕府。</p>
<p>「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせ、一度は耳にしたことがあるはずです。</p>
<p>しかし、近年鎌倉幕府の始まりに対しての議論が白熱しています。</p>
<p>その論点となるのが、鎌倉幕府の立役者、源頼朝の存在なのです。</p>
<p>「そもそも鎌倉幕府って何のこと？何を基準に始まりとしているの？」という人も多いはず。</p>
<p>果たして彼は何を成し遂げた人なのでしょうか。<br />
また、エピソードや逸話は？</p>
<p>簡単にまとめてみました！</p>
<h2>源頼朝のプロフィール</h2>
<p>源頼朝（みなもとのよりとも）1147-1199。</p>
<p>平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将、政治家。</p>
<p>鎌倉時代の初代征夷大将軍として広く知られています。</p>
<h2>源頼朝は何をした人？</h2>
<h3>平治の乱からの伊豆への流刑</h3>
<p>1160年、平治の乱での敗北により賊軍となった頼朝は、近江国で捕まり京の六波羅へと贈られます。</p>
<p>当然死刑かと思われましたが、<a href="https://rekishigaiden.com/tairanokiyomori/">平清盛</a>の継母である池禅尼の嘆願などもあり死刑はどうにか免れ、<span class="marker">伊豆国への流刑処分</span>に収まりました。</p>
<p>なお、父の義朝・次兄の朝長・長兄の義平はみなここまでに命を落としてしまっているため、殺されなかったのはかなり運がよかったと言えます。</p>
<p>伊豆へ流された頼朝の生活について残された史料はほとんど残されてはいませんが、読経を欠かさず行い、武芸の鍛錬も日々参加していたようです。</p>
<p>また、この期間中に北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び、子供まで作るなど、類家の身でありながらも人生を謳歌していたのではないかとも感じます。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
しかし、流された当時の頼朝の年齢はわずか13歳。</p>
<p>父と兄を失い孤独な日々を過ごしたと考えると、死刑にも及ぶほどの苦しみを味わったのは間違いないでしょうね。
</p></div>
</div></div>
<h3>治承・寿永の乱</h3>
<p>1180年、後白河法皇の皇子である以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発し、頼朝のもとにも知らせが届きました。</p>
<p>しかし、以仁王らが先に挙兵する中で、頼朝はしばらく事態の静観を決め込みます。</p>
<p>その後、平家が源氏追討を企てているということを知り、自身の身に危険が及ぶと考えてようやく挙兵を決意しました。</p>
<p>坂東の各豪族に協力を呼びかけ、まずは伊豆を制圧した頼朝でしたが、石橋山の戦いで平家方の軍勢に敗北を喫し、山中へ逃げ込むことになります。</p>
<p>数日間の逃亡を経て案房国へと脱出し、他の勢力に加勢を要請すると、その後も多くの軍勢を味方につけ、遂に鎌倉へと入ります。</p>
<p>以降鎌倉を拠点に平家との対立と周囲の豪族の制圧を進め、徐々に頼朝の権威は高まっていきました。</p>
<p>1181年、<a href="https://rekishigaiden.com/tairanokiyomori/">平清盛</a>が病死すると平家の反乱も次第になりを収めていき、<span class="marker">1183年には坂東で頼朝に敵対する勢力はいなくなりました。</span></p>
<p>内政にも力を入れ、味方となった勢力たちに不満が出ないように立ち振るまい、豪族たちからの支持を集めました。</p>
<h3>鎌倉幕府を開く</h3>
<p>源頼朝と言えば真っ先に出てくるのが、<span class="marker">鎌倉幕府</span>ですよね。</p>
<p>この鎌倉幕府ですが、いつからを幕府の始まりとするのか、たびたび議論がなされていることでも有名です。</p>
<p>多くの大人が覚えてきたのは、「いい国（1192）作ろう鎌倉幕府」だと思います。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
自分も、歴史の問題はこれだけは自信をもって答えられる！というくらいには何度も繰り返して覚えました(笑)
</div>
</div></div>
<p>1192年というのは、頼朝が征夷大将軍に任じられた年。</p>
<p>つまり、国の実質最高権力者になった年を幕府の始まりとする見方です。</p>
<p>対して、今の説の主力は「いい箱（1185）作ろう鎌倉幕府」で1185年となっています。</p>
<p>1185年に行われたのは、諸国への守護・地頭の設置です。</p>
<p>これはつまり、頼朝に諸国に対する軍事・警察・土地支配権が与えられたことを意味しています。</p>
<p>要するに、論点となっているのは頼朝が国を統治できるようになったのはどこからか、というところです。</p>
<p>ほかにも1180年や1184年、1190年など様々な意見が存在していますが、統一された見解は未だ出されていません。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
歴史というのはこのようにまだまだ曖昧なところが多い学問です。</p>
<p>また数年後には、全く別の見解がなされているかもしれませんね。
</p></div>
</div></div>
<h2>源頼朝のエピソード・逸話</h2>
<h3>顔が大きいイケメンだった？</h3>
<p>頼朝の容貌に関して、いくつかの文献に記載が残されています。</p>
<p>『源平盛衰記』では、「顔が大きく容貌は美しい」と書かれています。</p>
<p>また、『平家物語』の中では、頼朝と対面した中原泰定の言葉で「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とあります。</p>
<p>このように、当時の感覚からしても源頼朝はイケメンとして見られていたことが窺えます。</p>
<p>ちなみに、身長に関しては甲冑からの推測で165cmはあったのではないかとされており、これは当時の平均よりも高めです。</p>
<p>つまり、<span class="marker">身長が高く、イケメンで、権力も持っていた</span>というわけです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
才色兼備という言葉でも表せないほど、並みの人物ではなかったことが分かりますね。
</div>
</div></div>
<h3>独立心の強かった武士団を1つにまとめ上げた</h3>
<p>頼朝の配下についた東国武士団は、当初独立心の塊で、同族以外での協力など一切頭にありませんでした。</p>
<p>自分たちだけで敵を倒して名を上げようとするものばかりだったのです。</p>
<p>しかし、もちろんそんなことでは配下として役に立つはずがありません。</p>
<p>頼朝は癖の強い武士たちを1からまとめ上げ、大きな組織を作り上げました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
優れた統率力と信頼関係を持っていたからこそ成し遂げられたことなのでしょう。
</div>
</div></div>
<h3>息子に対しては親バカだった</h3>
<p>息子の頼家が12歳の時。</p>
<p>頼家が鹿を仕留めたことを大変喜んだ頼朝は、妻の北条政子にわざわざ報告の使いを送りそのことを伝えました。</p>
<p>すると、政子からは「武士の子なら当たり前」と冷静な一言をもらったんだとか。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
現代の家族でもありそうな話で、頼朝も一人の人間だということが感じられますね。
</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる源頼朝のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>平治の乱での敗北後、伊豆へ流刑に処された</li>
<li>治承・寿永の乱の後、協力者を集めてから平氏を追い詰め、影響力を高めていった</li>
<li>鎌倉幕府を開いたことで有名だが、その始まりはまだ確定されていない</li>
</ul>
</div>
<p>伊豆に流され孤独の身となってからも、頼朝は打倒平氏を掲げその機会をずっと窺っていました。</p>
<p>敗北と逃走を繰り返しながらも、持ち前のカリスマ性で力を蓄え、遂には自らが国を動かせるまでに上り詰めたのです。</p>
<p>豪族からも慕われ、その人間性はトップに立つに相応しいものだったと言えます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
鎌倉幕府がどこから始まったのかなんて、彼が成し遂げたことを考えれば些細な話なのかもしれないですね。
</div>
</div></div>
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		<title>兼好法師ってどんな人？徒然草の和歌から性格を紐解く</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 04 Sep 2019 02:58:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
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					<description><![CDATA[兼好法師といえば、「徒然草」ですね。 日本文学史に輝く永遠の名作と言っていいでしょう。 この世に日本語が存在する限り、読まれ続けていくに違いありません。 この記事では、その作者の兼好法師（吉田兼好）について一体どんな人だ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>兼好法師といえば、「徒然草」ですね。</p>
<p>日本文学史に輝く永遠の名作と言っていいでしょう。</p>
<p>この世に日本語が存在する限り、読まれ続けていくに違いありません。</p>
<p>この記事では、その作者の兼好法師（吉田兼好）について一体どんな人だったのか、わかりやすく説明していきます。</p>
<h2>兼好法師のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生年　1283年？</li>
<li>死没　1352年？</li>
<li>本名　卜部兼好</li>
</ul>
</div>
<p>兼好法師の名前は広く知られていますが、どんな生涯を送ったか、実は不明な点が多いのです。</p>
<p>父・卜部兼顕は神職であり、大僧正慈遍が兄といわれていますが、確証はないようです。</p>
<p>卜部氏は代々神職の家柄といいますから、なかなかの名門です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
兼好は家司として堀川家に仕え、堀川家の基子が後二条天皇の母親だったいきさつから、六位蔵人（ろくいのくろうど）に任命されます。
</div>
</div></div>
<p>しかし、1308年、後二条天皇の死に伴い、兼好も宮仕えを辞めてしまいます。</p>
<p>1313年前後に出家したといいますから、およそ30歳位で隠棲生活に入ります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
現代の我々から見れば、随分と早い引退という感じがします。
</div>
</div></div>
<p>また、兼好の収入源についても気になります。</p>
<p>山城国山科の小野庄に水田を持っていたようですが、その土地からあがる収入で生計を立てていたようです。</p>
<p>また、特筆すべきは、<span class="marker">二条為世門下で四天王の一人に数えられるほど和歌に優れていた</span>点です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
和歌、随筆において当時の第一人者であったといっていいでしょう。
</div>
</div></div>
<p>没年もはっきりとはしません。</p>
<p>少なくとも1352年8月までの生存は確認できるようです。</p>
<p>彼の人生については不明な点が多いのですが、<span class="marker">随筆「徒然草」</span>で不朽の名を後世に伝えています。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>兼好法師は何をした人？</h2>
<h3>歌人として著名</h3>
<p>兼好法師は歌人として有名でした。</p>
<p>二条派の和歌四天王の一人と呼ばれています。</p>
<p>同じく四天王に数えられる頓阿との歌の贈答が有名です。</p>
<p>これは、「沓冠」（くつかぶり）と呼ばれる形式のもので、句の最初の文字と、句の最後の文字に注目してください。</p>
<p>本当のメッセージがそこに隠されているからです。</p>
<p>まずは、兼好法師が頓阿に贈った歌を見ましょう。</p>
<div class="simple-box9">
<p>よもすずし　　　　　　　　　<br />
ねざめのかりほ　　　　　　　<br />
た枕も　　　　　　　　　　　<br />
ま袖も秋に　　　　　　　　　<br />
へだてなきかぜ　　　　　　　</p>
</div>
<p>句の最初の文字を上から下に読んでみましょう。</p>
<p>「よ」「ね」「た」「ま」「へ」ですね。</p>
<p>これは「よねたまへ」つまり「米給へ」、お米をくれ、と言っているわけです。</p>
<p>句の最後のほうはどうでしょう。</p>
<p>今度は下から上へ読みます。</p>
<p>「ぜ」「に」「も」「ほ」「し」つまり「銭も欲し」、金の無心です。</p>
<p>頓阿の返歌は次の通りです。</p>
<div class="simple-box9">
<p>よるもうし<br />
ねたくわがせこ<br />
はてはこず<br />
なほざりにだに<br />
しばしといませ</p>
</div>
<p>先ほどと同じルールで読んでみましょう。</p>
<p>最初の文字は上から下です。</p>
<p>「よ」「ね」「は」「な」「し」つまり「米はなし」、米はありません。</p>
<p>最後の文字は下から上です。</p>
<p>「せ」「に」「ず」「こ」「し」つまり「銭少し」です。</p>
<p>上記のやり取りは、「続草案集」という本に収められています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
和歌の達人ともなると、金の無心も風流なものです。
</div>
</div></div>
<h3>「徒然草」の著者</h3>
<p>言わずと知れた日本文学の古典中の古典、それが<span class="marker">「徒然草」</span>です。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/seisyonagon/">清少納言</a>の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」と並んで、日本三大随筆と呼ばれたりもします。</p>
<p>「徒然なるままに、日くらし、硯にむかひて、・・」という冒頭は多くの人が記憶しているところだと思います。</p>
<p>内容は、短い随筆を集めたもので、全部で243段あります。</p>
<p>第127段のように一行で終わるものもあれば、第137段のようにそこそこ長いものまで、特に決まった形式というものを持たず、まさに思いつくまま書いたような随筆が収められています。</p>
<p>日記のようでもありますが、人に読まれることを想定して書いているように感じられますので、日記とは趣が異なります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
現代で言えば、文章の長さといい、内容といい、ちょうどtwitterで意見発信しているような感じでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>この「徒然草」、書かれてからしばらくは誰も注目する人もいなかったようですが、室町中期の正徹というお坊さんが書写して紹介しはじめてから、人々に愛読されるようになったようです。</p>
<p>実際、現在残っている最古の写本は正徹が書写したもので、1429年のものと言いますから、兼好法師が生きた時代から、だいぶ隔たりがあります。</p>
<p>「徒然草」の主調低音は、「無常観」というキーワードで把握できると思います。</p>
<p>「無常観」といっても、「徒然草」には辛気臭い説教というものはまったくありません。</p>
<p>仏教的世界観に立脚しているのは確かですが、辟易するような説教とは無縁です。</p>
<p>あくまで自然に、文章も押しつけがましいところも皆無です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ぜひ一度、本書を繙いてみることをおススメします。</p>
<p>最初はよくわからなくても、読むほどに味わいが出てくる名文なのです。
</p></div>
</div></div>
<h3>高師直のためにラブレターを代筆する</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>の側近であり、当時絶大な権力をふるったのが高師直です。</p>
<p>この師直のために、兼好法師が恋文を代筆したというエピソードがあります。</p>
<p>出雲守護であった塩冶高貞の妻に思いを寄せる師直のために恋文をしたためたというのです。</p>
<p>この話が事実かどうかはわかりません。</p>
<p>「太平記」にある話で、このエピソードから兼好法師が能筆であったとみなされていたことが想像されます。</p>
<p>「徒然草」の作者のラブレターというのも読んでみたいものですが、兼好法師自身は、代筆を嫌っていました。</p>
<p>「徒然草」第三十五段に、</p>
<div class="simple-box9">
<p>手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし</p>
</div>
<p>とはっきり書いています。</p>
<p>権力者に代筆させられたとすれば、さぞ不愉快だったでしょう。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>兼好法師のエピソード・逸話</h2>
<p>兼好法師は文人としてその名声を現代にまで伝えています。</p>
<p>「文は人なり」といいます。</p>
<p>「徒然草」の中にこそ、兼好法師の本当の姿があるのではないでしょうか。</p>
<p>彼のキャラクターを彷彿とさせる文章を少し紹介していきましょう。</p>
<h3>第59段　無常の来たることは、水火の攻むるよりも速やかに</h3>
<p>兼好の無常観の代表として、この段を取り上げましょう。</p>
<p>この段の冒頭は次のように始まります。</p>
<div class="simple-box9">
<p>大事を思ひたたん人は、去りがたく、心にかからんことの本意を遂げずして、さながら捨つべきなり」</p>
</div>
<p>ここでの大事とは出家のことです。</p>
<p>仏道に入って悟りを目指すのです。</p>
<p>そのためには、ぐずぐずしてないで、用事など放っておいてすぐさま実行しろ。</p>
<p>兼好はそう主張するわけです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ここでの実行とは出家することですね。
</div>
</div></div>
<p>現代日本で悟りを目指すなどとぬかして、重要な仕事や学問を途中で投げ捨てて修行すると言い出したりしたら大ごとですが、当時は許容される時代だったのでしょうか。</p>
<p>許容される時代だったとひとまず考えなければ、この段の言葉はすべて戯言になってしまいます。</p>
<p>この段をよく考えてみることで、兼好の生きた時代の雰囲気が想像できるというものです。</p>
<p>兼好は南北朝の混乱期に生きた人です。</p>
<p>出家するなどと真面目に主張して受け入れられるほど、時代は殺伐としていたのです。</p>
<p>兼好のイメージする「無常」と我々のイメージする「無常」ではまったく意味合いが違うのではないでしょうか。</p>
<p>そうでなければ、出家にかける情熱というものを理解するのが難しいでしょう。</p>
<h3>第75段　まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ</h3>
<p>兼好はぼっちが好きです。</p>
<p>というと誤解を招きそうですが、この段の主張は、まさに関わりを持たず、ただひとりであれ、ということです。</p>
<p>一人歩む、というのは仏教では好んで用いられるモチーフですが、兼好がここで言いたいのは、人と交わるときに主体性を失っては意味がない、ということです。</p>
<div class="simple-box9">
<p>人に戯れ、物に争い、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。</p>
<p>分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑いの上に酔えり。酔の中に夢をなす</p>
</div>
<p>「惑いの上に酔えり」とは面白い言い方です。</p>
<p>確かに私たちは人や物に関わりをもてば、いつの間にか自分の主体性を失い、人や物に振り回されるようになりがちです。</p>
<p>まさに「惑いの上に酔えり」です。</p>
<p>といって、人と関わらず孤独に生きることは不可能です。</p>
<p>当時ではなおさらでしょう。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
だからこそ、兼好にとって孤独こそ貴重なものだったのでしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>第85段　偽りても賢を学ばんを賢といふべし</h3>
<p>徒然草のなかでは珍しく積極性のある主張です。</p>
<p>この段の冒頭は、</p>
<div class="simple-box9">
<p>人の心すなほならねば、偽りなきしもあらず</p>
</div>
<p>確かにその通りでしょう。</p>
<p>私たちは始終ウソばかりついているといってもいいでしょう。</p>
<p>他人の顔色を窺い、言いたいことも言わず、建前で生活する。</p>
<p>社会生活とはそういうものです。</p>
<p>ですが、兼好は「偽り」が悪いと言いたいのではありません。</p>
<p>「偽り」でもいいから、賢者になろうと努力しろと言いたいのです。</p>
<div class="simple-box9">
<p>至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす、と謗る</p>
</div>
<p>こういう人は確かにいます。</p>
<p>私たちはそういう非難に挫けてはならない。</p>
<p>「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」</p>
<p>そうであるならば、「舜を学ぶは舜の徒なり」</p>
<p>舜とは、古代中国の伝説上の名君です。</p>
<p>私たちは「偽りても」賢を学ぶべきなのです。</p>
<p>むしろ「偽り」ニセモノだからこそ、賢者になろうと志を立てるべきなのです。</p>
<p>なぜなら、「偽りても賢を学ばんを賢といふべし」だからです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
何かを始めようという人や、学問に迷いを感じたひとは、ぜひこの段を読んでほしいと思います。</p>
<p>そういう人々への力強いエールになると信じるからです。
</p></div>
</div></div>
<h3>第175段　百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起れ</h3>
<p>酒の飲みすぎで身体をこわす人は、時代を問わず存在します。</p>
<p>兼好の時代にも、そして私たちのすぐそばにも。</p>
<div class="simple-box9">
<p>酒を勧めて、強い飲ませるを興とする事、如何なる故とも心得ず</p>
</div>
<p>室町時代から無理に飲ませようとする人がいたというのは面白いことです。</p>
<p>日本人は昔から変わっていないようですね。</p>
<p>これは長い段ですが、内容は目新しいものではありません。</p>
<p>なぜなら、酒の醜態について書いているからです。</p>
<p>酒の醜態なら、兼好に教えてもらうまでもありません。</p>
<p>私たち自身、そういう経験もし、また他人の醜態に眉をひそめたこともあるはずです。</p>
<p>兼好も酒を飲む人に対して随分辛辣なことも書いています。</p>
<p>この点は兼好も現代人も同じです。</p>
<p>くみ取るべき教訓もやはり一緒です。</p>
<p>酒はほどほどにしましょうということですから。</p>
<h3>第190段　妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ</h3>
<p>女のせいでひどい目にあったことがあるのか、と思わせるほど兼好の女性に対する姿勢は厳しいです。</p>
<p>この段は、その代表格です。</p>
<p>ほとんど女性に対する罵詈雑言です。</p>
<p>よっぽど恨みでもあるのでしょうか。</p>
<p>「家のうちをおこなひをさめたる女、いと口惜し」とか、<br />
「子など出来て、かしづき愛したる、心憂し」とか、<br />
「いかなる女なりとも、明け暮れ添い見んには、いと心づきなく、憎かりなん」など、言いたい放題です。</p>
<p>しかも、「男亡くなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし」など、なぜそういう意見になるのかさっぱりわかりません。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
女性へのこういう悪罵は、兼好の人となりをよく表していて非常に興味深いですね。</p>
<p>人間誰しも変なこだわりがあるといういい例だと思います。
</p></div>
</div></div>
<h2>3行でわかる兼好法師のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>歌人として有名だった</li>
<li>「徒然草」の著者として、日本文学史に名を刻む</li>
<li>時の権力者のためにラブレターの代筆もした</li>
</ul>
</div>
<p>兼好法師は「徒然草」の作者として、これからもその名前を永遠に伝えていきます。</p>
<p>この記事で兼好に興味を持った方は、ぜひ一度、「徒然草」を手に取ってみてはいかがでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>新田義貞は何をした人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Aug 2019 01:26:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1325</guid>

					<description><![CDATA[新田義貞は南北朝時代の主人公の一人です。 足利尊氏と比較されることが多いですが、尊氏とはまったくタイプの違う典型的な武士、それが新田義貞です。 不器用な人、といえるかもしれません。 今回は新田義貞にスポットを当てていきま]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>新田義貞は南北朝時代の主人公の一人です。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>と比較されることが多いですが、尊氏とはまったくタイプの違う典型的な武士、それが新田義貞です。</p>
<p>不器用な人、といえるかもしれません。</p>
<p>今回は新田義貞にスポットを当てていきます。</p>
<p>まずは、彼の生涯を振り返ってみましょう。</p>
<h2>新田義貞のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生年　不明（1301年ごろ？）</li>
<li>死没　1338年閏7月2日</li>
</ul>
</div>
<p>新田義貞は上野（群馬県）の御家人です。</p>
<p>新田氏は、<a href="https://rekishigaiden.com/yoshiie/">源義家</a>の三男・義国にさかのぼる武家の名門です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
義貞は、武家の名門を引き継いでいく宿命を背負って生まれてきたといえるでしょう。
</div>
</div></div>
<p>義国の長男・義重のときに上野国の新田荘を領し、「新田」氏を名乗り始めました。</p>
<p>義貞の父は新田朝氏（ともうじ）で、45歳で亡くなっています。</p>
<p>義貞の兄弟としては弟の脇屋義助が有名です。</p>
<p>兄・義貞を支え、数々の戦場をともにし、義貞死後も南朝側の中心となって北陸地方で転戦しました。</p>
<p>義貞の生年は1301年ごろと推測されていますが、確定はされていません。</p>
<p>ただ、その前後とみて間違いないでしょう。</p>
<p>鎌倉幕府体制のもとで成長し、御家人としてその一翼を担う立場にあった義貞は、元弘の乱において幕府の命令で</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>討伐にも参加しています。</p>
<p>義貞は30歳前後でした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
千早城攻めに参加した義貞は、社会のうねりと変革へのエネルギーを肌で感じたのではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>鎌倉幕府を滅亡させる</h3>
<p>1333年3月には幕府の許可を得ずに兵をまとめて勝手に上野国に帰ってしまいます。</p>
<p>許可なく戦線離脱するのは、明白な反逆行為です。</p>
<p>「太平記」では、義貞がひそかに<a href="https://rekishigaiden.com/godaigo/">後醍醐天皇</a>の綸旨を受け取り、倒幕の密勅を下されたように書いていますが、はたしてどうでしょう。</p>
<p>その点は不明ですが、勝手に軍を引き上げた義貞の行動は完全に反逆であることは誰の目にも明らかでした。</p>
<p>幕府も義貞に疑惑の目を向け、圧力を強めていきます。</p>
<p>義貞も決断を迫られます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>1333年5月、義貞はついに挙兵し、反幕府の姿勢を示しました。</p>
<p>各地の反幕府勢力が義貞のもとに結集し、大勢力となった義貞軍は幕府軍を各地で破り、ついに<span class="marker">鎌倉幕府を滅亡させます。</span></p>
<h3>足利尊氏との対立</h3>
<p>建武の新政が開始されると、幕府を滅ぼした直接の功労者である義貞と、新政府に対する不満を吸い上げて勢力拡大する<span class="marker">足利尊氏との対立</span>が、誰の目にも明らかになってきます。</p>
<p>1335年、北条氏の残党による中先代の乱を平定した<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>は、戦後処理を新政府の裁可を得ずに独断で実行します。</p>
<p>この尊氏の行動を問題視した新政府は、尊氏の行動を反逆と決定し、新田義貞をして討伐にむかわせます。</p>
<p>尊氏と義貞は竹ノ下で激突し、義貞は敗北し、尊氏の追撃を許してしまいます。</p>
<p>一度は<a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>や北畠顕家らと尊氏を九州に追放しますが、勢力を回復した尊氏によって湊川で大敗し、京都を尊氏に奪われました。</p>
<p>このとき、<a href="https://rekishigaiden.com/godaigo/">後醍醐天皇</a>は足利尊氏とひそかに和議を結ぼうとし、そのことを義貞には伝えずに和平工作を進めようとしていました。</p>
<p>義貞は蚊帳の外に置かれた格好です。</p>
<p>命を懸けて新政府のために戦ってきた義貞とその一門は激怒します。</p>
<p>軍勢を率いて後醍醐天皇に直談判におよび、このとき天皇は、和平工作は敵の目を欺くための計略である、とその場を取り繕います。</p>
<div class="m50"></div>
<p>この一件で後醍醐天皇への信頼もゆらいでしまったのでしょうか、この後、義貞は皇子の恒良親王を擁して北陸へ転戦することになります。</p>
<p>金ヶ崎城（福井県敦賀市）を拠点として越前で勢力固めを計画しますが、足利軍の攻撃により金ヶ崎城は落城し、恒良親王も捕虜となってしまいました。</p>
<p>義貞はどうにか脱出に成功し、その後も越前で転戦しますが、もはや昔日の勢いを取り戻すことはできませんでした。</p>
<p>1338年、藤島城（福井市）付近での戦闘で負傷し、これまでと観念して自害して果てました。</p>
<p>1301年生まれであれば、享年38歳でした。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>新田義貞は何をした人？</h2>
<h3>生品神社で挙兵</h3>
<p>新田義貞が鎌倉幕府に対して挙兵したのは1333年5月8日、生品神社（群馬県太田市）においてです。</p>
<p>このとき、義貞に付き従ったもの、およそ150騎と伝えられています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ちなみに、生品神社は、義貞が挙兵した地として国の史跡に指定されています。
</div>
</div></div>
<p>挙兵した義貞軍は、各地から集まる反幕府軍を糾合して、利根川を渡って武蔵国（埼玉県）に入ったころには20万以上の軍勢に膨れ上がっていたと「太平記」にあります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
20万というのはもちろん誇張でしょうが、反幕府の流れがいかにすさまじいものだったか、参考になる数字ではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>大軍となった義貞軍は、いよいよ幕府軍の主力と激突することになるのです。</p>
<h3>分倍河原の戦い</h3>
<p>すさまじい大軍となって南下する義貞軍に対して、幕府とて、ただ手をこまねいて見ていただけではありません。</p>
<p>桜田貞国を大将とする幕府の主力が北上して義貞軍を迎え撃ちます。</p>
<p>義貞軍は幕府軍を小手指原の戦い、さらに久米川の戦いで続けざまに破り、幕府軍を退却に追い込みます。</p>
<p>しかし、幕府は援軍として北条泰家を派遣し、多摩川の分倍河原（東京都府中市）まで進軍し、撤退してきた桜田貞国と合流して態勢をととのえ、義貞軍を迎撃しようとします。</p>
<p>5月15日、両軍はついに刃を交えます。</p>
<p>戦況は幕府軍に有利に進展します。</p>
<p>義貞軍は敗走し、堀兼（狭山市）まで退却を余儀なくされます。</p>
<p>しかし、相模の大多和義勝が幕府を裏切って義貞軍に与すると、形成は逆転します。</p>
<p>16日、義貞軍の奇襲を受け、幕府軍は崩壊し、勝敗は決しました。</p>
<p>同時に、鎌倉幕府の運命もここに決まったのです。</p>
<h3>足利尊氏とのライバル関係</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>とのライバル関係は、建武の新政直後から始まっています。</p>
<p>そもそも新田家は、足利家と並ぶ武家の名家であり、両者は好敵手として世間に認められていたようです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
おそらくは本人たちもそのことを自覚していたと思われます。
</div>
</div></div>
<p>鎌倉を攻略し、幕府に引導を渡したのは義貞でしたが、武家の棟梁として世間が心を寄せたのは、足利尊氏のほうでした。</p>
<p>確かに、尊氏が後醍醐天皇側について京都の六波羅を滅ぼしたとき、情勢は決定的となったといえます。</p>
<p>しかし、義貞の鎌倉攻略も簡単におこなわれたわけではありません。</p>
<p>義貞が決起したとき、手勢はわずか百数十騎だったと伝えられています。</p>
<p>義貞が滅ぼされるリスクは、決して低いとはいえなかったのです。</p>
<p>それでも、人心は水が低いところに流れるように、足利尊氏に集まっていくのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
やはり、尊氏の人徳と度量というものでしょう。</p>
<p>義貞は内心、面白くなかったでしょう。
</p></div>
</div></div>
<p>両者が比較されればされるほど、両者の溝は深まっていきました。</p>
<p>やがて建武政権に公然と背くようになった尊氏を、義貞が政府軍として討伐する情勢となります。</p>
<p>両者はついに、竹ノ下（静岡県）で一戦を交えます。</p>
<p>この戦いでは、勢いに乗る尊氏軍が義貞を圧倒し、義貞は退却を余儀なくされます。</p>
<p>義貞を追撃する尊氏は、そのまま京都まで攻め上りますが、このときは<a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>・北畠顕家らによる活躍で尊氏を退けることに成功しました。</p>
<p>しかし、それもつかの間の勝利にすぎません。</p>
<p>勢力を回復した尊氏によって楠木正成は討ち取られ、義貞も京都から越前（福井県）へと活動の場を変えざるを得なくなります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
好敵手として比較されがちな尊氏と義貞ですが、残念ながら軍人としても政治家としても、義貞は尊氏の敵ではなかったといえましょう。
</div>
</div></div>
<h2>新田義貞のエピソード・逸話</h2>
<h3>稲村ケ崎で刀を海に投ずる</h3>
<p>これは、鎌倉幕府攻めのクライマックスでの出来事です。</p>
<p>分倍河原での合戦に勝利した義貞軍は多摩川を渡り、ゆく先々で幕府軍を蹴散らし、まさに破竹の勢いで鎌倉へと殺到しました。</p>
<p>しかし、鎌倉は海と山に囲まれた天然の要塞です。</p>
<p>さすがの義貞もここにきて攻めあぐねてしまいます。</p>
<p>鎌倉の西側にある極楽寺方面での膠着状態を打開するため、義貞みずから援軍として稲村ケ崎に展開します。</p>
<p>幕府とて必死です。</p>
<p>義貞軍に対する備えは万全でした。</p>
<p>稲村ケ崎沖には軍船を配備し、義貞軍を通過させまいとします。</p>
<p>しかも、稲村ケ崎は道路が狭く、大軍が通過することはできません。</p>
<p>しかし、5月21日、義貞は干潮の時を狙って軍を一気に突破させます。</p>
<p>このときのエピソードが、<span class="marker">義貞が黄金の太刀を海に投じて龍神に捧げ、その力で大軍が渡れた</span>というものです。</p>
<p>もちろん、これは義貞のパフォーマンスですが、義貞が干潮の時刻を把握した上で、こういったパフォーマンスを行ったというのはなかなかしたたかな行為です。</p>
<p>「太平記」でもこのエピソードは紹介されていますが、当時有名なものだったのでしょう。</p>
<p>惜しむらくは、義貞がこのような人心収攬術をこれ以降ほとんど使った形跡がないことです。</p>
<p>この鎌倉攻略が、義貞の人生において重荷になってしまったのかもしれません。</p>
<p>それほどの大戦果だったからです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
その後の義貞の行動を見ると、大きなプレッシャーのもとで自分の力を十分に発揮できず、自滅していく過程に見えるのは残念なことです。
</div>
</div></div>
<h3>典型的な武士型性格</h3>
<p>新田義貞は、真面目な性格だったのでしょう。</p>
<p>状況によっては、その真面目な性格が頑迷さとしてあらわれ、戦況を左右することにもなります。</p>
<p>基本的には大軍の将をつとめる器ではないといえます。</p>
<p>湊川の合戦の際も、世間の評判や総大将としての重圧などを吐露して<a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>に窘められています。</p>
<p>また、何度か<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>に一騎打ちを挑んで勝敗を決しようとするなど、指揮官らしからぬ振る舞いが目立ちます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
武士としては潔いですが、一軍の将としては疑問符がつくのではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかる新田義貞のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>鎌倉を攻略し、鎌倉幕府を滅ぼした</li>
<li>南朝側の総大将として、足利尊氏としばしば激突した</li>
<li>政治的遊泳術を苦手とする不器用な性格だった</li>
<li>福井県の藤島神社にいまも祀られている</li>
</ul>
</div>
<p>新田義貞は、社会が大きく変わろうとする時代の主人公の一人です。</p>
<p>彼は、きわめて重要な役を演じました。</p>
<p>しかし、それは彼にとって演じたくない役柄だったのかもしれません。</p>
<p>彼の人生から感じるのは、自分が望んでいない役を演じなければならなかった者の悲劇です。</p>
<p>そう考えれば、新田義貞は私たちにとって遠い存在ではありません。</p>
<p>私たちも、望まない役を押し付けられているかもしれないからです。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>チンギスハンってどんな人？源義経と同一人物って本当？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/chingisuhan/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/chingisuhan/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 26 Aug 2019 05:57:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1179</guid>

					<description><![CDATA[モンゴル帝国を開いたことで有名なチンギス・ハンはどのような人物だったのでしょうか？ 帝国を築くまでの生い立ちやその活躍、エピソードについてご紹介します。 チンギスハンのプロフィール 名前：チンギス・ハン（漢字では成吉思汗]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>モンゴル帝国を開いたことで有名なチンギス・ハンはどのような人物だったのでしょうか？</p>
<p>帝国を築くまでの生い立ちやその活躍、エピソードについてご紹介します。</p>
<h2>チンギスハンのプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>名前：チンギス・ハン（漢字では成吉思汗）</li>
<li>生誕：1162年5月31日</li>
<li>死没：1227年8月25日</li>
<li>享年：65歳</li>
</ul>
</div>
<h2>チンギスハンは何した人？</h2>
<p>チンギス・ハンはモンゴルで有力な部族の首長であるイェスゲイ・バアトルの長男として生まれました。</p>
<p>イェスゲイ・バアトルは、有力部族であるケレイトの王トグリルと同盟を結んで勢力を拡大していました。</p>
<p>しかし、イェスゲイはチンギスがわずか9歳のときに暗殺され、母に育てられることになりました。</p>
<p>イェスゲイが亡くなった後、家臣たちは次々に去っていき、周囲の部族たちも好き勝手をするようになりました。</p>
<p>そうして、チンギスもタイチウトという部族に捕らえられてしまいます。</p>
<p>しかし違う部族の助けもあり、なんとか逃げ出すことができました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
幼い頃から波乱万丈ですね。
</div>
</div></div>
<h3>モンゴルを統一</h3>
<p>成長したチンギスは、亡き父に仕えていた戦士や遊牧民などを従えるようになり、族長としての力を発揮していきます。</p>
<p>当時のモンゴルには大小の様々な部族がいました。</p>
<p>これをチンギスはひとつずつ制圧していきます。</p>
<p>他の部族で特に大きな敵となったのは、ジャムカとオン・ハンという部族でした。</p>
<p>ジャムカはチンギスが狙われていたときに助けてくれた盟友でしたが、このときには敵同士になっていました。</p>
<p>ジャムカはタイチウト族と連合軍を結び立ち向かいますが、チンギスはこれを1200年に撃破します。</p>
<p>その後も次々と部族を制圧し、1205年に<span class="marker">モンゴルを統一する</span>ことに成功しました。</p>
<p>1206年、クリルタイというモンゴル部族長の大集会でハンに抜擢され、名前をチンギス・ハンと称するようになりました。</p>
<p>この即位によりモンゴル帝国が成立しました。</p>
<h3>外国を侵略</h3>
<p>チンギスはモンゴル帝国を強固なものにするために、まず組織改革を行いました。</p>
<p>制圧した遊牧民を領民に、諸部族の指導者を貴族として分けました。</p>
<p>貴族には千人隊長という役職を与え、領民はその下とし、千人隊と呼ばれる集団としました。</p>
<p>将来の幹部を育成するための機関や情報伝達を行うための機関なども設け、軍隊国家の基礎をつくりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
武力ではなく、国をまとめるセンスもあったのですね。
</div>
</div></div>
<p>また領土を広げるために、<span class="marker">諸外国への侵略も始めます。</span></p>
<p>1211年、中国の金と開戦します。</p>
<p>最初は中国軍の強靭な守りによって侵略に失敗しました。</p>
<p>しかし、中国との闘いで攻城戦術を学んで攻略できるようになると、1215年には金に勝利し領土にすることができました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>1219年頃からは西に勢力を広げます。</p>
<p>ナイマンという国の王は西遼の王位を奪いトルキスタンに逃れていました。</p>
<p>この混乱を利用して、チンギスは家臣を向かわせナイマンを滅ぼしました。</p>
<p>西遼に属していた西ウイグル王国も支配下にし、ウイグル人をモンゴル帝国の官僚にしました。</p>
<p>さらに当時の中央アジアで力を持っていたホラズム・シャー国も征服し、イランにも侵攻しました。</p>
<p>その部下の一部は南ロシアにまで侵入しました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>1227年にはモンゴル高原の南に位置する西夏に遠征しました。</p>
<p>しかしこの遠征中に危篤状態となり、この世を去りました。</p>
<p>チンギスの死は敵軍に知られないよう極秘にされ、遺体の搬送作業を見た者は殺害されるほどでした。</p>
<p>モンゴル高原に埋葬されたとされていますが、墓の所在地は現在も分かっていません。</p>
<h3>子孫がモンゴル帝国をさらに拡大</h3>
<p>チンギスには4人の息子がおり、これまでの戦で手に入れた領地を息子たちに分け与えました。</p>
<p>長男のジュチは戦での働きも優秀でしたが、若くして亡くなってしまいました。</p>
<p>次男のチャガタイは気性が荒く、人望がありませんでした。</p>
<p>三男のオゴデイはおとなしく、四男のトゥルイは父親に最もかわいがわれており優秀な実力者でしたが、後継者には三男のオゴデイが指名されました。</p>
<p>ちなみに、四男トゥルイの息子が有名なフビライ・ハンの父親にあたり、<a href="https://rekishigaiden.com/fubiraihan/">フビライ・ハン</a>はチンギス・ハンの孫となります。</p>
<p><span class="marker">フビライ・ハンは祖父が築いたモンゴル帝国をさらに拡大</span>させ、強固なものとしていきました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>チンギスハンは源義経だった？</h2>
<p>チンギス・ハンは<a href="https://rekishigaiden.com/yoshitsune/">源義経</a>だったのではないかという噂があります。</p>
<p>源義経は、鎌倉幕府を開いた<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>の異母弟にあたります。</p>
<p>平氏を滅ぼすために兄に協力し、圧倒的な強さで敵を撃破、討伐の力となりました。</p>
<p>しかし、その強さゆえに源頼朝と対立関係になり、奥州に逃れましたが追い詰められ自害したとされています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかしこの源義経は亡くなっておらず、蝦夷地に逃げたという一説もあります。</p>
<p>その後大陸に渡り、なんとチンギス・ハンになったという説まで誕生しました。</p>
<p>戦で抜群のセンスを発揮し、次々と敵を倒した功績のある義経は確かに帝国を築いたチンギス・ハンとの共通点もありますが、はっきりとした証拠はどうやらないようです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
真相は闇の中…ですね。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかるチンギスハンのまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>父の死後、一時は敵に捕らえられたりもしたが、部下を統率し力をつけていく</li>
<li>周囲の部族を次々と制圧し、モンゴル帝国を開く</li>
<li>諸外国も侵略し、代々領土を拡大していく基礎を築く</li>
<li>源義経と同一人物の一説があるが、真相ははっきりしていない</li>
</ul>
</div>
<p>チンギス・ハンが築いたモンゴル帝国は、人類史上最大規模といわれています。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/yoshitsune/">源義経</a>がチンギス・ハンになったとすると、日本人としては夢がある話ですが、残念ながらはっきりとは分からないようです。</p>
<p>今後真相に迫るような証拠が発見されるといいですね！</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://rekishigaiden.com/chingisuhan/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>後醍醐天皇ってどんな人？隠岐の島への配流や足利尊氏との関係など</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/godaigo/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/godaigo/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 24 Aug 2019 04:02:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1306</guid>

					<description><![CDATA[源頼朝が武家政権を確立してから、形式上は皇室を戴く武家でしたが、実質は皇室が武家の風下に立つことになりました。 この状況を打開しようとする大きな騒乱が二つありました。 一つは後鳥羽上皇による承久の乱、もう一つは後醍醐天皇]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>が武家政権を確立してから、形式上は皇室を戴く武家でしたが、実質は皇室が武家の風下に立つことになりました。</p>
<p>この状況を打開しようとする大きな騒乱が二つありました。</p>
<p>一つは<a href="https://rekishigaiden.com/gotobajoko/">後鳥羽上皇</a>による承久の乱、もう一つは後醍醐天皇の元弘の乱です。</p>
<p>前者は皇室の敗退に終わりましたが、後醍醐天皇は宿願をはたし、鎌倉幕府を崩壊させ、天皇による親政を一時的ではありますが復活させました。</p>
<p>しかし、戦後の処置を誤ったがために、その後の日本史の流れを大きく変える混沌の時代を招来する結果となってしまいました。</p>
<p>今回の主役は、その後醍醐天皇です。</p>
<p>後鳥羽上皇に通じる個性をもつ後醍醐天皇の生涯をまずは見ていきましょう。</p>
<h2>後醍醐天皇のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　1288年11月2日</li>
<li>死没　1339年8月16日</li>
<li>在位　1318年2月26日～1339年8月15日</li>
<li>名前　尊治（たかはる）</li>
<li>享年　52歳</li>
</ul>
</div>
<p>後醍醐天皇は1288年に後宇多天皇の第2皇子として生まれました。</p>
<p>1318年に即位すると、後宇多上皇の院政をしりぞけ、自ら政務をとり始めます。</p>
<p>和漢の古典に通じる教養人だった後醍醐天皇は、漢籍では特に朱子学を好み、政治への関心が非常に高かったのです。</p>
<div class="m50"></div>
<p>時は折しも、元寇後の窮乏しつつある御家人と、専制権力をつよめる北条氏との対比が鮮明になってきたときです。</p>
<p>世論の幕府に対する不満が高まりつつある情勢を見て、後醍醐天皇は倒幕計画を実行に移そうとします。</p>
<p>1324年の<span class="marker">正中の変</span>と1331年の<span class="marker">元弘の乱</span>です。</p>
<p>正中の変は実行前に計画がバレて失敗し、元弘の乱は天皇自身、隠岐の島に配流されるなどリスクも負いましたが、1333年に<span class="marker">鎌倉幕府を倒すことに成功</span>しました。</p>
<p>天皇のもとに統治権を奪還し、いよいよ理想の政治を行う機会に恵まれた後醍醐天皇ですが、当時の現実にマッチしない政策は、即座に武士たちの失望を招きました。</p>
<p>武士たちの関心は土地の安堵や土地をめぐるトラブルの仲裁だったはずですが、<span class="marker">建武の新政</span>はこのニーズに答えることができませんでした。</p>
<div class="m50"></div>
<p>かわって武士たちの期待を集めたのは、<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>です。</p>
<p>両者の激突は必至でした。</p>
<p>一度は尊氏を九州に追いやった新政府ですが、尊氏は再び勢力を回復して京都を占領し、後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇を擁立します。</p>
<p>京都を脱出した後醍醐天皇はこれを認めず、吉野（奈良県）に拠って尊氏に徹底抗戦します。</p>
<p>約60年にわたる<span class="marker">南北朝時代の始まり</span>です。</p>
<p>しかし、<a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>や北畠顕家、<a href="https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/">新田義貞</a>など主要な戦力を失った後醍醐天皇には、尊氏を打ち破る力は残っていません。</p>
<p>後醍醐天皇は1339年、波乱の生涯を吉野で閉じました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>後醍醐天皇は何したひと？</h2>
<h3>武家から権力を奪還する</h3>
<p>後醍醐天皇の倒幕運動は、1324年の正中の変と、1332年の元弘の乱との二つがあります。</p>
<p><span class="marker">元弘の乱</span>は、最後は幕府の滅亡という形で決着しました。</p>
<p>鎌倉幕府衰亡の原因の一つは元寇にあります。</p>
<div class="concept-box6">
<p>国難ともいえる蒙古軍襲来を退けた御家人たちですが、新たな領地を獲得したわけでもなく、御家人たちの経済状況は改善されませんでした。</p>
<p>幕府にたいする不満が徐々に蓄積されていったのです。</p>
</div>
<p>こういった政治状況を背景に、後醍醐天皇が即位します。</p>
<p>皇位の継承には持明院統と大覚寺統との争いがあり、後醍醐天皇は大覚寺統ですが、次代の天皇は持明院統から出すことになっていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
両統から交互に天皇を出す両統迭立を勧めたのが幕府ですから、後醍醐天皇にとって幕府は不愉快な存在だったのでしょう。
</div>
</div></div>
<p>後醍醐天皇はひそかに倒幕の計画を練っていきます。</p>
<p>最初の計画は実行の前に露見し、近臣の日野資朝は佐渡に流され、日野俊基は許され、後醍醐天皇もお咎めなしでした。</p>
<p>これが1324年の<span class="marker">正中の変</span>です。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかし、後醍醐天皇は倒幕をあきらめません。</p>
<p>ふたたび日野俊基らとともに、倒幕計画を水面下で実行しようとします。</p>
<p>今回も幕府に情報が洩れてしまいますが、天皇は笠置山にて挙兵します。</p>
<p>河内では<a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>が呼応し、赤坂城で挙兵します。</p>
<p>1331年、<span class="marker">元弘の乱</span>の始まりです。</p>
<p>幕府は実力で反乱軍を粉砕し、正成は行方をくらまし、後醍醐天皇は隠岐の島に配流ということになってしまいます。</p>
<p>しかし、姿をくらました楠木正成が千早城に拠り再び反旗を翻すと、情勢が動き出します。</p>
<p>各地で幕府に対する反発が激しくなり、<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>が後醍醐天皇側について六波羅を攻め落としたとき、情勢は決定的となりました。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/">新田義貞</a>に鎌倉を攻め落とされ、鎌倉幕府は滅亡し、天皇親政による建武の新政が始まったのです。</p>
<h3>南北朝の分裂を招く</h3>
<p><span class="marker">建武の新政</span>は、天皇親政の理想を実行しようとするあまり、非常に性急なものでした。</p>
<p>土地所有権の保証が天皇の綸旨のみと定められますが、これが混乱の原因の一つとなります。</p>
<p>「このごろ都に流行るもの、夜討ち強盗にせ綸旨」</p>
<p>と二条河原落書にうたわれたように、土地をめぐる争いはかえって悪化しました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>建武の新政に対する不満を吸い上げ、勢力を拡大したのが<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>です。</p>
<p>中先代の乱以降、尊氏は朝廷にたいする敵対を鮮明にします。</p>
<p>後醍醐天皇はついに尊氏追討を命じました。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/ashikagatakauji-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="足利尊氏" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">足利尊氏ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめました</span><span class="blog-card-excerpt">足利尊氏といえば歴史の教科書で言えば室町幕府を開いた人として知られていますが、具体的にどのような事をしたのか、幕府を開いた以外に何をした...</span></div></div></a>
<p>一度は敗れて九州に逃れた足利尊氏でしたが、九州の諸勢力を糾合してすぐさま態勢をととのえ、京都に向けて進撃を開始します。</p>
<p>途中の湊川（神戸市）では<a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>を破り、即座に京都を制圧します。</p>
<div class="m50"></div>
<p>尊氏がまずおこなったことは、持明院統の光明天皇（在位1336～48）を担ぎ上げたことです。</p>
<p>武家の支持を得ていたとはいえ、尊氏は後醍醐天皇のもとでは皇室に弓引いた逆賊です。</p>
<p>尊氏は、統治するうえでの権威の必要性を十分に理解していたからこそ、天皇が必要だったのです。</p>
<p>しかし、後醍醐天皇は、京都を脱出し吉野（奈良県）にのがれ、光明天皇の即位を当然認めません。</p>
<p>京都の光明天皇と、吉野の後醍醐天皇と、天皇が二人いるという異常な状態が約60年続くことになります。</p>
<p>いわゆる<span class="marker">南北朝時代</span>です。</p>
<p>権威の分裂は、社会の分裂を招来しないではおきません。</p>
<p>以後、<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshimitsu/">足利義満</a>の時代に南北朝の対立は一応ケリがつきましたが、傷ついた権威はもとには戻りませんでした。</p>
<p>内に孕んだ分裂の徴候は、応仁の乱にいたってピークに達し、血で血を洗う戦国時代の扉を開くことになるのです。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>後醍醐天皇のエピソード・逸話</h2>
<h3>隠岐の島に流される</h3>
<p>1332年、後醍醐天皇は<span class="marker">隠岐の島に配流となりました。</span></p>
<p>2度にわたる倒幕運動がその理由です。</p>
<p>正中の変で責任を問われた日野俊基と、佐渡に流されていた日野資朝は、この時処刑されました。</p>
<p>承久の乱で隠岐に流された<a href="https://rekishigaiden.com/gotobajoko/">後鳥羽上皇</a>は、隠岐の島で亡くなっています。</p>
<p>後醍醐天皇もこの地で生涯を終えるかと思われましたが、<a href="https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/">楠木正成</a>が再び挙兵したのをきっかけに、各地で幕府に対する反対運動が活発になってきました。</p>
<p>天皇も隠岐を脱出し、名和長年と合流し、倒幕運動に復帰することができました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
隠岐に滞在していたのは実質1年にも満たない短い期間でしたが、後鳥羽上皇も配流された隠岐での日々をどのような気持ちで過ごしたか、想像してみるのも面白いかもしれません。
</div>
</div></div>
<h3>護良親王との不和</h3>
<p>護良親王は後醍醐天皇の皇子であり、天皇の幕府打倒を積極的に支えた功労者でもあります。</p>
<p>特に後醍醐天皇が隠岐に流されたあとは、護良親王が中心となって倒幕運動を盛り上げた感さえあります。</p>
<p>実際、護良親王は前線の戦場に身をさらすことも厭いませんでした。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかし、いざ幕府が倒れてみると、護良親王はなぜか政治の中心から遠ざけられてしまいます。</p>
<p>もちろん、親王を遠ざけたのは後醍醐天皇の意向です。</p>
<p>変わって政治の表舞台に登場してきたのが、<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagayoshimitsu/">足利尊氏</a>でした。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/ashikagatakauji-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="足利尊氏" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">足利尊氏ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめました</span><span class="blog-card-excerpt">足利尊氏といえば歴史の教科書で言えば室町幕府を開いた人として知られていますが、具体的にどのような事をしたのか、幕府を開いた以外に何をした...</span></div></div></a>
<p>護良親王と尊氏の対立が深まり、親王は信貴山で軍備を整え、実力行使をにおわせます。</p>
<p>あわてた後醍醐天皇は護良親王を説得し、親王を征夷大将軍とすることで決着したかに見えました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかし、護良親王と尊氏の対立は収まらず、親王は尊氏殺害を計画し、その隙を伺います。</p>
<p>この尊氏殺害計画は当の尊氏の知るところとなり、尊氏は後醍醐天皇に強く抗議します。</p>
<p>天皇の返答は「自分は関係ない、護良のしたこと」です。</p>
<p>尊氏としては、護良親王という政敵を葬る格好の名目を手に入れたわけです。</p>
<p>親王は尊氏の勢力圏である鎌倉に幽閉されます。</p>
<p>「武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ」</p>
<p>親王はそうつぶやいたと伝えられています。</p>
<p>その後、1335年の中先代の乱による混乱のなかで、護良親王は足利直義によって殺害されました。</p>
<h2>3行でわかる後醍醐天皇のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>幕府倒幕に一度失敗し、隠岐の島に流される</li>
<li>幕府を打倒し、政権を皇室のもとに奪還する</li>
<li>論功行賞を誤り、さらなる混乱を招く</li>
</ul>
</div>
<p>後醍醐天皇は個性の強い天皇の一人です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
才気煥発、深い教養、強い政治への意志、承久の乱の<a href="https://rekishigaiden.com/gotobajoko/">後鳥羽上皇</a>に似ていると思います。
</div>
</div></div>
<p>しかし、後醍醐天皇は優れた資質の持ち主ではありましたが、時代の趨勢を読み切れていなかったといえましょう。</p>
<p>武士たちのニーズにあまりにも無頓着でした。</p>
<p>そのことが大混乱を招き、二人の天皇並立と、戦乱の世の扉を開けることにもなりました。</p>
<p>急激な改革は、混乱をひきおこすばかりで生産的な結果を生みにくい実例として、記憶にとどめておくべきでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>楠木正成ってどんな人？後醍醐天皇との関係は？赤坂の戦いから湊川の最期まで</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/kusunokimasashige/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 21 Aug 2019 06:09:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1202</guid>

					<description><![CDATA[楠木正成（くすのき まさしげ）ほど絶賛とともに言及される武将も珍しいでしょう。 名将として万人に認められる日本史でも稀有の人物です。 この記事では楠木正成をご紹介します。 優れた知性を持ちながら戦場の露と消えた正成は、悲]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>楠木正成（くすのき まさしげ）ほど絶賛とともに言及される武将も珍しいでしょう。</p>
<p>名将として万人に認められる日本史でも稀有の人物です。</p>
<p>この記事では楠木正成をご紹介します。</p>
<p>優れた知性を持ちながら戦場の露と消えた正成は、悲劇的なヒーローとして今も根強い人気を誇っています。</p>
<p>まずはその生涯と、彼が活躍した時代を一瞥してみましょう。</p>
<h2>楠木正成のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕　不明</li>
<li>死没　1336年5月25日</li>
</ul>
</div>
<p>楠木正成の生年は不明です。</p>
<p>出自も不明です。</p>
<p>さまざまな説がありますが、確実なところはわかりません。</p>
<p>父親も楠木正遠であろうといわれますが、はっきりしないそうです。</p>
<p>居館は河内（大阪府）にありました。</p>
<p>地元の豪族とも、北条氏得宗家の被官ともいわれますが、確証はありません。</p>
<p>ただ、本人は橘氏の後裔であると自称していたようです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
幼いころに寺で仏典を学んだという伝承もありますから、当時としてはかなりの教養人だったのではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>赤坂城の戦い</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/godaigo/">後醍醐天皇</a>が挙兵して元弘の乱が始まると、正成は即座に天皇に応じ<span class="marker">赤坂城に挙兵</span>します。</p>
<p>幕府は正成に大軍を差し向け、1ヵ月ほどの激しい攻防ののち、赤坂城は陥落しますが、正成は無事に脱出します。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
長期戦には適さない赤坂城をあえて捨てて、再起を図ったとする説もあります。
</div>
</div></div>
<p>後醍醐天皇は捕らえられて隠岐の島に配流され、元弘の乱は収束したかに見えましたが、正成はひそかに軍勢を集め、タイミングを狙っていました。</p>
<h3>千早城の戦い</h3>
<p>1332年、正成は<span class="marker">ふたたび赤坂城を奪取し、さらに千早城も築き、幕府の攻撃に備えます。</span></p>
<p>幕府は再度大軍を持って正成を包囲しますが、正成の奇策に翻弄され、千早城を攻め落とすことができません。</p>
<p>長引く包囲戦は、着実に幕府の権威を失墜させ、赤松則村の挙兵を招き、<a href="https://rekishigaiden.com/godaigo/">後醍醐天皇</a>の隠岐脱出で幕府討伐が現実のものとなってきます。</p>
<h3>建武の新政</h3>
<p>とどめは<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>の離反でした。</p>
<p>名声・実力ともに衆目の認めるところの尊氏の離反によって鎌倉幕府の命脈は事実上潰えました。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/">新田義貞</a>の鎌倉攻略後、<span class="marker">建武の新政</span>がスタートしますが、朝廷は急進的な政策で人心の離反を招き、その不満の受け皿として台頭してきたのが足利尊氏です。</p>
<p>正成や北畠顕家によって一度は九州へと逃げた尊氏でしたが、すぐさま九州の武士団とともに京都めざして東上を開始します。</p>
<p>楠木正成は正面衝突の愚を説き、京都におびき寄せて袋のネズミにする案を奏上しますが、聞き入れられません。</p>
<h3>湊川の戦い</h3>
<p>1336年、両軍は湊川（神戸市）で激突します。</p>
<p>尊氏の策にまんまと乗せられた<a href="https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/">新田義貞</a>は戦線を離脱し、残された正成軍は奮戦もおよびませんでした。</p>
<p>楠木正成は湊川にその生涯を閉じたのです。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>楠木正成は何した人？</h2>
<h3>元弘の乱で後醍醐天皇に呼応する</h3>
<p>1331年8月、<a href="https://rekishigaiden.com/godaigo/">後醍醐天皇</a>はついに鎌倉幕府を倒すために挙兵しました。</p>
<p>いわゆる<span class="marker">元弘の乱</span>です。</p>
<p>かねてより準備していた倒幕計画は事前に幕府の知るところとなり、後醍醐天皇は京都を脱出し、山城（京都府）の笠置山でついに兵を挙げたのです。</p>
<p>正成は素早く呼応し、笠置山に参内したあと、即座に河内の赤坂城に拠って挙兵します。</p>
<p>幕府の対応も素早いものでした。</p>
<p>大軍をもって後醍醐天皇が籠もる笠置山に襲い掛かり、早くも9月には笠置山を攻め落とし、後醍醐天皇らを捕らえました。</p>
<p>残るは赤坂城に拠る正成だけです。</p>
<div class="concept-box6">
<p>かつては、「太平記」などの記述から、正成の勢力を侮って油断した幕府が正成の奇策にさんざん翻弄され、赤坂城攻略に手間取ったように思われていました。</p>
<p>しかし、最近の研究では、むしろ幕府は万全の態勢をもって赤坂城攻めに着手していたことがわかってきました。</p>
</div>
<p>にもかかわらず、幕府軍は正成の息の根をとめることに失敗したのです。</p>
<p>正成だけではありません。</p>
<p>笠置山を脱出して赤坂城に入った護良親王も逃亡に成功しました。</p>
<p>正成、護良親王は1ヵ月の籠城戦ののち城を脱出したのです。</p>
<p>幕府からすれば、戦争目的を達成できなかっただけではありません。</p>
<p>幕府の権威失墜は避けられない事態となりました。</p>
<p>正成はしばし潜伏し、1332年、再び幕府に対して挙兵します。</p>
<p>千早城の戦いのはじまりです。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/godaigo/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/08/godaigo-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="後醍醐天皇" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">後醍醐天皇ってどんな人？隠岐の島への配流や足利尊氏との関係など</span><span class="blog-card-excerpt">源頼朝が武家政権を確立してから、形式上は皇室を戴く武家でしたが、実質は皇室が武家の風下に立つことになりました。

この状況を打開しよ...</span></div></div></a>
<h3>千早城の攻防</h3>
<p>1332年4月、行方不明だった正成が赤坂城を襲い、これを攻め落としました。</p>
<p>正成の復活と、鎌倉幕府滅亡のカウントダウンが始まりました。</p>
<p>幕府も正成が再挙兵し、勢力を拡大していることを知ると、大軍を河内に向かわせます。</p>
<p>正成は金剛山の<span class="marker">千早城を中心として防御を固めました。</span></p>
<div class="m50"></div>
<p>1333年2月に幕府の大軍はまず赤坂城を陥落させ、ついで千早城を包囲します。</p>
<p>ふたたび籠城戦です。</p>
<p>数で圧倒的に劣る正成は、ここでゲリラ作戦を中心に幕府軍を大いに翻弄します。</p>
<p>幕府軍は正成の千早城にくぎ付けにされてしまった格好ですが、正成の用兵の妙もあり、城は容易に落ちません。</p>
<p>この長期戦が幕府の権威を完全に失墜させました。</p>
<p>赤松則村など反幕府勢力が挙兵し、追討を命じられた<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>が幕府を裏切って京都の六波羅を攻撃したことで、鎌倉幕府の命運は尽きました。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/">新田義貞</a>が鎌倉を攻め落とし、北条氏の支配は終わりを告げました。</p>
<h3>湊川で戦死</h3>
<p>鎌倉幕府を倒した<a href="https://rekishigaiden.com/godaigo/">後醍醐天皇</a>は、<span class="marker">建武の新政</span>を開始します。</p>
<p>天皇を中心とした政治体制の確立を目的としたもので、理想色の強い不安定なものでした。</p>
<p>武士たちにとって一番の関心事であった土地の所有権については、天皇の綸旨（指令書）だけがその根拠とされました。</p>
<p>結果、綸旨を求めて地方の武士たちが大挙して京都に押し寄せることとなり、綸旨の発給が追い付かず、偽の綸旨が乱れ飛ぶという混乱状態となったのです。</p>
<div class="m50"></div>
<p>武士たちの新政権に対する失望は、あらたな棟梁の待望へと変わっていきます。</p>
<p>この武士たちの期待を一身に集めはじめたのが、<a href="https://rekishigaiden.com/ashikagatakauji/">足利尊氏</a>といっていいでしょう。</p>
<p>地方武士の反乱が勃発しはじめると、尊氏は朝廷に反する態度を隠そうとしなくなります。</p>
<p>後醍醐天皇は<a href="https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/">新田義貞</a>に命じて尊氏を撃たせますが、義貞は尊氏に撃破され、逆に尊氏に京都まで攻め上られる事態となりました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>楠木正成は、奥羽の北畠顕家とともに尊氏を破り、危機は一旦去りました。</p>
<p>しかし、九州に逃亡した尊氏はすぐさま勢力を盛り返し、再び京都目指して進撃を開始したのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
地方武士たちの朝廷への不満と、それを糾合する尊氏の人望と調整能力がよくわかると思います。
</div>
</div></div>
<p>数と勢いにおいて朝廷軍を凌ぐ足利尊氏軍に対して、正成は、一旦尊氏を京都に誘い込み、<a href="https://rekishigaiden.com/nittayoshisada/">新田義貞</a>と正成の軍で挟み撃ちにする作戦を立案します。</p>
<p>しかし、正成の意見は採用されません。</p>
<p>坊門清忠を代表とする、対面を気にする公家の与論が、天皇が京都から移動するのを嫌ったからです。</p>
<div class="m50"></div>
<p><span class="marker">義貞と正成は湊川（兵庫県神戸市）で尊氏軍を迎撃</span>することとなります。</p>
<p>しかし、新田義貞は所詮、尊氏の敵ではありませんでした。</p>
<p>尊氏の陽動にまんまと引っかかった義貞が戦線離脱し、正成軍は孤立してしまいます。</p>
<p>正成は最後まで奮闘しますが、圧倒的な戦力差はどうしようもありません。</p>
<p>1336年、正成は湊川にその生涯を閉じたのです。</p>
<p><!--Ads2--></p>
<h2>楠木正成のエピソード・逸話</h2>
<h3>優れた軍略家</h3>
<p>正成の軍人としての能力が最大限に発揮されたのは、千早城での攻防といえるでしょう。</p>
<p>ゲリラ戦を主として幕府の大軍を翻弄し、鎌倉幕府滅亡の大きな一因となったのは前述したとおりです。</p>
<p>当時の状況を知るための重要文献である「太平記」でも、正成は絶賛とともに言及されていますし、もう一つの重要文献「梅松論」でも正成は高い評価を得ています。</p>
<p>しかも、「梅松論」は足利系の文献ですから、正成は敵になるわけですが、それでも正成には同情的です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
当時の正成の評価がよくわかる事例といえます。
</div>
</div></div>
<h3>後世の絶賛と尊崇</h3>
<p>存命中から高い評価を獲得していた正成ですが、死後はいよいよその評価を高めていく結果となりました。</p>
<p>特に尊王思想が普及していく過程で、正成は優れた軍略家としてだけでなく、皇室に最後まで忠実だったものとして、崇拝されるようになっていきます。</p>
<p>正成の崇拝が高まるとともに、尊氏の評価が下落していくのは興味深いことです。</p>
<p>尊氏は皇室に弓引いた逆臣として散々にこき下ろされていくわけです。</p>
<p>尊王思想の風靡も収まった現在、尊氏の再評価も容易になり、やっと客観的に尊氏に向き合うことができるようになりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
正成の評価も落ち着きを見せていますが、それでも、彼の高い評価と人気は揺るがないようです。
</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる楠木正成のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>少数で幕府の大軍を翻弄する</li>
<li>足利尊氏の脅威を正しく認識していた</li>
<li>知性と品性を併せ持つ稀有の人物と見られていた</li>
</ul>
</div>
<p>正成ほど評価がぶれない人物も珍しいのではないでしょうか。</p>
<p>有名人物であればあるほど、その評価は褒貶相半ばするものです。</p>
<p>正成にはそういったところが見られません。</p>
<p>かつての崇拝熱はもはやありませんが、それでも彼の軍人としての実力を疑うものはいません。</p>
<p>これからも楠木正成は、日本人に愛され続けるキャラクターであり続けるでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>フビライ・ハンってどんな人？チンギス・ハンとの関係や元寇について</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/fubiraihan/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/fubiraihan/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 16 Aug 2019 03:51:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1035</guid>

					<description><![CDATA[フビライ・ハンは日本に攻めてきた「元寇」で有名な人物ですよね。 その生涯はどのようなものだったのでしょうか。 生い立ちから逸話まで、紹介していきます。 フビライ・ハンのプロフィール 名前：フビライ・ハン（モンゴル語の発音]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>フビライ・ハンは日本に攻めてきた「元寇」で有名な人物ですよね。</p>
<p>その生涯はどのようなものだったのでしょうか。</p>
<p>生い立ちから逸話まで、紹介していきます。</p>
<h2>フビライ・ハンのプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>名前：フビライ・ハン（モンゴル語の発音ではクビライ）</li>
<li>生誕：1215年9月23日</li>
<li>死没：1294年2月18日</li>
<li>享年：79歳 </li>
<li>時代：元（日本では鎌倉時代）</li>
</ul>
</div>
<h2>フビライ・ハンは何をした人？</h2>
<h3>チンギス・ハンの孫として生まれる</h3>
<p>フビライ・ハンは1215年に、<span class="marker">チンギス・ハンの4男であるトルイの子として生まれました。</span></p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/chingisuhan/">チンギス・ハン</a>とは、1206年にモンゴル帝国を建設した人物です。</p>
<p>当時のモンゴルは大小の様々な部族に分かれていたのですが、チンギス・ハンがこれを統一してモンゴル帝国としました。</p>
<p>さらに勢力を広げ、中央アジアなどの周辺の国も征服しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
フビライはこんな偉大な人物の孫として生まれたのですね。
</div>
</div></div>
<h3>モンゴルの皇帝になる</h3>
<p>フビライ・ハンは<span class="marker">モンゴルの皇帝</span>として有名ですが、すぐに皇帝になれたわけではなく、兄のモンケが先に第4代皇帝になりました。</p>
<p>モンケからの信頼は厚く、中国方面を征服するために大総督という役職を任されました。</p>
<p>中国征服に備えるためにチベットや雲南に遠征していた最中、1260年にモンケが急死しました。</p>
<p>これにより第5代皇帝として即位することになりました。</p>
<h3>モンゴル帝国を「元」に改名する</h3>
<p>皇帝になれたフビライですが、即位に不満をもつ勢力との争いもありました。</p>
<p>末の弟であるアリクブケがその一人で、同じく第5代皇帝を名乗りだしました。</p>
<p>この弟を領土から追い出し、1264年に権力を握ることに成功。</p>
<p>1267年には都を大都（現在の北京）に移して、1271年に<span class="marker">国の名前を中国風に「元」と改めました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
兄弟の間でも熾烈な争いがあったのですね。
</div>
</div></div>
<h3>中国を統一する</h3>
<p>国の改名には、中国を支配したいという思惑がありました。</p>
<p>当時の中国には南宋という国がありました。</p>
<p>南宋は水田や堀が多く、モンゴル帝国が得意としていた騎馬隊の力が発揮できず、長い間苦しんでいました。</p>
<p>しかし、1276年には臨安を占領して南宋を征服、<span class="marker">中国統一を実現しました。</span></p>
<div class="m50"></div>
<p>確実に周囲を征服し、モンゴル帝国を強固なものにしていきましたが、フビライは領土を拡大させるだけでなく、国際的な政治も進めました。</p>
<p>違う民族であっても優秀な人物を登用し、宮廷ではイスラム教徒を官僚に用いたり、異民族の力で商業を拡大させたり、運河の整備にも取り組みました。</p>
<p>この頃に有名なヨーロッパの商人マルコ・ポーロがフビライのもとを訪れ、様々な世界の情報を提供しました。</p>
<h3>元寇で日本を攻める</h3>
<p>フビライ・ハンで忘れてはいけないのが、2度にわたる日本への<span class="marker">「元寇（げんこう）」</span>です。</p>
<p>マルコ・ポーロの「東方見聞録」には日本の豊かさについて書かれており、フビライは日本に目をつけていました。</p>
<p>そこで6回にわたりモンゴル帝国への服属を求める使者を送りましたが、日本はこれに返答をしませんでした。</p>
<p>そして武力での侵攻に踏み切ります。</p>
<p>元寇は1274年の文永の役と、1281年の弘安の役の2度行われ、どちらも北九州に攻め込みました。</p>
<p>圧倒的な武力を保持していたモンゴル軍ですが、なんと<span class="marker">2度とも暴風雨により撤退を余儀なくされてしまいました。</span></p>
<p>神風が吹いたことで日本は危機的な状況を免れることができましたが、元寇に備えるために多大な負担が発生し、それが鎌倉幕府滅亡の原因のひとつとなりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
フビライの進行は日本に大きな影響を与えたのですね。
</div>
</div></div>
<h3>フビライの最期</h3>
<p>73歳になったフビライは、子どもたちに先立たれてしまい、危機的状況にいました。</p>
<p>それに追い打ちをかけるように、中国東北部を占領していた<a href="https://rekishigaiden.com/chingisuhan/">チンギス・ハン</a>の子孫ヤナンや周辺の民族が反乱を起こしました。</p>
<p>70歳を超えていたにもかかわらず、自ら戦場に赴き、反乱軍をあっという間に降伏させました。</p>
<p>最後までその圧倒的な力を発揮したフビライでしたが、1294年に79歳で生涯を終えました。</p>
<p>この年齢は当時としては異例の長命でした。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>フビライ・ハンのエピソード・逸話</h2>
<p>フビライ・ハンには<span class="marker">2桁を超える子どもがいました。</span></p>
<p>残されている書物によると、「集史」には12人、「元史」には10人と記載されています。</p>
<p>コンギラト族出身の子女チャプイやナムプイといった妃の他にも、複数の妃がいたといわれています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかし、もっとすごかったのは祖父の<a href="https://rekishigaiden.com/chingisuhan/">チンギス・ハン</a>です。</p>
<p>その子どもの数は、一説では100人を超えたといわれています。</p>
<p>さらに最近のオックスフォード大学の研究では、現在のチンギス・ハンの直径子孫は1,600万人を超えるという結果が出ました。</p>
<p>チンギス・ハンは数々の国を滅ぼしたときに、その国の多くの女性までも手に入れてしまったそうです。</p>
<p>近年の移民により、その遺伝子の影響力はヨーロッパにも及ぶといわれており、当時の偉大な力は現在も衰えることはないようです。</p>
<h2>4行でわかるフビライ・ハンのまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>モンゴル帝国の創設者である、チンギス・ハンの孫として生まれた</li>
<li>モンゴル帝国を「元」に改名し、中国統一など領地を拡大した</li>
<li>元寇で2度にわたり日本を攻めるが失敗に終わる</li>
<li>多くの子どもを残したが、祖父のチンギス・ハンはもっとすごかった</li>
</ul>
</div>
<p>現在のモンゴルはアジアの中のひとつですが、その昔の勢力は凄まじいものでした。</p>
<p>日本にも影響を与えた、フビライ・ハンについて知っていただけると幸いです。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>北条政子はどんな人？わかりやすく簡単に説明します</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/hojomasako/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 11 Aug 2019 12:03:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
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					<description><![CDATA[特に際立つのが「日本三大悪女」に列せられる日野富子、淀殿、そして今回ご紹介する北条政子です。 でも、北条政子の実像を知ると、そこまで悪女だろうかと疑問を感じます。 北条政子のプロフィール 北条政子は1157年生まれと推定]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>特に際立つのが「日本三大悪女」に列せられる日野富子、淀殿、そして今回ご紹介する北条政子です。</p>
<p>でも、北条政子の実像を知ると、そこまで悪女だろうかと疑問を感じます。</p>
<h2>北条政子のプロフィール</h2>
<p>北条政子は1157年生まれと推定されています。</p>
<p>父親の北条時政は伊豆を支配する有力豪族でした。</p>
<p>その真偽はさておき、時政本人は桓武平氏の末裔であると名乗っていたようです。</p>
<h3>源頼朝と結婚</h3>
<p>政子が生まれる2年前には、藤原氏の権力争いである保元の乱が起こっており、それをきっかけに<a href="https://rekishigaiden.com/tairanokiyomori/">平清盛</a>が台頭していました。</p>
<p>そして、政子3歳のときには平治の乱が起き、清盛は<a href="https://rekishigaiden.com/yoshitomo/">源義朝</a>を破って都での支配力を決定的にしています。</p>
<p>義朝の息子の<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>は、清盛から温情をかけられて伊豆へ流されました。</p>
<p>その頼朝の監視役とされたのが北条時政です。</p>
<p>頼朝と政子がどう出会ったのかはわかっていません。</p>
<p>ただ、<span class="marker">頼朝と政子が結婚</span>したのは、頼朝が伊豆へ流された17年後の1177年だと推定されています。</p>
<p>このとき政子は20歳で、当時としては晩婚でした。</p>
<p>時政は、時の権力者である平清盛の敵とも言える頼朝と娘の結婚に反対していたとも、将来を見込んで結婚を許したともいわれています。</p>
<h3>頼朝の死</h3>
<p>政子23歳のとき、<a href="https://rekishigaiden.com/goshirakawatenno/">後白河天皇</a>の皇子である以仁王が平家打倒を画策。</p>
<p>伊豆の頼朝にも挙兵を呼びかける知らせが届きました。</p>
<p>しかしそれが露見し、頼朝は先手を打って挙兵して、平家一門の山木兼隆を殺害。</p>
<p>その勢いをかって今の湯河原あたりまで進軍するものの、平家に連なる大庭景親に迎撃されて敗れ、千葉まで逃亡しました。</p>
<p>頼朝が千葉で兵を集め、武家の棟梁として担がれて、鎌倉に移動して独立政権をうちたてると、伊豆で待っていた政子も鎌倉に移り住み、後の鎌倉二代将軍・頼家を産んでいます。</p>
<p>そして、頼朝が征夷大将軍の綸旨を受けた1192年、後の三代将軍・実朝を出産。</p>
<p>1199年、政子42歳のとき、頼朝が死去します。</p>
<p>政子はそこで出家しました。</p>
<h3>幕府の実権を握る</h3>
<p>その後を息子の頼家が継いだものの、その数カ月後に御家人たちが合議制を定め、頼家専制を阻止。</p>
<p>その合議制の中には政子も組み込まれていました。</p>
<p>事実上傀儡となった頼家は北条氏を滅ぼすべく兵をさしむけようとするものの、北条に先手を取られ、政子は頼家から将軍職を奪い、出家させて、頼家の弟の実朝が将軍となりました。</p>
<p>北条時政は、将軍補佐役の執権に就任し、実権を握ろうとします。</p>
<p>政子はこのときは逆に父の陰謀を防ぎ、伊豆へ追放しています。</p>
<p>実朝は政子のサポートを得ながらも政権をうまく機能させていきますが、政子61歳のときに鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>その後、藤原家から将軍が迎えられることになります。</p>
<p>しかし、選ばれたのは2歳の子でした。</p>
<p><span class="marker">政子は将軍後見役となって、実権をふるいます。</span></p>
<p>1221年、院政を敷いていた<a href="https://rekishigaiden.com/gotobajoko/">後鳥羽上皇</a>は、朝廷権力を回復すべく挙兵。</p>
<p>これを受け、政子は幕府軍19万を京都へ向けて出陣させました。</p>
<p>幕府軍は上皇の軍を破って京都を占領。</p>
<p>政子は上皇を島流しにします。</p>
<p>その4年後、政子は病に倒れ死去しました。</p>
<p>享年69歳でした。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>北条政子は何をした人？</h2>
<p>北条政子は、将軍であった夫や子を相次いで亡くしながらも、その後を自らついで<span class="marker">鎌倉幕府を盤石なものへと育てました。</span></p>
<h3>尼将軍鎌倉政権を強化する</h3>
<p>北条政子は、夫・<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>が将軍職についてからもいろいろ進言をしています。</p>
<p>とはいえ、10歳年上の頼朝に対しては、ある程度控えめでした。</p>
<p>頼朝が鎌倉で武家の棟梁として事実上政権を樹立すると、政子は「御台所（みだいどころ）」と呼ばれるようになります。</p>
<p>これ以後、将軍の正妻は徳川幕府に至るまで御台所と呼ばれるようになりました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>頼朝の死後、政子は出家します。</p>
<p>しかし、将軍職についた18歳の息子・頼家は、専横と遊興が過ぎるため、政子は御家人の合議制の中に入り、幕府のコントロール役となりました。</p>
<p>頼家が北条を討とうとしたときは阻止し、北条が実朝から実権を奪おうとしたときも阻止しています。</p>
<p>それはつまり、家族の情よりも頼朝が建てた幕府を安泰にしたいという強い気持ちがあったからではないかと思われます。</p>
<p>実朝が暗殺された後は、傀儡として迎えられた将軍に代わり事実上の最高権力者となって<span class="marker">「尼将軍」</span>と呼ばれました。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/gotobajoko/">後鳥羽上皇</a>が挙兵したときは、男でも躊躇した上皇軍の討伐を決意しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
鎌倉幕府は、北条政子によって盤石になったと言っても過言ではないでしょう。</p>
<p>政子がいなければ、その後戦国時代をはさみながらも700年以上続く武家政権の時代はなかったかもしれません。
</p></div>
</div></div>
<h2>北条政子のエピソード・逸話</h2>
<p>尼将軍として、幕府のためなら息子や父まで追放を辞さない「鉄の女」北条政子。</p>
<p>その施策はある意味男らしいといえます。</p>
<p>しかし、反面女性らしいところも持ち合わせていました。</p>
<h3>超ヤキモチ焼き</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>、北条政子は平安時代と鎌倉時代にまたがって生きた人物です。</p>
<p>とはいってもこの時代区分は後世作られたもので、文化的にはまだ平安時代の気風が残っていました。</p>
<p>その一つが、一夫多妻制です。</p>
<p>頼朝は武士とはいっても天皇の血筋を持つ上流社会の人ですから、正妻の政子の他にも通う女性がいました。</p>
<p>特に、政子が頼家を妊娠中は亀の前という愛人に気持ちが傾いてしまったようです。</p>
<p>ところが政子はそれに嫉妬し、父の後妻の父親・牧宗親に亀の前の住居を襲撃させます。</p>
<p>さらに、亀の前に住居を提供していた頼朝の臣下の伏見広綱を流罪にしました。</p>
<p>あまりのことにビビった頼朝は、他の女のところへはこっそり通うようになりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
政子のこの嫉妬深さは、頼朝の子の数の制限につながり、頼朝の家系が実朝で途絶える原因ともなっています。
</div>
</div></div>
<h3>意外？な愛情の強さ</h3>
<p>頼朝と<a href="https://rekishigaiden.com/yoshitsune/">源義経</a>が対立したとき、義経の愛人である静御前が頼朝に捕らえられました。</p>
<p>政子に舞を所望された静御前は、義経を慕う歌に合わせて舞を踊ります。</p>
<p>頼朝はそれに激怒したものの、政子はその気持に同情を示し、頼朝をなだめました。</p>
<p>その後、静御前が身ごもっていた義経の子を産むと男子だったため、頼朝は殺害を命じます。</p>
<p>仇の子を生かしておくとどうなるか、それは頼朝自身がよくわかっていることでした。</p>
<p>政子は助命を願うもののこればかりは許されませんでした。</p>
<p>政子自身も何人も子を失っています。</p>
<p>特に、娘の大姫、息子の実朝を失ったときは、自らも死のうと思い悩むほど悲しんだといいます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
こうして見ると、嫉妬深さも含め、人一倍愛情が強い人だったのではないかと思えます。
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかる北条政子のまとめ</h2>
<p>鎌倉幕府を開き、武家の時代を作った源頼朝の妻・北条政子のまとめです。</p>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>流罪にされた源頼朝の監視役・北条時政の娘</li>
<li>頼朝とは恋愛結婚</li>
<li>夫、息子たち亡きあとは幕府の実権を握る</li>
<li>鎌倉政権を盤石にする</li>
</ul>
</div>
<p>北条政子は日本三大悪女に入れられることもあります。</p>
<p>でも、客観的にみてそんなに悪女でしょうか？</p>
<p>亀の前の一件は確かに理不尽です。</p>
<p>若い頃にはまだ感情の爆発を抑えられなかったのかもしれません。</p>
<p>でも、幕府の運営に関わるようになってからは、感情には流されない采配をとっているように見えます。</p>
<p>夫が残した幕府を守るため、自分の感情を抑える術を身に着けた賢い女性だったのではないかと思われます。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>源義経ってどんな人？源頼朝との関係やイケメン説・生存説など</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/yoshitsune/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/yoshitsune/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 09 Aug 2019 05:41:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=1027</guid>

					<description><![CDATA[源義経（みなもとのよしつね）といえば、「鵯越（ひよどりごえ）の逆落とし」や「八艘飛び」など数々の伝説を残しながら源平の合戦で大活躍。 しかし、兄の源頼朝に疎まれて自害に追い込まれた悲劇の英雄として有名ですが、どんな人物だ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>源義経（みなもとのよしつね）といえば、「鵯越（ひよどりごえ）の逆落とし」や「八艘飛び」など数々の伝説を残しながら源平の合戦で大活躍。</p>
<p>しかし、兄の<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>に疎まれて自害に追い込まれた悲劇の英雄として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。</p>
<p>平氏打倒のために協力することを約束しながら、なぜ互いに憎しみ合うようになってしまったのでしょう。</p>
<p>この記事では<span class="marker">源義経についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>源義経のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>源義経（みなもとのよしつね）</li>
<li>幼名：牛若丸（うしわかまる）</li>
<li>稚児名：遮那王（しゃなおう）</li>
<li>父：<a href="https://rekishigaiden.com/yoshitomo/">源義朝</a>（河内源氏の棟梁）</li>
<li>母：常盤御前（源義朝の側室）</li>
<li>享年31（1159年～1189年閏4月30日）</li>
</ul>
</div>
<h2>源義経は何をした人？</h2>
<p>源平の争乱における最大の功労者でありながら認められず、非業の死を遂げた源義経の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。</p>
<h3>義経の生い立ち</h3>
<p>平安時代末期、今まで権力を独占していた貴族の勢力が衰えると、各地で武士が台頭するようになりました。</p>
<p>なかでも、河内源氏の棟梁である<a href="https://rekishigaiden.com/yoshitomo/">源義朝</a>と伊勢平氏の棟梁である<a href="https://rekishigaiden.com/tairanokiyomori/">平清盛</a>が対立するようになります。</p>
<p>1159年、源氏と平氏が衝突した平治の乱が起こると、清盛が勝利して武士の頂点に立ちました。</p>
<p>平治の乱に敗れた源氏は処罰され、後継者である<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>は伊豆へ流罪となります。</p>
<div class="m50"></div>
<p>平治の乱が起こった1159年、源義経は<span class="marker">源義朝の9男として生まれ、牛若丸と命名されました。</span></p>
<p>牛若丸は<span class="marker">11歳で京都山中の鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗って育ちました</span>が、義朝の敵である平氏打倒を心に誓い、密かに武芸の鍛錬に励んだとされています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>一方、平治の乱に勝利した清盛は官位を得て上級貴族の仲間入りを果たし、一門を次々に高位高官に取り立て、莫大な富と強大な権力を握っていました。</p>
<p>朝廷を支配するようになった清盛は、娘の徳子を<a href="https://rekishigaiden.com/goshirakawatenno/">後白河法皇</a>の第7皇子である高倉天皇に入内させて、生まれた皇子を強引に即位させました。</p>
<p>安徳天皇の祖父として君臨するようになった清盛は、「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほど、絶大な権勢を誇るようになります。</p>
<p>そのころ、出家を拒否して鞍馬寺から逃げ出した遮那王は、自らの手で元服を行い、源義経と名乗るようになりました。</p>
<h3>義経と治承・寿永の乱</h3>
<p>1180年、<span class="marker">奥州藤原氏の当主である藤原秀衡を頼って平泉にいた義経</span>のもとに、伊豆に流されていた異母兄の<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>が平氏打倒を掲げて挙兵したという知らせが届きます。</p>
<p>知らせを聞いた義経は、わずかな従者を率いて頼朝のもとへ向かいました。</p>
<p>富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣で初めて対面した義経は、これまでの苦難を語り合って涙を流し、<span class="marker">平氏打倒のために協力することを誓います。</span></p>
<p>義経と範頼（義朝の6男）に軍の指揮を任せた頼朝は、鎌倉に拠点を置いて東国の管理に専念しました。</p>
<p>このころ、朝廷の地位を独占し、貴族と同じように厳しい年貢を取り立てる平氏に不満を抱いた武士が全国各地で挙兵するようになっていました。</p>
<p>貴族のやり方を踏襲して反感を買った平氏に対して頼朝は、貴族のものとされていた土地の支配権を武士に与えることで信頼を得ていきます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>1181年、<a href="https://rekishigaiden.com/tairanokiyomori/">平清盛</a>が亡くなると、平氏の権勢は急速に衰えていきました。</p>
<p>1183年、倶利伽羅峠の戦いで<a href="https://rekishigaiden.com/kisoyoshinaka/">木曽義仲</a>に敗れた平氏は京都から逃れ、勢力基盤の西国で力を蓄えて再起をはかります。</p>
<p>平氏を京都から追いだした義仲は、<a href="https://rekishigaiden.com/goshirakawatenno/">後白河法皇</a>と対立したことと、軍勢が狼藉を働いたことで反感を買い、頼朝に義仲追討が命じられました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>1184年、<span class="marker">宇治川の戦いで義仲の軍勢を討った義経</span>は、一躍その名を上げました。</p>
<p>そして、平氏追討の命令を受けた義経は、西国で勢力を回復して福原（兵庫県神戸市）まで迫っていた平氏の大軍に挑みます。</p>
<p>そのころ、平氏は瀬戸内海と険しい山に挟まれた天然の要害である一の谷に陣を張っていました。</p>
<p>一の谷に向かった義経は本隊と別れ、70騎の精兵を率いて平氏軍の背後にまわり、険しい崖の上から平氏軍のいる谷底へと一気に駆け下りました。</p>
<div class="concept-box6">
<p>「鹿が通れるなら馬も通れるだろう」と崖下りを強行した奇襲は、「鵯越の逆落とし」と呼ばれています。</p>
</div>
<p>まさか崖を下ってくることはないだろうと油断していた平氏軍は大混乱に陥り、海へと敗走していきました。</p>
<div class="m50"></div>
<p><span class="marker">一の谷の戦いに勝利した義経</span>は、後白河法皇から検非違使（京都の治安維持にあたる役職）に任命されます。</p>
<p>義経は官位を受けることは源氏にとって名誉なことだと考えていましたが、<span class="marker">頼朝は許可を得ずに官位を受けたことに激怒</span>し、平氏追討軍から外してしまいました。</p>
<p>その後、頼朝は新たな追討軍を派遣しましたが苦戦を強いられたため、義経は再び出陣するように命じられます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>そのころ、平氏は屋島（香川県高松市）を本拠地とし、瀬戸内海の水軍のほとんどを支配下に置いて、体制の立て直しをはかっていました。</p>
<p>源氏軍の苦戦が続いていたことから出陣を急いだ義経は、わずか5艘の船で暴風雨のなかを出港し、阿波国勝浦に上陸して平氏軍の背後に忍び寄り、周辺の民家に火を放って大軍が襲って来たようにみせかけて攻め込みます。</p>
<p>海上からの攻撃を想定していた平氏軍は、義経の奇襲によってまたもや大混乱に陥り、海へと敗走しました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>1185年、<span class="marker">屋島の戦いに義経が勝利</span>すると、伊予の河野水軍が義経に合流することを求めるなど、瀬戸内海の水軍は源氏の方が平氏より優勢であると考えるようになります。</p>
<p>水軍を味方につけた義経は840艘の船を率いて平氏の拠点である彦島へ向かい、ついに源氏と平氏の最後の決戦である壇ノ浦の戦いが始まりました。</p>
<p>開戦当初、西から東への潮の流れにのった平氏軍が攻め込んで来たので、義経は平氏軍の船頭を狙い討つことで応戦していましたが、潮の流れが逆転すると一気に反撃に出ます。</p>
<p>その結果、平氏軍の主力だった阿波水軍300艘が源氏方に寝返り、平氏軍は窮地に陥ってしまいました。</p>
<p>このとき、平氏の猛将である平教経は義経を捕らえて道連れにしようとしましたが、義経は船から船へと飛び渡って逃げた（「八艘飛び」伝説）とされています。</p>
<p>敗北を悟った平氏一門は、安徳天皇と天皇家の正統を表す「三種の神器」もろとも次々に入水して滅亡しました。</p>
<p>頼朝の挙兵から壇ノ浦で平氏一門が滅亡するまでの内乱のことを<span class="marker">治承・寿永の乱</span>といいます。</p>
<h3>頼朝と義経の対立</h3>
<p>壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後、<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>は許可を得ずに官位を受けた者に、東国への帰還を禁じるという厳しい処分を下しました。</p>
<p>さらに、梶原景時から「義経が平氏追討の功績を自分一人のものにしている」という報告が届き、頼朝は義経に不信感を抱くようになります。</p>
<div class="m50"></div>
<p>一方、頼朝の気持ちを知らない義経は捕虜を護送して鎌倉に向かっていましたが、頼朝の命令によって鎌倉に入ることを許されませんでした。</p>
<p>義経は鎌倉郊外の山内荘腰越（現在の鎌倉市）にある満福寺で鎌倉に入る許可を待ちましたが、返答はいっこうにありません。</p>
<p>そのため、義経は頼朝に「腰越状」と呼ばれる手紙を書き、情に訴えて許しを乞いました。</p>
<ul>
<li>義経が許可を得ずに官位を受けたこと</li>
<li>梶原景時の意見を聞かずに独断で物事を進めたこと</li>
<li>頼朝を通さずに東国武士を処罰したこと</li>
</ul>
<p>など、義経の自由勝手な振る舞いに対して怒りを覚えていた頼朝は返事を書きませんでした。</p>
<h3>謀反を起こした義経</h3>
<p>鎌倉へ入ることを許されなかった義経は京都へ帰ることにしましたが、このとき「鎌倉に不満がある者は私についてこい」と言い放ちました。</p>
<p>これを聞いた<a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>は義経の所領を取り上げて、追い打ちをかけます。</p>
<p>さらに、義経が京都で謀反を企てているのではないかと疑った頼朝は、義経の身辺を探るために密偵を放ちました。</p>
<p>頼朝が自分を狙っていることを知った義経は<a href="https://rekishigaiden.com/goshirakawatenno/">後白河法皇</a>から頼朝追討の院宣を得て挙兵したが、頼朝が大軍を率いて鎌倉を出発すると、義経追討の院宣が出されたため、京都から逃亡します。</p>
<h3>義経の最後</h3>
<p>1187年、義経は藤原秀衡を頼って平泉に身を寄せていましたが、秀衡が亡くなり、後を継いだ藤原泰衡に、頼朝は義経を捕らえるように圧力をかけました。</p>
<p>秀衡は「義経を主君として仕え、兄弟が結束して、頼朝の攻撃に備えるように」と遺言を残していましたが、頼朝の圧力に屈した泰衡は義経の館を襲撃します。</p>
<p>義経は<a href="https://rekishigaiden.com/benkei/">武蔵坊弁慶</a>などと必死に防戦しましたが<span class="marker">泰衡軍に囲まれ、自害しました。</span></p>
<h2>源義経のエピソード・逸話</h2>
<h3>本当にイケメンだった？</h3>
<p>義経といえば色白の美男子というイメージが定着していますが、肖像画をみる限り美男子とはいえないような……。</p>
<p>『平家物語』には「色白で背が低い出っ歯」とされていますが、これは平氏方の武将が証言していることなので、わざと悪くいっている可能性もありますが、他にも義経が非力だったとされる記述もあります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
実際、義経がどのような容姿をしていたのかは分かりませんが、義経を美男子だとしている『義経記』が義経の容姿を知る人がいない室町時代に完成したものであることから、悲劇の英雄が美男子だったことを強調することで物語を盛り上げたのではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>義経生存説</h3>
<p>義経が非業の死を遂げたことから、義経は衣川で死んでおらず、奥州から蝦夷地に逃がれたという生存説が生み出されました（義経北方伝説）。</p>
<p>そのなかでも、蝦夷地を抜け出して大陸に渡った義経が成吉思汗（ジンギスカン）となったとする「義経＝<a href="https://rekishigaiden.com/chingisuhan/">チンギス・ハン</a>説」という奇妙な説があります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
この説は学術的には完全に否定されていますが、後にチンギス・ハンの子孫が元寇で鎌倉幕府を攻撃してきたことを考えると、義経の無念につながってしまいます……。
</div>
</div></div>
<a href="https://rekishigaiden.com/chingisuhan/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/08/chingisuhan-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="チンギス・ハン" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">チンギスハンってどんな人？源義経と同一人物って本当？</span><span class="blog-card-excerpt">モンゴル帝国を開いたことで有名なチンギス・ハンはどのような人物だったのでしょうか？

帝国を築くまでの生い立ちやその活躍、エピソード...</span></div></div></a>
<h2>源義経のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>源義朝の9男として生まれ、牛若丸と命名される</li>
<li>11歳で鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗って育つ</li>
<li>出家を拒否して鞍馬寺から逃げ出し、藤原秀衡を頼って平泉に身を寄せる</li>
<li>挙兵した頼朝のもとに駆けつけ、平氏打倒のために協力することを誓う</li>
<li>宇治川の戦いで木曽義仲を討つ</li>
<li>奇策を用いて一の谷の戦い、屋島の戦いに勝利し、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす</li>
<li>許可を得ずに官位を受けたことと、自由勝手な振る舞いをしたことで頼朝の怒りを買う</li>
<li>頼朝追討のために挙兵するが、後白河法皇が義経追討の院宣を出したため、逃亡する</li>
<li>藤原泰衡の裏切りによって自害する</li>
</ul>
</div>
<p>源平の争乱で大活躍した義経は、戦上手ゆえの独断専行によって、頼朝との間に亀裂が生じ、非業の死を遂げることになりました。</p>
<p>日本の歴史のなかでも悲劇の英雄として人気が高い義経は、後白河法皇から判官（ほうがん）に任じられていたことから、弱いものに同情して応援することを「判官贔屓」といいます。</p>
<p>義経のイメージが美男子とされていることや、チンギス・ハンになって生き延びたとされたのも判官贔屓なのかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>道元禅師の生涯と逸話に迫る！曹洞宗を広め永平寺を開く</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/dogen/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 31 Jul 2019 03:01:36 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=964</guid>

					<description><![CDATA[日本に仏教が伝えられたのは、お釈迦様の没後から1000年以上後。 中国へ伝来してからも600年以上経ってから、百済を通じてやっと日本まで伝わって来ました。 日本への伝来以後、信仰というよりは政治的に利用されることが多かっ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本に仏教が伝えられたのは、お釈迦様の没後から1000年以上後。</p>
<p>中国へ伝来してからも600年以上経ってから、百済を通じてやっと日本まで伝わって来ました。</p>
<p>日本への伝来以後、信仰というよりは政治的に利用されることが多かった仏教が、民衆の間に広まるようになってきたのが平安時代末期から鎌倉時代にかけてです。</p>
<p>仏教が日本の民衆の信仰になっていく過程で、現在まで伝わる様々な仏教宗派が成立していきました。</p>
<p>その中の一つ、曹洞宗の日本での祖となったのが道元禅師です。</p>
<h2>道元のプロフィール</h2>
<p>道元（どうげん）の出生は、鎌倉時代が始まって間もない1200年だといわれています。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/minamotonoyoritomo/">源頼朝</a>が死んでから1年後です。</p>
<p>父親は源通親という説と堀川通具という説があります。</p>
<div class="concept-box6">
<p>源通親は頼朝の清和源氏とは別系統の村上源氏で、朝廷で内大臣を務めた公家。</p>
<p>堀川通具はその息子です。</p>
</div>
<h3>天台宗で出家したのち禅に出会う</h3>
<p>14歳のときに、<span class="marker">天台座主（天台宗の一番えらい人）公円の下で出家。</span></p>
<p>その後、現在一般には三井寺として知られる滋賀県の園城寺で公胤阿闍梨より天台宗について学びます。</p>
<p>17歳の時に公胤のすすめで<span class="marker">禅宗の一派・臨済宗の明全禅師に師事。</span></p>
<div class="concept-box6">
<p>明全は、天台宗出身で、中国で臨済宗を学んだ栄西の弟子です。</p>
<p>栄西は道元が15歳のときに亡くなっています。</p>
</div>
<h3>中国へ禅の修行に行き曹洞宗に出会う</h3>
<p>23歳になった道元は、中国（当時は宋）に修行に行く明全にともなって渡宋。</p>
<p>ただ、宋に渡って以降は明全とは別れ、自らの師を求めてまわりました。</p>
<p>現在の浙江省まで赴いた道元は、<span class="marker">曹洞宗の僧・天童如浄禅師と出会い師事</span>します。</p>
<p>如浄禅師のもとで修行し、悟りを開いた道元は、27歳で帰国。</p>
<p>その帰国の折に、宋で死去した明全の遺骨をたずさえていたといいます。</p>
<h3>帰国後は京都で布教するも弾圧される</h3>
<p>帰国後の道元は、明全のもとで修行した<span class="marker">京都東山の建仁寺に間借りして、日本では新しい曹洞宗の布教を始めました。</span></p>
<p>後に建仁寺を出て草庵を結び、修行と布教につとめます。</p>
<p>そして33歳のとき、京都の宇治に、日本初めての曹洞宗の道場・興聖宝林寺を建立しました。</p>
<p>道元のもとへ、多くの弟子が集まり、曹洞宗は大きく育っていきます。</p>
<p>曹洞宗の勢力拡大に危機感をもった<span class="marker">比叡山は道元を弾圧。</span></p>
<p>比叡山延暦寺は、高位の僧侶の下に僧兵を持ち、朝廷にまでゆすりたかりを行うような組織でした。</p>
<p>道元への弾圧も、僧兵による暴力という形で行われています。</p>
<h3>永平寺を開く</h3>
<p>そんな道元をみかねた越前の地頭・波多野義重は、道元を越前の吉峰寺に招き入れました。</p>
<p>その翌年、道元44歳のとき、道元は吉峰寺の近くに傘松峰大佛寺を開基。</p>
<p>2年後に大佛寺を<span class="marker">永平寺</span>と改めています。</p>
<h3>北条時頼に禅を指導する</h3>
<p>48歳ごろ、波多野義重の紹介で時の執権・<span class="marker">北条時頼に仏法を教化する</span>ため鎌倉に赴いて、半年ほど滞在しました。</p>
<p>北条時頼の庇護を受けた曹洞宗は、これ以後鎌倉武士たちに広く信仰されるようになります。</p>
<p>53歳、病を得た道元は法統を弟子の懐奘に譲り、その翌年在家弟子の家で亡くなりました。</p>
<h2>道元は何をした人？</h2>
<p>道元禅師は、<span class="marker">中国で学んだ曹洞宗というそれまで日本になかった新しい禅の修行と布教に半生を捧げた人</span>です。</p>
<h3>日本に「只管打坐」の禅風を伝える</h3>
<p>日本に初めて禅をもたらしたのは、道元の師の師である栄西です。</p>
<p>栄西の禅は臨済宗で、これは禅問答によって理屈を超えた悟りを得るという修行が主になります。</p>
<p>それに対して、道元が伝えた曹洞宗は<span class="marker">「只管打坐（しかんたざ）」</span>。</p>
<p>お釈迦様は菩提樹の下で座禅をすることで悟りを開きました。</p>
<p>それに習い、ひたすら座禅に打ち込むというスタイルです。</p>
<p>ただ、道元は曹洞宗が「禅宗」にカテゴライズされるのを嫌い、この「只管打坐」こそが正統の仏教であると主張していました。</p>
<h3>「日本人の習慣」を作る</h3>
<p>朝起きたら顔を洗い、歯を磨く。</p>
<p>現代の日本でごく当然のように行われている習慣です。</p>
<p>でも、鎌倉時代にはそれは当然ではありませんでした。</p>
<p>特に、当時の日本人には洗顔という習慣はなかったようです。</p>
<p><span class="marker">中国で洗顔という文化を知った道元は、それを弟子にも行わせ、また、楊枝を使ったオーラルケアを広めました。</span></p>
<p>中国禅では日常生活を僧たちが自ら行い、その生活そのものも修行であると考えます。</p>
<p>曹洞宗でも、座禅のほかに掃除なども修行として行われました。</p>
<p>自らの生活空間は自ら清潔にする。</p>
<p>この思想は、学校の掃除は生徒が自ら行うという日本では当たり前の文化として広まっています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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現代日本人にとって普通になっている習慣の中には、このように道元を祖とするものがいろいろあります。
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<h2>道元のエピソード・逸話</h2>
<p>道元には、<a href="https://rekishigaiden.com/ikkyu/">一休</a>のような奇矯さもなければ、<a href="https://rekishigaiden.com/shinran/">親鸞</a>のような煩悩と信仰を結びつけて悩む人間臭さもありません。</p>
<p>一言で言うならただ真面目というのが道元です。</p>
<p>道元が説くのは当たり前のこと。</p>
<p>そこにはあまり面白みはありませんが、心には響きます。</p>
<h3>奇跡を起こさない禅僧</h3>
<p>宗教にまつわる奇跡譚は数多くあり、また人は宗教に奇跡を求めるものです。</p>
<p>しかし、<span class="marker">曹洞宗はただ日常を修行として生き、ただ座禅を組んで仏に近づくという修行体系であり、奇跡とはまったく無縁</span>です。</p>
<p>弾圧されたら相手に仏罰が下ったなどということもなく、道元は争いを避けて逃げるだけでした。</p>
<p>道元にこんなエピソードがあります。</p>
<div class="simple-box6">
<p>越前に移った道元のもとに、病気の赤ん坊を抱えた女性が助けを求めてきました。</p>
<p>薬を飲ませてもよくならず、今にも命を落としそうな赤ん坊。</p>
<p>母親は、道元が宗教的な奇跡によって助けてくれることを願ったのです。</p>
<p>道元はその母親に「家族が一人も死んだことがない家を探し、豆をもらってきなさい」と告げます。</p>
<p>藁にもすがる思いで村の家々を周る母親。</p>
<p>しかし、家族が誰も死んだことがない家などあるはずがありません。</p>
<p>そうこうしているうちに赤ん坊は命を落とします。</p>
<p>道元は母親に、家族を失った悲しみは誰しも味わうことであり、その悲しみは事実として受け入れるしかないということを教えたのでした。</p>
</div>
<h3>ご飯を作るのもまた修行</h3>
<p>道元の著書に<span class="marker">『典座教訓』</span>があります。</p>
<p>典座というのはお寺の食事係。</p>
<p>その典座を通し、食事という日常がどれだけ大切かを説きました。</p>
<p>道元が典座の重要さを知ったきっかけは『典座教訓』に記してあります。</p>
<div class="simple-box6">
<p>道元が如浄禅師のもとで修行していたおり、ある典座が仏殿の前で苔を干していました。</p>
<p>この苔というのは海藻だともきのこだとも考えられています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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要するに保存食を作っていたのですね。
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<p>どうやら暑い日だったようですが、笠もかぶらず、杖をつきながら汗だくになって苔を干していました。</p>
<p>道元が典座に歳を尋ねると68歳だといいます。</p>
<p>そこで、道元が「どうして使用人にやらせないのですか？」と聞くと、「他人は自分ではないではないか」と答えます。</p>
<p>さらに「こんなに暑いのだから日が落ちてからやればいいのでは？」と聞くと「今ではなくいつやればいいのか」との答え。</p>
<p>つまりこれは、修行とは人まかせではなく、また時期を見てするものでもないということで、そこに道元は禅の修行の真髄を見たのです。</p>
</div>
<p>食事係といういわば下働きに、禅の真理があることを知った道元は、「典座とは、悟りを求める志が高い人がなるものであり、また典座の仕事は修行そのものである」と書き記しています。</p>
<h2>5行でわかる道元のまとめ</h2>
<p>日本に新しい仏教体系をもたらした道元禅師のまとめです。</p>
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<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>天台宗で出家したのち禅に出会う</li>
<li>中国まで禅の修行へ行き曹洞宗に出会う</li>
<li>帰国後京都で布教するが弾圧され、越前へ</li>
<li>越前に永平寺を開く</li>
<li>執権北条時頼に禅を指導する</li>
</ul>
</div>
<p>道元禅師は表面的には真面目すぎて面白みがない人に思えます。</p>
<p>でも、その思想にふれるとだんだん魅力にひかれるようになり、今生きていたら教えを授かりたいと思わせられます。</p>
<p>多くの弟子が京都から越前まで付き従ったのも、道元禅師の人間的魅力あればこそだったかもしれません。</p>
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