新田義貞は南北朝時代の主人公の一人です。
足利尊氏と比較されることが多いですが、尊氏とはまったくタイプの違う典型的な武士、それが新田義貞です。
不器用な人、といえるかもしれません。
今回は新田義貞にスポットを当てていきます。
まずは、彼の生涯を振り返ってみましょう。
目次
新田義貞のプロフィール
- 生年 不明(1301年ごろ?)
- 死没 1338年閏7月2日
新田義貞は上野(群馬県)の御家人です。
新田氏は、源義家の三男・義国にさかのぼる武家の名門です。
義国の長男・義重のときに上野国の新田荘を領し、「新田」氏を名乗り始めました。
義貞の父は新田朝氏(ともうじ)で、45歳で亡くなっています。
義貞の兄弟としては弟の脇屋義助が有名です。
兄・義貞を支え、数々の戦場をともにし、義貞死後も南朝側の中心となって北陸地方で転戦しました。
義貞の生年は1301年ごろと推測されていますが、確定はされていません。
ただ、その前後とみて間違いないでしょう。
鎌倉幕府体制のもとで成長し、御家人としてその一翼を担う立場にあった義貞は、元弘の乱において幕府の命令で
楠木正成討伐にも参加しています。
義貞は30歳前後でした。
鎌倉幕府を滅亡させる
1333年3月には幕府の許可を得ずに兵をまとめて勝手に上野国に帰ってしまいます。
許可なく戦線離脱するのは、明白な反逆行為です。
「太平記」では、義貞がひそかに後醍醐天皇の綸旨を受け取り、倒幕の密勅を下されたように書いていますが、はたしてどうでしょう。
その点は不明ですが、勝手に軍を引き上げた義貞の行動は完全に反逆であることは誰の目にも明らかでした。
幕府も義貞に疑惑の目を向け、圧力を強めていきます。
義貞も決断を迫られます。
1333年5月、義貞はついに挙兵し、反幕府の姿勢を示しました。
各地の反幕府勢力が義貞のもとに結集し、大勢力となった義貞軍は幕府軍を各地で破り、ついに鎌倉幕府を滅亡させます。
足利尊氏との対立
建武の新政が開始されると、幕府を滅ぼした直接の功労者である義貞と、新政府に対する不満を吸い上げて勢力拡大する足利尊氏との対立が、誰の目にも明らかになってきます。
1335年、北条氏の残党による中先代の乱を平定した足利尊氏は、戦後処理を新政府の裁可を得ずに独断で実行します。
この尊氏の行動を問題視した新政府は、尊氏の行動を反逆と決定し、新田義貞をして討伐にむかわせます。
尊氏と義貞は竹ノ下で激突し、義貞は敗北し、尊氏の追撃を許してしまいます。
一度は楠木正成や北畠顕家らと尊氏を九州に追放しますが、勢力を回復した尊氏によって湊川で大敗し、京都を尊氏に奪われました。
このとき、後醍醐天皇は足利尊氏とひそかに和議を結ぼうとし、そのことを義貞には伝えずに和平工作を進めようとしていました。
義貞は蚊帳の外に置かれた格好です。
命を懸けて新政府のために戦ってきた義貞とその一門は激怒します。
軍勢を率いて後醍醐天皇に直談判におよび、このとき天皇は、和平工作は敵の目を欺くための計略である、とその場を取り繕います。
この一件で後醍醐天皇への信頼もゆらいでしまったのでしょうか、この後、義貞は皇子の恒良親王を擁して北陸へ転戦することになります。
金ヶ崎城(福井県敦賀市)を拠点として越前で勢力固めを計画しますが、足利軍の攻撃により金ヶ崎城は落城し、恒良親王も捕虜となってしまいました。
義貞はどうにか脱出に成功し、その後も越前で転戦しますが、もはや昔日の勢いを取り戻すことはできませんでした。
1338年、藤島城(福井市)付近での戦闘で負傷し、これまでと観念して自害して果てました。
1301年生まれであれば、享年38歳でした。
新田義貞は何をした人?
生品神社で挙兵
新田義貞が鎌倉幕府に対して挙兵したのは1333年5月8日、生品神社(群馬県太田市)においてです。
このとき、義貞に付き従ったもの、およそ150騎と伝えられています。
挙兵した義貞軍は、各地から集まる反幕府軍を糾合して、利根川を渡って武蔵国(埼玉県)に入ったころには20万以上の軍勢に膨れ上がっていたと「太平記」にあります。
大軍となった義貞軍は、いよいよ幕府軍の主力と激突することになるのです。
分倍河原の戦い
すさまじい大軍となって南下する義貞軍に対して、幕府とて、ただ手をこまねいて見ていただけではありません。
桜田貞国を大将とする幕府の主力が北上して義貞軍を迎え撃ちます。
義貞軍は幕府軍を小手指原の戦い、さらに久米川の戦いで続けざまに破り、幕府軍を退却に追い込みます。
しかし、幕府は援軍として北条泰家を派遣し、多摩川の分倍河原(東京都府中市)まで進軍し、撤退してきた桜田貞国と合流して態勢をととのえ、義貞軍を迎撃しようとします。
5月15日、両軍はついに刃を交えます。
戦況は幕府軍に有利に進展します。
義貞軍は敗走し、堀兼(狭山市)まで退却を余儀なくされます。
しかし、相模の大多和義勝が幕府を裏切って義貞軍に与すると、形成は逆転します。
16日、義貞軍の奇襲を受け、幕府軍は崩壊し、勝敗は決しました。
同時に、鎌倉幕府の運命もここに決まったのです。
足利尊氏とのライバル関係
足利尊氏とのライバル関係は、建武の新政直後から始まっています。
そもそも新田家は、足利家と並ぶ武家の名家であり、両者は好敵手として世間に認められていたようです。
鎌倉を攻略し、幕府に引導を渡したのは義貞でしたが、武家の棟梁として世間が心を寄せたのは、足利尊氏のほうでした。
確かに、尊氏が後醍醐天皇側について京都の六波羅を滅ぼしたとき、情勢は決定的となったといえます。
しかし、義貞の鎌倉攻略も簡単におこなわれたわけではありません。
義貞が決起したとき、手勢はわずか百数十騎だったと伝えられています。
義貞が滅ぼされるリスクは、決して低いとはいえなかったのです。
それでも、人心は水が低いところに流れるように、足利尊氏に集まっていくのです。
義貞は内心、面白くなかったでしょう。
両者が比較されればされるほど、両者の溝は深まっていきました。
やがて建武政権に公然と背くようになった尊氏を、義貞が政府軍として討伐する情勢となります。
両者はついに、竹ノ下(静岡県)で一戦を交えます。
この戦いでは、勢いに乗る尊氏軍が義貞を圧倒し、義貞は退却を余儀なくされます。
義貞を追撃する尊氏は、そのまま京都まで攻め上りますが、このときは楠木正成・北畠顕家らによる活躍で尊氏を退けることに成功しました。
しかし、それもつかの間の勝利にすぎません。
勢力を回復した尊氏によって楠木正成は討ち取られ、義貞も京都から越前(福井県)へと活動の場を変えざるを得なくなります。
新田義貞のエピソード・逸話
稲村ケ崎で刀を海に投ずる
これは、鎌倉幕府攻めのクライマックスでの出来事です。
分倍河原での合戦に勝利した義貞軍は多摩川を渡り、ゆく先々で幕府軍を蹴散らし、まさに破竹の勢いで鎌倉へと殺到しました。
しかし、鎌倉は海と山に囲まれた天然の要塞です。
さすがの義貞もここにきて攻めあぐねてしまいます。
鎌倉の西側にある極楽寺方面での膠着状態を打開するため、義貞みずから援軍として稲村ケ崎に展開します。
幕府とて必死です。
義貞軍に対する備えは万全でした。
稲村ケ崎沖には軍船を配備し、義貞軍を通過させまいとします。
しかも、稲村ケ崎は道路が狭く、大軍が通過することはできません。
しかし、5月21日、義貞は干潮の時を狙って軍を一気に突破させます。
このときのエピソードが、義貞が黄金の太刀を海に投じて龍神に捧げ、その力で大軍が渡れたというものです。
もちろん、これは義貞のパフォーマンスですが、義貞が干潮の時刻を把握した上で、こういったパフォーマンスを行ったというのはなかなかしたたかな行為です。
「太平記」でもこのエピソードは紹介されていますが、当時有名なものだったのでしょう。
惜しむらくは、義貞がこのような人心収攬術をこれ以降ほとんど使った形跡がないことです。
この鎌倉攻略が、義貞の人生において重荷になってしまったのかもしれません。
それほどの大戦果だったからです。
典型的な武士型性格
新田義貞は、真面目な性格だったのでしょう。
状況によっては、その真面目な性格が頑迷さとしてあらわれ、戦況を左右することにもなります。
基本的には大軍の将をつとめる器ではないといえます。
湊川の合戦の際も、世間の評判や総大将としての重圧などを吐露して楠木正成に窘められています。
また、何度か足利尊氏に一騎打ちを挑んで勝敗を決しようとするなど、指揮官らしからぬ振る舞いが目立ちます。
4行でわかる新田義貞のまとめ
- 鎌倉を攻略し、鎌倉幕府を滅ぼした
- 南朝側の総大将として、足利尊氏としばしば激突した
- 政治的遊泳術を苦手とする不器用な性格だった
- 福井県の藤島神社にいまも祀られている
新田義貞は、社会が大きく変わろうとする時代の主人公の一人です。
彼は、きわめて重要な役を演じました。
しかし、それは彼にとって演じたくない役柄だったのかもしれません。
彼の人生から感じるのは、自分が望んでいない役を演じなければならなかった者の悲劇です。
そう考えれば、新田義貞は私たちにとって遠い存在ではありません。
私たちも、望まない役を押し付けられているかもしれないからです。